地下には恐ろしいものがいる、たぶん
◇
誓約の間を出たあともしばらく、リアンノンは無言だった。
北棟へ戻る回廊を、イヴァが隣でゆっくり歩く。
しばらくしてから、彼女が柔らかく尋ねた。
「怖かった?」
リアンノンは考えた。
誤魔化す必要はない。
「……ええ」
「そう」
「でも」
自分でも意外なほど、言葉はすぐに出た。
「分かりやすかったです」
イヴァが目を細める。
「何が?」
「何を奪われたかも、何を破ったかも、何が罰になるかも、全部表に出ていたので」
地下工房では違った。
奪われても、愛だと言われた。
働かされても、家族だからと笑われた。
名を盗まれても、育ててもらった恩を忘れるなと返された。
けれど、さっきの裁きにはそれがない。
優しさはなかった。だが、少なくとも嘘もなかった。
「……ここは怖い国です」
リアンノンはぽつりと零す。
「でも、筋は通っています」
イヴァはしばらく何も言わなかった。
やがて、ごく静かに笑う。
「ええ。わたくしたちはたぶん、そういう怪物なのよ」
そのときだった。
回廊の先、下階へ降りる格子窓の向こうから、低い唸り声が響いた。
獣のような。
けれど、ただの獣ではない、もっと苦しげな音。
リアンノンは足を止める。
「……今のは」
「ああ」
イヴァが何でもないことのように答える。
「下層の拘束房ね。戦で捕らえた人狼や暴走種を繋いであるの」
「繋いで……?」
「ええ。危険だから」
さらりとした口調だった。
リアンノンは格子窓の下を覗き込む。
石造りの中庭のさらに下、半地下の柵の向こうで、大柄な影が暴れていた。
灰色の毛並み。人の形を半ば残した巨大な身体。首には黒鉄の環が嵌められ、そこから伸びる鎖に紫黒い呪光が走っている。
人狼だ。
しかも、ただ拘束されているのではない。
首環が魔力を吸い上げ、暴走を抑える代わりに自我まで削っている。
「……あれも契約ですか」
その問いに、イヴァは首を横に振った。
「いいえ。あれは所有」
短い言葉だった。
それだけで、リアンノンが理解するには十分だった。
戦で捉えられた者がいるという話ではあったが、それは捕虜を意味していない。
おそらく吸血鬼たるこの国の支配者たちは、「勝利して得たもの」としてあの人狼を認識している。
リアンノンのような職人としての契約でも、食事たる血を提供する者としての契約でもない。
ただ、戦利品であるからここに置いてあるだけのものなのだ。
リアンノンの視線が、首環へ吸い寄せられる。
鎖でも、牙でも、苦鳴でもなく、環のほうへ。
「…………?」
刻印の流れが、妙だった。
抑制陣のはずなのに、循環が片側へ偏っている。暴走を止めるのではなく、無理に押し潰している構造だ。しかも形式が古い。使われ続け、継ぎ足され、もはや誰も最初の設計を理解していない類の壊れ方をしている。
「……壊れている」
思わず呟くと、イヴァが扇を止めた。
「首輪が?」
「ええ。たぶん、あれのせいで余計に――」
そこまで言いかけて、リアンノンは口をつぐむ。
まだ彼女は何も知らない。持ち主も、来歴も、そして対策を進言するだけの裁量権も。
勝手に踏み込んでよい領分ではなかった。
けれど、目は離せない。
人狼は再び唸り、鎖を鳴らす。
黒い首環が喉へ食い込むたび、紫黒い光が魔力を吸い上げ、その身体から何か大事なものまで削っているように見えた。
「随分見入っているけれど、気になるの?」
イヴァが横目で問う。
「……はい」
「でしょうね」
イヴァはため息にも似た笑みを漏らした。
「あなた、壊れたものを見つけると、放っておけないお顔をするもの」
それは否定できなかった。
「ただ、あそこはあまり軽々しく口を挟める場所ではないわ。当然、足を踏み入れることもね。城にとっては実用品の保管庫みたいなものだもの」
実用品。
その言い方に、リアンノンの胸の奥で小さく何かが引っかかった。
物と、人の境目が曖昧だ。
この国はそういう意味で、どこまでもドライだった。
「……分かっています」
本当は、あまり分かりたくなかった。
だが見えてしまった以上、知らなかったことにもできない。
イヴァはリアンノンの横顔をしばらく見つめ、それからふっと表情を和らげた。
「今日はもう、ここまでにしましょう。情報料としてはずいぶん上等だったでしょう?」
「ええ」
「代金に見合っていたかしら?」
リアンノンは少しだけ考え、素直に頷いた。
「とても」
「それなら良かった」
イヴァは満足げに笑い、再び歩き出す。
北棟から西塔へ戻る道の途中、回廊の角に差しかかったところで、黒い影が静かに立っていた。
――彼女らにとっての王、漆黒の主、ドルハだった。
裁きの場の気配をまだ纏っている。
温室の外に立っていたときより、ずっと近寄りがたい。
けれどリアンノンを見た瞬間、なぜかその圧がほんの少しだけ薄れたのが分かった。
「終わったか」
「はい」
リアンノンは頷く。
「有益でした」
その答えに、ドルハの片眉が上がる。
