王の裁き
◇
誓約の間は、温室の華やかさとは正反対の場所だった。
高い天井。黒い石床。壁一面に埋め込まれた銀の契約板。豪奢ではあるのに、飾りというより規則そのものが形になったような空間だ。
床の中央には大きな円環紋が刻まれ、その外側に傍聴席、さらに上層には簾と薄布で視線を遮った貴賓席が設けられている。
リアンノンはイヴァに伴われ、上層の一角へ通された。
「ここならよく見えるわ」
「見世物なんですか」
「あら、裁きはいつだって見世物よ。特に、破ってはならないものを誰が破ったかを見せる場ではね」
下を見れば、円環の中央にひとりの男が膝をついていた。
濃紺の礼装をまとった吸血鬼の貴族だ。顔立ちは整っているが、いまは血の気が引き、長い爪の先まで震えている。
その少し後ろには、人間の女がふたり立っていた。
年若い。首元に黒銀の細い環をつけている。
リアンノンの視線がそこへ吸い寄せられる。
「……あれは」
「給血環」
イヴァがさらりと答えた。
「契約下にある人間の給血量と勤務時間を管理する道具よ。自分の血を売る者、夜間労働を売る者、歌声や筆記を売る者。形はいろいろあるけれど、あれは王都標準型ね」
「売る」
「ええ。立派な商品よ」
イヴァの横顔は穏やかだった。
だが、彼女は目を逸らさない。
「この国では、必要なものに値札をつけるわ。血にも、時間にも、労働にも。売る者もいるし、買う者もいる。そこに優しさはないけれど、少なくとも条件は守られる」
リアンノンは女たちの首環を見つめた。
美しいとは言いがたい。だが、鎖でもない。拘束具というより計測器に近い造りだ。
ぞっとするほど合理的で、ぞっとするほど露骨だった。
まもなく、誓約の間の奥の扉が開く。
空気が変わった。
ざわめき、ではない。
場に満ちていた気配そのものが、一段低く沈む。
ドルハが入ってきた。
黒を纏った王は、温室の廊下で会ったときとはまるで違って見えた。
同じ顔で、同じ姿なのに、捕食者のように、どこか恐ろしいものに見えた。
歩くたび、誰もが無意識に息を殺す。近づかれたわけでもないのに、喉元へ冷たい指を添えられたような緊張が走る。
赤い双眸が一度だけ場を舐める。
それだけで、円環の中央にいた貴族がびくりと肩を震わせた。
「始める」
低く落とされた声は大きくない。
それでも誓約の間の隅々まで届き、石壁へ染み込むようだった。
「ザルヴェン伯。お前には、王都標準型給血環の改竄、および契約人二名に対する給血量超過、勤務時間不正延長、報酬不払いの嫌疑がかかっている」
静かだ。
だが一言ごとに、逃げ道が削られていく。
「弁明は」
ザルヴェン伯は顔を上げ、かろうじて声を絞り出す。
「へ、陛下……誤解にございます。環の不調は偶発的なもので、わたくしは契約に背く意図など――」
「意図は問うていない」
ドルハの声が、ひときわ低くなった。
「起きたことを問うている」
その瞬間、リアンノンは初めて見た。
吸血鬼の王の目が、ほんのわずかに細くなるだけで、空間そのものが威圧に変わるのを。
言い訳を飲み込ませるための声ではない。
獲物がまだ逃げるつもりかと確認する声だ。
円環の外から、側近として控えていたヴランが一歩進み出た。
手には薄い黒革の書類束。
「被害人二名の契約写し、勤務記録、給血環の回収品、ならびに報酬台帳の提出を」
手際がいい。
誓約の間の中央へ、書類と黒銀の首環が並べられる。
リアンノンは思わず身を乗り出しかけた。
給血環の表面に走る細工が、上からでも見て取れたからだ。
イヴァが小声で囁く。
「分かる?」
「……はい。少し」
「なら、もっと面白くなるかもしれないわ」
その言葉通り、ドルハは円環の上の首環へ目を落としたのち、上層の席を見上げた。
赤い瞳が、まっすぐリアンノンを射抜く。
「リアンノン」
名を呼ばれ、誓約の間の視線が一斉に集まった。
「降りてこい」
場違いな静けさの中、リアンノンは立ち上がる。
イヴァが唇の端を上げた。
「ほら、やっぱり面白くなった」
階段を下り、円環の外縁へ出る。
ドルハの近くまで来ると、先ほど温室で感じた程度とは比べものにならない圧があった。彼は何もしていない。ただそこに立っているだけで、近くの空気が獣の領域になる。
それでもリアンノンは俯かない。
俯けば見えないからだ。首環の刻印も、契約板の流れも。
「見ろ」
ドルハが顎で示す。
「給血環は偶発的に壊れたように見えるか」
問われて、リアンノンは円環の中央へ置かれた黒銀の首環を手に取った。
冷たい。軽い。だが内側の刻印に、妙な引っかかりがある。
「……いいえ」
