問題)このとき、王は何を考えていたのでしょうか?
月光の落ちる廊下の中央に、ドルハが立っていた。
黒を纏った王は、昼と夜の境目のような薄い光の中で、ひどく絵になった。
けれど今は、その美貌より先に、ほんのわずかに見開かれた赤い瞳のほうが目につく。
珍しく、彼が一瞬だけ言葉を失っていた。
先に口を開いたのはリアンノンのほうだった。
「なにかご依頼ですか? 申し訳ありませんが、本日は先約が」
その一言で、廊下の空気がわずかに緩む。
ドルハはまばたきをひとつしてから、いつもの気怠げな顔へ戻った。
「いや、様子を見に来ただけだ」
「そうですね」
「……ああ、そうだな」
声音は平静だった。
だが視線だけが、リアンノンの頭の先から爪先までを静かに辿っていく。
ねっとりとした無遠慮さではない。むしろ、見ていいのかどうかを一瞬ためらった末に、結局見ずにはいられないような、妙に誠実で厄介な視線だった。
やがてドルハは低く問う。
「気に入らなければ着るなと言ったはずだったな」
「ええ」
「つまり、気に入ったのか」
リアンノンは少し考える。
好きかと問われると、まだ判断が難しい。だが、着心地や機能に関しては答えられた。
「動きやすいです。靴も歩行に支障がありません。髪も視界を邪魔しません」
それを聞いて、廊下の端に控えていた侍女の誰かが、かすかに息を呑んだ。
おそらく彼女たちにとっては、もう少し別の感想が欲しかったのだろう。
しかしドルハは、小さく笑っただけだった。
「そうか」
そのたった短い言葉と嘆息には、満足と諦めと、少しばかりの可笑しさが混じっている。
そして彼はゆっくりと近づき、リアンノンのすぐ前で足を止めた。
距離は近い。けれど、触れはしない。
「髪飾り」
「はい」
「防御陣が入っている。イヴァにしては気が利く」
言われて初めて、リアンノンは髪へ手をやった。
銀の花飾りの芯に、たしかに微かな魔力の層がある。装飾品に見せかけた護身具らしい。
「そういう大事なことは、事前に教えていただけると助かるのですけど」
「俺がかわりに、いま教えた」
「……そうですね」
そう言われると、その通りでしかない。
ドルハの視線が今度は彼女の手元へ落ちる。
灰紫の手袋。指先に沿った補強糸。彼が持ってきた月晶の拡視鏡とは違うが、同じように“良いものを与えたい”という発想で選ばれた品だと分かる。
「イヴァは」
何かを言いかけ、眉を寄せた。
「……まあ、悪くない趣味をしているようだ」
褒めているのかどうか判別しづらい。
だが廊下の空気がまた少し冷えたので、嫉妬はしているのだろうとだけ分かる。
王が自分に執着するとしたら、先に気に入ったのは俺の方だぞ、だとか、そういった感情なのかもしれないとリアンノンは考える。
けれど、その真意をうかがい知ることなど、定命の者である彼女にはできはしなかった。
ならばと、話題を変えるべく、リアンノンは問いを投げかける。
「王もお茶会へ?」
「行かん」
即答だった。
「お前に限らず、俺がいれば警戒される。臣下どもの口が固くなれば困るのはお前だ。情報収集の邪魔をするつもりはない」
「合理的な判断、感謝します」
「ただし」
そこで彼はわずかに身を屈める。
赤い双眸が近づいた。
「温室の周囲には俺の結界を張る。中へは干渉しない。だが、何かあればすぐ分かる」
「……過剰では」
「俺の考えに異存があるのか?」
その言い方は反則だ。黙るしかない。
契約上、工房の無断侵入にはまったくあたらないし、お茶会会場の外周警備なら、たしかに先日の申請の範囲内だ。
理屈は通っている。
通っているが、少しだけ重い。
大型の肉食獣に抱かれたまま、居眠りされているような緊張感がある。
「承知しました」
「よし」
短く答えたあと、ドルハはほんの一瞬だけ迷うような間を置いた。
それから、きわめて静かな声で付け足す。
「……似合っている」
言われて、リアンノンはまばたきをした。
賛辞は嫌いではない。
だが、今まで向けられてきたそれらの多くは、“だからもっと役に立て”と続く前振りでしかなかった。
だから反射的に身構えかけたのに、ドルハはその先を何も言わない。
ただ本当に、それだけを告げたのだ。
「ありがとうございます」
リアンノンがそう返すと、ドルハは目を細めた。
それだけで機嫌が上向いたのが分かるのだから、王というのは案外単純かもしれない。
「では、行ってきます」
「ああ」
「これは仕事の情報収集なのだろう? 存分に情報を持ち帰れ」
「努力します」
「それと」
また一言多いのかと思ったが、ドルハは結局、何も言わなかった。
赤い瞳が一度だけ彼女の顔を確かめるように留まり、それからゆっくりと横へ退く。
「……楽しめるなら、そうしろ」
最後の言葉は、命令というより、ほとんど願いに近かった。
リアンノンはそれを少し不思議に思いながらも、小さく頷く。
「善処します」
その返答に、廊下の端にいた侍女がかすかに笑いを噛み殺した。
楽しむことにすら善処が必要なのか、と思ったのだろう。リアンノン自身も、言ってから少しだけ妙だと思った。
だがドルハは気にしないらしい。
むしろ、その不器用な返答ごと気に入ったように口元を緩めた。
「行け。イヴァを待たせると面倒だ」
「経験談ですか」
「分かっているなら聞くな」
リアンノンは一礼し、侍女たちとともに北棟へ向かった。
背中へ、王の視線が長く残る。
けれど振り返らない。振り返れば、たぶんまた何か言われる気がしたからだ。
王はなぜかリアンノンに目をかけてくれているが、それはおそらく、一時の興が乗ったからに過ぎないはずだ。
吸血鬼というこの世界の支配者たちは、あらゆるものを自由にできるだけの力を持っている。
そんな支配者が気にかけてくれているのであれば、今は甘えておこう。
でも、警戒も忘れずに。
そんなことを考えながらも、リアンノンの足取りは、普段より幾分か軽くなっていた。