「感想がそれか?」
「仕事に必要ですから」
「そうか」
短く返したあと、ドルハは一歩だけ近づいた。
誓約の間ほどではないにせよ、まだ捕食者の匂いが残っている。血の気配に敏い生き物だけが持つ、温度ではない熱のようなもの。
近くにいるだけで、本能が警戒を告げる。
「怖かったか」
先ほどイヴァにも問われたことを、今度は王が問う。
リアンノンは視線を逸らさなかった。
「…………少し」
正直に答える。
嘘をついても仕方がない。
「でも、納得はできました」
ドルハの赤い瞳が、わずかに細くなった。
「納得?」
「破ったものに応じた罰でした。少なくとも、“慈悲”の顔をした踏み倒しではありませんでした」
その言葉に、ドルハはしばし黙る。
何かを測るような沈黙だった。
やがて、ごく静かに言う。
「この国は優しくない」
「知っています」
「俺もだ」
「知っています」
間髪入れず返すと、イヴァが隣で扇を口元へ当てた。
笑いを堪えているのだろう。
ドルハはリアンノンを見下ろしたまま、ほんの少しだけ唇の端を上げる。
「それでも残るか」
問いというより、確認だった。
リアンノンは一拍だけ考える。
地下工房。未払いの労働。愛の名を借りた搾取。
誓約の間。乾いた裁き。所有と契約が紙に分かれている国。
どちらが優しいかと問われれば、答えはもう決まっていた。
「……はい」
リアンノンは言う。
「少なくとも、ここでは契約書の外から殴られないので」
ドルハが目を見開き、次いで低く笑った。
あの誓約の間で見せた怖い笑みではなく、もっと人に近い、それでいてやはり怪物じみた愉悦の笑いだった。
「いい返答だ」
彼はそこでようやく視線を少し和らげる。
「西塔まで送る」
「ひとりで戻れます」
「知っている」
「では――」
「送らせろ。お前に、興味が湧いてきた」
「――あははっ、ずっと興味津々だったくせに。ねぇ、リア?」
イヴァがとうとう肩を震わせる。
もはや笑い声を隠すこともできていない。
リアンノンは少しだけ考え、やがて諦めた。
「……業務時間外の接触です。申請は――」
「いま出す」
「受理は」
「いま俺がした」
「ずるいです」
「王権というものは、こういうときに使うものだ。だが、拒否する権利はお前にある」
ひどく真面目な顔で返され、リアンノンは何も言えなくなった。
そうして西塔へ戻る短い道のあいだ、ドルハは必要以上に喋らなかった。
ただ少し前を歩き、誰も近づけないようにしている。
保護というより、もはや縄張りを示す大型獣に近い。
だがその背を見ながら、リアンノンは先ほどの誓約の間を思い出していた。
やはり、怖い国だ。
それなのに、筋が通っている。
それは安心とは少し違う。
けれど、自分にとってはたしかに信じやすい種類の恐ろしさだった。
この国の法、すなわちドルハは、その絶対のルールを以てリアンノンを守ってくれる。
同時に、彼女が法を破ったなら、一切同情の余地なく処断する。
人間の国で、情というもので歪められていたルールが、この国では正常に機能している。
正常すぎて、だからこそそれを恐ろしく感じるのだ。
西塔の扉の前で立ち止まり、ドルハが振り返る。
「修復師、今夜はもう働くな」
「依頼が二件残っていますが」
「明日に回せ」
「納期が」
「王命だ」
そこまで言われると、さすがに逆らいづらい。
リアンノンが黙ると、ドルハは僅かに満足そうな顔をした。
「休め。お前は、自分が思うより働きすぎる」
それだけ言って、彼は踵を返す。
だが数歩進んだところで足を止め、こちらを振り返らないまま、低く付け足した。
「……それから、下層の拘束房には、ひとりで行くな」
リアンノンは息を止めた。
「まだ何も言っていませんが」
「顔に出ていた」
「出していません」
「出ていた」
断定されると、言い返せない。
イヴァが完全に笑っている気配が背後にあった。
そんなに面白いものだろうかと、リアンノンは内心首を傾げる。
「あそこは危険だ」
ドルハは静かに告げる。
「そして、あそこは俺が長く放置してきた領分でもある。お前に見せたいものではない」
その一言だけが、妙に重く落ちた。
放置してきた。
積極的に楽しんでいたわけではない。だが、止めもしなかった。
王の制御が及んでいない、だからリアンノンには見せたくない。
彼にとっての、ひとつの弱みなのかもしれない。
そういう意味だろう。
「……承知しました」
リアンノンが答えると、ドルハはそれ以上何も言わず、闇のほうへ歩き去った。
残されたのは、夜の静けさと、まだ少しだけ胸に残る緊張と、下層で見た黒い首環の違和感だった。
工房の鍵を開けながら、リアンノンは無意識に喉元へ触れる。
そこには何もない。
何もないのに、先ほど見た首環の重さだけが、妙に皮膚へ残っていた。
――壊れている。
あの首輪も。
たぶん、この国の仕組みの一部も。
そう思ってしまったこと自体が、ひどく面倒な始まりのように感じられた。




