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クランケ・コシバ  作者: 中田
7/19

東欧の悲劇

 小柴との三回目の面談があった日、最後の患者が診察室を出て行くのを見送った後、私はそのまま診察室に残って記録をつけ始めます。それが終わると大きく息を吐き、目を閉じてしばらくうな垂れました。こうやって全身の力をフッと緩めることで、緊張していた自分の体が少しだけ楽になるのです。私は気を取り直し、立ち上がって純白のカーテンを閉め、電気を消して事務室に入ると、珍しく綾乃さんが葉那さんとはしゃいでいました。

「どうしたの、二人とも。学生みたいなノリで楽しそうね」

 最後の診療が躁鬱病の重篤患者だったことから非常に重苦しい時間だったので、自分を元気づけるためにも私は明るく装ってそう尋ねました。

「あ、すみません!」

 慌てて申し訳なさそうな顔をした綾乃さん。二十七歳とは思えない童顔で、かしこまった顔がまた愛らしく見えます。

「いいのよ、恐縮しなくて。ねぇ、何の話で盛り上がっていたの?」

「実は……」

 綾乃さんが口を開いた途端、「ああっ! 綾乃さん!」と、咄嗟に割り込んできたのは葉那さんです。その慌て加減に私の邪推がより深まります。

「どうしたのよ、二人とも。変ね。何かあったの?」

 自分の席に腰を下ろし、持っていた資料の束をドンッと音を立ててデスクに置くと、彩乃さんが葉那さんの恨めしそうな顔を横目に、茶目っ気たっぷりの顔で話してくれます。

「どうやら葉那ちゃん、小柴さんがタイプみたいで」

「違いますよ! ちょっとだけカッコイイなって言っただけです!」

 必要以上に否定をする葉那さんは二十三歳で、この三月で寿退社をされた前任者の代わりに四月から来てもらっている、一緒にいるだけで朗らかな気持ちになれる女性です。

「へぇ、葉那ちゃんはああいう男が好みだったんだ」

 精一杯作った疑いの視線を送ると、葉那さんは自分から詳しい説明を始めました。

「そんな目で見ないで下さいよぉ。ただ、受付のときにすごくセクシーな声で紳士な感じだったので、男らしくて、ちょっとだけカッコイイなって。本当に、一瞬そう感じただけなんです!」

「でも、結構年上なんでしょ? 葉那ちゃん、年上好きなんだ」

 ノリノリの綾乃さんが突っ込みます。

「正直言うと、年下よりは年上の方が好きかなぁ」

「それなら小柴さんに言っておいてあげようか? うちの美人受付嬢がお気に入りみたいですよって」

「やめてください、本当に! 美人なんかじゃないですし!」

 私の冗談も本気に捉えたようで、それもまた可愛らしい。二人のスタッフにはいつも仕事の悩みや疲れを癒されています。

「でも……」

 葉那さんの話は終わっていませんでした。

「本当に小柴さんは虚言癖なんですか? 毎回、約束の時間よりも前にちゃんと来るし、受け答えもしっかりしているし、待合室でも至って冷静で落ち着いていて、変わったところは見られないんですけど」

「まぁ、彼の場合はまだそれほど……」

 話の途中で私はハッとし、言葉に詰まります。この日の面談で、小柴がしてくれた特別な話がフラッシュバックしたのです。


 それは私が「最近、気持ちが沈んだこと」について小柴に尋ねたことがきっかけでした。

「やっぱり、彼女と別れたことですかねぇ」

 小柴は私越しに、診察室の窓から見える景色より、もっと遠くを見るようにしてそう呟いたのです。たいして期待もしていなかったため、突然そのようなプライベートを自ら明かしてくれたことに私は驚きましたが、そこは冷静に対応します。

「それはいつ頃の出来事なんでしょうか」

「だいたい二ヵ月ほど前です」

「その出来事を今も引きずっていると」

「はい。壮絶な恋愛でしたから」

「できれば詳しい話を聞かせてくださいますか?」

 ゴホンと低い声で咳払いをして声調を整えた後、小柴は左手に支えられていた右手で顎ヒゲを触りながら訥々と話し始めます。

「亀有のコンビニで働き始めてすぐのことですから、三年くらい前になりますね。俺がコンビニでレジをしているときに客としてやって来たのが、ウクライナ人のポルカという女性でした」

