イヴァ様の贈り物
◇
そう結論づけて再び作業へ戻った翌々日、北棟から大きな箱が三つ届いた。
差出人は、イヴァ・ルクレツィア。
添えられたカードには、流れるような美しい筆跡でこう書かれていた。
――修復師殿へ。
――お茶会に必要な実用品をお届けしますわ。
――ええ、実用品ですとも。
「……実用品」
嫌な予感しかしない。
リアンノンはしばらく箱を見つめ、それから観念したように一番小さな箱の蓋へ手をかけた。
中に入っていたのは、手袋だった。
黒でも白でもない、淡い灰紫の絹。指先は細く、手首までをなめらかに覆う長さがある。だが装飾ばかりの品ではないと、触れた瞬間に分かった。表は柔らかいのに、内側にはごく薄い補強糸が走っている。しかも手のひら側だけは、滑りにくい加工まで施されていた。
「……作業用?」
いや、違う。
作業着ではない。けれど、完全に見た目だけでもない。
次に開けた細長い箱には、靴が入っていた。
月光を溶かし込んだような鈍い銀色の靴。細い踵こそあるが、持ち上げてみると驚くほど軽い。裏には小さな魔法陣が刻まれており、石床の上でも音を立てにくい構造になっているらしい。
「……歩ける靴ですね」
その評価が高いのか低いのか、本人にも分からない。
だが、少なくとも足を痛めるためだけの拷問具ではなさそうだった。
そして最後に、一番大きな箱を開ける。
中に収められていたのは、一着のドレスだった。
夜の色を銀匙にひとすくいだけ薄めたような、深い青紫。
月光の下では灰が花開き、灯りの下では流星のような艶を返す、不思議な色合いの布地だ。
胸元から肩にかけては繊細な銀糸の刺繍が施されている。けれど、裾は過剰に広がりすぎず、腰の切り替えもきつくない。むしろ、動くことを前提にデザインされているように見える。
リアンノンはそっと布地を摘まんだ。
軽い。しかも裏地がよく滑る。腕を上げても引きつらないよう、脇の縫製に工夫までされていた。
「……実用品」
今度は先ほどより、ほんの少しだけ納得して言う。
と、そのときだった。
扉が三度、規則正しく叩かれる。
「どうぞ」
返事をすると、扉が開いた。
入ってきたのは、北棟付きらしい侍女が三人。全員が見事に整った身なりをしていて、しかも無駄がない。礼を取りながら、そのうちのひとりが恭しく口を開く。
「イヴァ様のご命令で、お支度のお手伝いに参りました」
「ひとりで着られます」
「存じております」
即答だった。
この城はみんな、どんなことでも即答してくる。
「ですが、イヴァ様より“無理強いはしないこと。ただし、選べるなら最善を勧めること”と仰せつかっております」
妙に誠実な条件だった。
しかも“無理強いはしない”が先に来るあたり、イヴァは本気でリアンノンの性格を読んでくれているらしい。
侍女のひとりが、箱の中のドレスへ視線を落とす。
「ご安心ください。締めつけの強いものは使いません。動きやすさを優先した仕立てです。お茶会の席で息ができないような装いを、美しいとは申しません」
その言い方は、リアンノンには意外と効いた。
美しいかどうかはまだよく分からない。
だが、息ができるかどうかは重要だ。
「……分かりました」
三人の侍女の表情がわずかに和らぐ。
「では、失礼いたします」
「髪には触れても?」
「必要最低限なら」
「ありがとうございます」
ひとつひとつ許可を取りながら進める手つきは丁寧だった。
勝手に服を脱がせることもしない。必要な動作の前には必ず一声かける。鏡台の前へ座らされながら、リアンノンは妙な感覚に襲われていた。
着替えというのは、こんなにも静かなものだっただろうか。
養母に見栄えのためだけ着飾らされたことはあった。
だがあれはいつも、“恥をかかせないように”“家のために”“感謝しなさい”が先にあった。似合うかどうかではなく、見せびらかすための包装だった。
けれど、今ここにある手つきには、少なくともそういう雑さがない。
「こちら、腕を」
「はい」
「苦しくはありませんか」
「大丈夫です」
「歩幅に合わせて裾を調整しますね」
やがて黒い実用服が脱がされ、代わりに青紫のドレスが身体を包んだ。
生地が肌の上を流れる。重そうに見えたのに、実際には驚くほど軽い。背中の合わせはしなやかで、胸元も動きを妨げない。腰を軽く固定する帯はあるが、締め上げるというほどではなく、姿勢を整える程度だ。
侍女のひとりが、最後に灰紫の手袋をはめさせる。
「よくお似合いです」
「まだ分かりません」
「鏡をご覧になれば、分かります」
言われるまま、リアンノンは顔を上げた。
鏡の中にいたのは、見慣れた自分ではなかった。
銀糸の髪は半分だけすくい上げられ、残りは肩へ柔らかく流されている。まとめるための髪飾りは月花を模した銀細工で、中心には小さな紫水晶がひとつ。深いアメジストの瞳を引き立てるように、顔まわりだけが静かに整えられていた。
そしてドレス。
黒しか着てこなかった自分の肌に、夜を含んだ青紫がこんなにも馴染むとは思わなかった。
華奢な体つきは隠されるのではなく、むしろ無理なく綺麗に見えるよう線を拾われている。儚く見せるためではなく、整えて見せるための仕立てだ。
「……別人みたいです」
思わず漏らすと、侍女のひとりが微笑んだ。
「いいえ。同じ方です。ただ、見え方が違うだけで」
その言い方が、妙に胸へ残る。
見え方が違うだけ。
つまり、もともとここにあったものを、少し整えただけなのだと。
新しく盛ったのではなく、押し込めていたものを出しただけなのだと、そう言われた気がした。
「靴もお試しください」
履いてみると、驚くほど歩きやすかった。
踵はあるのに重心がぶれない。床へ降りた感触も安定している。
「……本当に歩けます」
三人の侍女が、今度ははっきり笑った。
「イヴァ様がお選びになるものですもの」
「見た目だけの品はお嫌いです」
「美しさと実用は両立できる、と」
どこかで聞いた理屈だった。
たしか、本人が言っていた。
リアンノンは鏡の中の自分をもう一度見た。
まだ落ち着かない。自分の身体なのに、借り物めいて見える。
それでも、不快ではなかった。
少なくとも、“粗末に扱われていない”ことは分かる。
「そろそろお時間です」
侍女のひとりが控えめに告げる。
「北棟温室までご案内いたします」
リアンノンは頷き、最後にいつもの癖で作業台のほうを振り返った。
工具箱は閉じた。依頼票はまとめた。火も落とした。問題ない。
侍女たちとともに西塔を出る。
回廊へ足を踏み出した瞬間、靴裏の魔法陣が働いたのか、石床の上でも足音がほとんど響かなかった。
なるほど。
これならたしかに、ただの飾りではない。
北棟へ続く渡り廊下の手前まで来たところで、侍女たちがそろって足を止めた。
誰かがいる。
リアンノンも顔を上げる。
月光の落ちる廊下の中央に、ドルハが立っていた。