答えると、周囲がざわめく。
リアンノンは構わず、首環を光に翳した。
「これは、規定量に達すると第二導線が閉じて、それ以上は認証が通らない構造になっています。でも……見たところ、その閉鎖導線が内側から削られています」
指先で刻印を辿る。
細工は雑ではない。だが、本職の手ではない。
「正規の調整ではありません。月銀の目が逆立っている。刃物か、腐食液の類で無理に開いたんだと思います」
「馬鹿な!」
ザルヴェン伯が叫んだ。
「たかが人間の娘に何が分かる!」
その瞬間だった。
空気が、切れた。
誓約の間の灯りが一斉に揺れ、ザルヴェン伯の喉元に黒い影が這い上がる。
誰も動いていない。
けれど、ドルハの魔力だけが場を覆い、男を円環の中央へ縫いつけていた。
「口を慎め」
ドルハは一歩も動かずに言う。
「俺が呼んだ技師へ、俺の許しなく吠えるな」
低い声。
それだけなのに、ザルヴェン伯の顔色がさらに白くなる。
恐怖が喉を塞いでいるのだと、見ているだけで分かった。
リアンノンは少しだけ目を細めた。
これが、この国の王だ。
優しくはない。
甘くもない。
だが、自分が認めた領分を踏みにじられることだけは許さない。
「続けろ」
ドルハに促され、リアンノンは首環の内側を示した。
「こちらも不自然です。本来は給血量の記録珠が一回ごとに動くはずなのに、途中で留め具が噛ませてある。記録を進めず、制限だけを回避するための細工です」
ヴランが書類をめくる。
「勤務時間超過と報酬不払いの件とも一致しますね。環が記録しなければ、正規の支払い計算からも外せる」
「つまり」
ドルハの視線がザルヴェン伯へ落ちる。
「お前は契約人から定め以上に血と時間を取り、記録を消し、支払いを踏み倒した」
「……っ、それは、家の事情が」
「聞いていない」
またしても、たった四文字で切り捨てられる。
ドルハは人間の女たちへ目を向けた。
「契約継続の意思は」
問われた女のひとりが、震える声で答える。
「……ありません」
「もうひとりは」
「ありません」
「了解した」
本当に、それだけだった。
慰めも、同情もない。ただ意思表示を確認し、それを記録する。
冷たい。だが、ひどく明快だ。
ドルハはヴランへ視線を送り、次いで宣告する。
「ザルヴェン伯、契約改竄は王印偽造に準ずる」
「ま、待ってください、陛下――」
「爵位剥奪。全財産を凍結し、被害人への三倍賠償に充てる」
場がどよめく。
「加えて、お前の私的契約保持権を永久剥奪。以後一切の契約人保有を禁じる」
「そ、そんな……!」
「そして」
ドルハが、ようやく一歩だけ前へ出た。
それだけで、ザルヴェン伯は半ば悲鳴のような息を漏らす。
ドルハは男の眼前で足を止め、ゆるく身を屈めた。
近い。
あまりにも近い。
赤い双眸が、獲物の喉元を見るように細くなる。
唇の奥に、白い牙がほんのわずかに覗いた。
「契約を破った吸血鬼は、血を預かる資格を失う」
囁くような声音だった。
なのに、誓約の間じゅうが凍りつく。
「百年、東塔の乾き牢へ」
乾き牢。
その単語に、傍聴席の空気まで強張った。
リアンノンには詳細が分からない。だが、それが吸血鬼にとって相当に苛烈な刑であることは、誰の顔を見ても明らかだった。
ザルヴェン伯が崩れ落ちる。
「お、お願いです、陛下……! 一度だけ、一度だけお慈悲を――」
「慈悲?」
ドルハが、ごく静かに復唱する。
次の瞬間、赤い瞳が笑った。
温度のない、捕食者の笑みだった。
「契約書に書いていない言葉を、どこから持ってきた」
それで終わりだった。
衛兵が進み出て、ザルヴェン伯を連行する。
暴れる余力もないらしい。男は半ば引きずられるようにして誓約の間から消えていった。
あとに残されたのは、処分の記録と、解放された人間たちと、静まり返った空気だけ。
ドルハは人間の女たちへ向き直る。
「賠償金は三日以内に支払う。治療と宿所を用意しろ」
側仕えが即座に頭を垂れる。
「新規契約に応じるか、王都を出るかは自由とする。望むなら保護証も発行する」
女たちは、信じられないものを見るような顔をしていた。
けれどやがて、小さく、たしかに頷いた。
その様子を見届けてから、ドルハはようやくリアンノンへ視線を戻す。
「助かった」
「事実を述べただけです」
「十分だ」
それだけを言って、彼は玉座ではなく裁きの席へ戻る。
背中を向けたその姿に、妙な甘さは一切ない。あるのは絶対者の背だけだった。
リアンノンはゆっくりと息を吐いた。
気づかないうちに、肩へ力が入っていたらしい。
イヴァが階上から手を振る。
戻ってこい、という合図だ。