「え? ウクライナ人ですか?」

 私はメモをする手を止めて小柴の目を見つめます。

「最初は俺も、先生と同じリアクションでした。ウクライナなんて、ロシアの近くにあるっていうぼんやりとしたイメージだけで、それ以外の情報なんてなかったですから」

「ごめんなさい。もう一度、その方のお名前を」

「ポルカです。フルネームは一度も本人から聞いたことがなかったので、ずっとそう呼んできました」

「それはニックネームなのでしょうか」

「ニックネームというか、何というか。そのときは名前なんてどうでも良かったので」

 確かに恋人同士が本気で愛し合っていると、そういうものなのかもしれません。「しれません」と推測しかできないのは、私がまともな恋愛経験がないことに繋がります。この件についてはまた機会があればここに記録するつもりなので話を本題に戻します。

「そのポルカさんと親密になるきっかけは何だったんですか?」

「単純に彼女がコンビニの常連客だったんです。彼女も亀有に住んでいて、いつも決まって深夜三時過ぎに来ていたんですが、それが深夜勤務だった俺の時間と一致していたんです」

「顔馴染みから始まったわけですね」

 小柴はその相槌に返事すらせず、何やら続きを急いでいる様子でした。

「彼女は毎回、数分だけ雑誌を立ち読みした後、決まって惣菜パンと菓子パン、そしてサラダとパックの紅茶をワンセットで買っていきました」

「立ち読みをするということは、日本語の文章も問題なく読むことができたんですか?」

「俺よりも流暢に日本語を話すくらいですから」

「それはすごいですね」

 どれだけ伝わったかわかりませんが、私は自分の中にある思い以上の声をぶつけます。そして続けざまに、小柴が店員と客の関係を越えるきっかけを急かしたのです。

「それで、交際を持ちかけたのはやはり小柴さんから?」

「まさか。俺は吉田松陰を尊敬するバリバリの国粋主義者ですよ。できることなら今の日本でも鎖国した方がいいと思っていたくらいで、異国の女であろうと排除すべきだという危険な思想を持っていましたから、ポルカのこともまったく興味ありませんでした」

「ということは……」

「彼女からのアクションです」

 最初こそ「そんなはずがない」という否定的な思いが駆け巡りましたが、西洋女性の気持ちに立って考えてみると、小柴のようなこれぞアジア人というような男くさい人間の方が新鮮で、つい血迷って惹かれてしまうのも間違いではないかもしれないと思い直しました。小柴の話は続きます。

「ポルカと顔を合わせるようになって、十回前後くらいでしたか。いつもなら最初に雑誌コーナーへと立ち寄るポルカが入店してそのままレジの前を通り過ぎ、先にパンコーナーへ向かったんです。そのときの俺は、まぁ、そんな日もあるだろうなと特に気にも留めず、別の客がレジに来たので接客をして、その客がレジを離れた直後、目の前には笑顔の綺麗なポルカが立っていました。このときにはもう挨拶をする間柄になっていたから軽く挨拶を交わし、買い物カゴに入っていた惣菜パンと菓子パンを三、四個、レジに通していったのですが、まだ一品だけカゴに別の商品が残っていたんです。それが……」

 絶妙な間が開いた後、小柴は私の目を真っすぐ見て言います。

「コンドームでした」

 密かに予想していた答えから最も程遠い答えでした。プラスチック製のバットで不意に後頭部を引っ叩かれたような、痛みというよりも目が覚めるような衝撃です。

「コンドーム、ですか……」

「そうなんです。俺もビックリしたんですけど、態度に出しちゃまずいと思って平静を装ったんですが、ふと目が合ったポルカがトロンとした目つきで、ツヤツヤの唇をチュッとしてくるものですから、理性を抑えるのに必死でした」

 リアリティーいっぱいでそう話す情景とは裏腹に、小柴の態度は落ち着いたもの。そのギャップがまた不可解で、寒気に近い感覚が全身を走りました。小柴の話は止まりません。

「実はコンビニで働き始めた当初にバイトの先輩から、コンドームをこれ見よがしに買う女は九十五パーセントの確率でイケると聞いていたんです。そんなこともあって、俺は武者震いする手を懸命に隠しながら、そのコンドームをレジに通しました」

