お茶会にて
◇
北棟の温室は、思っていたよりずっと幻想的な場所だった。
硝子張りの高い天井から月光が滝のように落ち、内部には夜にだけ咲く花々が静かに満ちている。
白い月百合、青黒い夜薔薇、銀の露を抱く星花。湿りすぎない温かな空気の中で、花々は誰に見せるでもなくただ美しく咲いていた。
中央には白い丸卓がひとつ。
薄いレースのクロスの上に、銀の茶器と菓子皿が整えられている。
そしてその卓の向こうで、まるで自分こそがこの夜の主役だと言わんばかりに、イヴァが優雅に微笑んだ。
「いらっしゃい、リアンノン」
藤色のドレスをまとった彼女は、温室の花々よりよほど華やかだった。
だがその視線がリアンノンを捉えた瞬間、満足そうにまなじりが和らぐ。
「まあ。想像以上だわ」
「動きやすいドレスでした。素晴らしい仕立てです。ありがとうございます」
「ええ、そこを褒めているのではないのだけれど」
イヴァは立ち上がり、リアンノンのまわりを半歩だけ巡る。
仕立ての具合、髪の流れ、靴の高さ、すべてを一瞬で見て取る視線だった。
「完璧。あなた、やっぱりこういう色がお似合いになるのね。夜の中で光るもの」
「そうでしょうか」
「そうよ」
言い切ってから、イヴァはふと視線を温室の外へ向けた。
硝子越し、少し離れた回廊の影に、黒い人影がある。
見えないふりをしていても分かる。王だ。
イヴァは口元に笑みを浮かべたまま、わざとらしく何もないように言った。
「護衛がずいぶん熱心で助かるわね」
「王が結界を張るそうです」
「あら、そうなの?」
言いながら、その目は少しも驚いていない。
「それはそれは、安心だこと」
絶対に面白がっている顔だった。
リアンノンが椅子の前まで進むと、イヴァは自ら椅子を引いた。
侍女任せではない。自分の客を自分でもてなすつもりなのだと、その仕草だけで分かる。
「さあ、座って。今日はまず、お茶を飲みましょう」
「情報の対価、でしたか」
「ええ」
イヴァは向かいへ腰を下ろし、銀のポットを持ち上げる。
「修復師殿に支払う最初の一報は、とても上等なものよ」
月光を溶かしたような淡い琥珀色の茶が、白磁の杯へ静かに満ちていく。
「王様の古い時計。あれがなぜ、何百年も止まったままだったのか――知りたくない?」
温室の花々が、夜気に合わせてわずかに揺れた。
リアンノンは差し出された茶杯を受け取り、向かいの美女を見返す。
そして、温室の外にある気配――見えないふりをして少しも隠れられていない王の存在を、ほんの少しだけ意識した。
「……有益そうです」
そう答えると、イヴァは勝ち誇ったように微笑んだ。
「でしょう?」
こうして、北棟温室での最初のお茶会が始まった。
イヴァが注いだ茶は、見た目よりもずっと香りが静かだった。
花の甘さを前に出しすぎず、最後にだけわずかな冷たさが残る。月光で冷やした果実でも使っているのかもしれない。
リアンノンはひと口飲み、素直に感心した。
「……おいしいです」
「でしょう?」
イヴァは満足げに微笑み、自分の茶杯を持ち上げた。
「この温室で出すお茶は、香りが花に負けてはいけないの。強すぎてもだめ、弱すぎてもだめ。夜のもの同士で喧嘩させないのが肝心でね」
「魔導具の調整みたいですね」
「あら、まあ」
イヴァが目を細める。
「あなた、本当に何でも修復の理屈へ持っていくのね」
「そのほうが分かりやすいので」
「嫌いじゃないわ」
さらりと言ってから、イヴァは扇の先で茶杯の縁を軽く叩いた。
「では、約束通り。最初の情報を差し上げる」
温室の外では、月に照らされた葉がひっそりと揺れている。
その向こうにあるはずの王の気配は見ないふりをしたまま、リアンノンはイヴァを見返した。
「王の時計について、でしたか」
「ええ」
イヴァは少しだけ声を落とした。
「あれはね、昔この城にいた宮廷修復師が、陛下へ贈ったものなの」
リアンノンは瞬きをした。
「修復師」
「人間よ。とびきり偏屈で、契約にうるさくて、王様相手にも一歩も引かなかった老人だったわ」
どこかで聞いたような性質だと思ってしまい、リアンノンは何も言わないことにした。
「陛下はあの方をずいぶん買っていらした。血も誓いも差し出さないのに、仕事だけは誰より誠実だったから」
イヴァは茶杯を置き、温室の硝子越しに月を見上げる。
「人間の都市との、停戦の夜だったの。いくつもの保護証と、破られないはずの通行保証があった。あの老人は修復のために人間界へ出て、戻る途中で焼かれたわ」
保護証。
つまりは「身分と、誰の庇護下にいる者なのか」を示すもの。
手を出せば、この保護証の発行者が黙っていないぞという証。
「……保護証があったのに」
「ええ。あったのに」
イヴァの声音から、笑みが消える。
「彼らは“神の名において例外は許される”と言ったそうよ。契約書も、通行印も、ぜんぶ燃やしてね」
温室の花の香りが、急に少しだけ冷えた気がした。
リアンノンは茶杯を持つ指先に、ほんのわずか力を込める。
よくある話だ、と思った。
人間はときどき、きれいな言葉で約束を食い破る。
愛だから。善意だから。救済だから。神意だから。
どれも結局は、破ってもよい理由を飾るための言葉にすぎない。
「陛下が時計を握り潰したのは、その夜」
イヴァは静かに告げた。
「止まったまま、ずっと持っていらした。誰にも触らせずに」
リアンノンは言葉を失う。
あの時計がただ高価だからでも、古いからでもなく、止まった時間ごと抱え込まれていたものだと知れば、見え方が少し変わる。
「あなたが直したと聞いて、驚いたわ」
「壊れていましたから」
「ええ、そういうお返事をなさると思った」
イヴァはくすりと笑う。
けれど目元にはまだ、先ほどの冷たさが残っていた。
「人間の国はね、表向きほど優しくないの。あなたも知っているでしょうけれど。地下へ才能を閉じ込めて“家族のため”と呼ぶのも、奉仕を強いて“慈愛”と飾るのも、あの人たちは昔から上手だわ」
「……ええ」
「こちらはもっと露骨よ。欲しいものを欲しいと言うし、対価も条件も明文化する。少なくとも、書いていないことまで奪うのは恥とされる」
それは、この国へ来てからリアンノンが何度も感じてきたことだった。
怖い。
だが、曖昧ではない。
そのとき、温室の入口で控えていた侍女が一礼した。
「イヴァ様」
「何かしら」
「誓約の間より、黒印の報せが」
侍女が差し出した封書には、王家の印章と、細い銀線で描かれた契約環の紋があった。
イヴァは中を改めると、まあ、と楽しげに目を細める。
「ちょうどいいわ」
「何がですか」
「次の情報料よ、リアンノン」
イヴァは立ち上がり、扇を閉じる。
「契約違反を犯した貴族の裁きが始まるの。あなた、この国のことをもう少し知りたいのでしょう?」
知りたい、というより、知らなければ仕事に差し支える。
そう考えてリアンノンが頷くと、イヴァは満足そうに微笑んだ。
「なら、これ以上の教材はないわ」




