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さらば無償労働

 歯車の噛み合う音だけは、リアンノンに嘘をつかなかった。


 薄暗い地下工房には、湿った石壁の冷気と、古い油の匂いが沈んでいる。窓はない。あるのは天井近くの小さな通気口ひとつと、作業台に置かれた魔石灯の青白い光だけだった。

 その乏しい灯りの下で、リアンノンは細い指先にピンセットを挟み、壊れた魔導式懐中時計の内部を覗き込んでいた。


 銀糸の髪が肩からさらりと落ちる。感情を映さないアメジストの瞳が、複雑に組み合わさった歯車ではなく、その奥を流れる魔力の“ほつれ”を見つめていた。


 歯車は正直だ。

 欠けたなら欠けたと分かるし、狂ったなら狂った音を立てる。

 人のように、愛だの情だのと甘い言葉で飾ってごまかしたりしない。


 リアンノンは極細の魔導針を差し込み、裂けた術式をひと筋ずつ縫い直していく。

 金属に触れるたび、かすかな振動が指先に伝わった。壊れたものが、正しい位置へ戻っていく感覚。それだけが、彼女にとって確かな手応えだった。


 やがて、止まっていた秒針が、かちりと小さく鳴る。


 その瞬間だけ、リアンノンはほんの少し目を細めた。


 ――直った。


 報酬の代わりに投げつけられる「いい子ね」よりも、ずっと価値のある音だった。


 階上で足音がした。

 重たく、遠慮のない靴音。次いで、蝶番の軋む音とともに地下工房の扉が開く。


「リア」


 呼びかけたのは養母だった。

 絹のドレスの裾を摘み、地下の湿気を嫌うように眉を寄せながら、それでも口元だけは慈愛を装った形に整えている。


「まあ、まだ働いていたの。なんて健気なのかしら。あなたは本当に、家族思いのいい子ね」


 その言葉に、リアンノンは顔を上げなかった。

 懐中時計の裏蓋を閉じ、作業台の上にそっと置く。


 家族。

 愛情。

 思いやり。


 この家では、それらはすべて「無償で働け」という意味だった。


「ご用件は」


 ぶっきらぼうでもなく、媚びてもいない声音で尋ねると、養母はわずかに口元を引きつらせた。リアンノンが従順な娘らしく怯えたり縋ったりしないのが、昔から気に入らないのだ。


「あなたに、良いお話があるのよ」


 良い話、と来た。

 たいてい碌なものではない。


「商会が少し困っているのは知っているでしょう? でも、心配しなくていいの。すべて丸く収まるわ。あなたが役に立ってくれるもの」


 役に立つ。

 その言葉だけは本音だった。


 養母は一歩、工房の中へ足を踏み入れた。香水の甘ったるい匂いが、油の匂いに混じる。


「今夜、あなたは常夜の国レクイエムへ行くの」


 リアンノンの手が止まる。


 レクイエム。

 人の世の理から外れた、夜の住人たちの国。

 そこを治めるのは、数百年を生きる吸血鬼の王だと聞く。


 養母は、怯える娘を慰める母親の顔で、優しく告げた。


「王城への供物としてね」


 しばし、沈黙が落ちた。


 だが、泣き崩れる声も、椅子を倒して逃げようとする音も響かない。

 あるのは、魔石灯が微かに唸る音だけだ。


「……そうですか」


 リアンノンは静かに立ち上がった。

 椅子が小さく軋む。


 養母が瞬きをする。拍子抜けしたのだろう。もっと取り乱すと思っていたに違いない。


「ええ、そうなの。怖いでしょうけれど、家族のためだと思って――」


「工具箱を持っていきます」


「は?」


「修復師から工具を取り上げるつもりですか。売り先での価値が下がりますが」


 養母の顔から、慈母の仮面が滑り落ちた。

「売り先」と言われたことよりも、品定めされる品物のように自分たちの打算を言い当てられたことが気に障ったらしい。


「あなたね……! 育ててやった恩を、少しは――」


「恩」


 リアンノンはその言葉を、異国の単語のように口の中で転がした。


「でしたら、未払い分の賃金と、私名義で売られた修復品の利益精算を先にお願いします」


 養母の頬が引きつる。

 地下工房の空気が、ひやりと冷えた。


 作業台の端には、「教団」の認証印――光印が刻まれた魔導具が積まれている。

 人間界では、この印がなければまともな値で売れない。

 けれど、その印の下に本当の修復師の名が記されることは、一度もなかった。


 リアンノンの言葉は、当然の権利を求めたものに過ぎない。

 しかし、帰ってきたのはいつもどおりの怒声だった。


「な、なんて可愛げのない……! 家族でしょう!」


「ええ」


 リアンノンは壁際の棚へ向かい、自分の工具箱を持ち上げた。

 使い込まれた革は手に馴染み、重みは心地よい。


「だから今まで、我慢していました」


 それだけ言って振り向く。

 養母は、初めて見るものを見るような目をしていた。

 この娘はいつでも静かで、逆らわず、ただ働くものだと思っていたのだろう。地下に閉じ込めておけば、壊れず使い続けられる魔導具のように。


 けれど、違う。


 壊れていないから動いていただけだ。

 壊されてもなお、動けるように自分で直してきただけで。


「行きます。馬車はどちらに」


 養母はしばらく声を失っていたが、やがて忌々しげに扉の外を指した。


「……表よ。待たせているわ」


「承知しました」


 リアンノンは一礼もせず、その横を通り過ぎた。

 石段を上る。地下工房から地上へ出るたび、胸が少しだけ痛む。長いこと閉ざされていた目に、広すぎる世界が眩しいからだ。


 それでも、今夜は不思議と足取りが軽かった。


 吸血鬼の王に売られるなど、まともな未来とは言いがたい。

 それでも、この家に残って「愛している」と言われながら搾取され続けるよりは、ましだと思えた。


 愛という言葉は、帳簿の空欄を埋めてくれない。

 腹も満たさないし、自由もくれない。


 冷たい夜気に触れた瞬間、リアンノンは細く息を吐いた。

 見上げた空には、痩せた月がひとつ浮かんでいる。


 地下工房の扉が閉まる音が背後で響いた。

 まるで棺の蓋が閉じるような音だったが、リアンノンにとっては、むしろ逆だった。


 あれは埋葬ではない。

 ようやく終わっただけだ、私という労働力の無駄遣いが。


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