「でも、日本人以外の女性には興味がなかったんじゃ」

「俺は自分の運命と愚かな過去を責めましたよ。島国で育った自分の視野の狭さと一緒にね」

 小柴は腕を組み直して目を細め、何度も小さく頷きながらそう言いました。

「積極的な女性だったんですね」

「カルチャーショックでしたよ。何もかもが」

「ちなみに、ポルカさんは来日してどれくらいだったんです?」

「確か、出会ったときで五年とか言ってたっけな……」

 古い記憶を辿る割には、いとも簡単にその数字は出てきました。それだけポルカのことを心から愛していたからすんなりと出てきたのか、それともデタラメだから適当に答えられたのか――。

「五年で日本人顔負けの日本語力ということは、相当優秀な方だったんですね」

「優秀すぎたんです」

 意味深で、どこか寂しげなその物言いに、次の質問を考える私の思考が停止します。

「三ヵ月くらい前、つまり彼女と別れる一ヵ月ほど前に初めて知りました。彼女がロシアのスパイだったということを」

「スパイ?」

 思わず上げてしまった私の奇怪な声は、隣接する事務室にも届いていたかもしれません。

「いや、そんなもんじゃ済まなかったですよ、当時の俺の驚きは。だって、心を許していた愛しい女がSVR(ロシア対外情報庁)から派遣され、日本の要人たちと親密になることで政財官の機密情報を得て、それをロシアに流していたんですから」

 小柴の口から平然と語られる話が信じられず、私は何も返すことができませんでした。そう、信じられなかったんです。真顔で話す小柴の言っていることが。

「想像できますか?」

 その確認の一言で私は我に返ります。

「私の平凡な想像力の域を超えてしまっていて、何と感想を言えば良いのやら……。しかし、彼女がスパイだという事実はどうやって知ったのですか?」

 私から視線をはずした小柴は、記憶を手繰るようにゆっくりと話し始めました。

「その日、非番だった俺は、自分のベッドで泥のように寝ていたんですが、夜明け前に突然目が覚めたんです。すると、隣で寝ているはずのポルカがいない。俺はトイレにでも行っているのかなと思って二度寝しようとしたら、ボソボソと廊下から話し声が聞こえてくることに気づいたんです」

 ここで小柴は三回の面談を通して初めて前のめりになり、両手をデスクの上で組み直します。

「俺は息を殺して耳を澄ましました。聞こえてきたのは、ロシア語です。彼女が俺の前でロシア語を話すなんてことは初めてだったので、良くないとは思いつつも、俺はその話の詳しい内容を聞いてやろうとベッドを下りて……」

「ちょっと待ってください」

 私は話を止めずにはいられませんでした。

「もしかして、小柴さん、ロシア語がわかるんですか?」

 そのとき小柴が私に見せた顔。それだけで、彼が何を言いたいのかを察することができました。

「当たり前ですよ。俺の祖父はロシア人なんですから」

 驚きの他ありません。しかし、あからさまな驚きを小柴に見せてなるまいと、私は必死で平然を装おうとしましたが、果たして隠し通せたかどうか。

 同時に、自分の甘さを恥じました。本来であれば早い段階で家族構成は親戚筋まで細かく聞いておき、その中に精神病患者や自殺をした人間がいるかを確認しておかなければいけなかったのです。しかしこれはあまりにプライベートな内容なので、小柴の場合はそこまでする必要がないと判断していましたが、彼がロシア系のクオーターであるなら様々な可能性が背景に生じてきます。そして人間の心理とはおかしなもので、小柴がロシア人のクオーターであると聞いた途端、今まで生粋の日本男児にしか見えなかった彼の顔が、これをきっかけに欧州の空気を漂わせた西洋紳士の顔に見えてくるのです。

「すみません、小柴さん。話が逸れてしまうのですが、先にお爺様のことを少しお聞きしてもいいですか」

調子を崩されて明らかに不服そうにして背もたれへと寄りかかった小柴ですが、「まぁ、どうぞ」と質問を許してくれました。ボールペンを握る手に力が入ります。

「ご両親のどちらの家系がロシア人になられるんですか?」

「父方ですね」

「お爺様はまだご健在なのでしょうか」

「どうなんですかね。祖父とはまったく接点がなかったですから。まぁ、自分の年齢を考えれば祖父もとっくに死んでいるでしょう」

 何のためらいもなくそう話す小柴。それがあまりに自然なので、私は一抹の疑いも持たずに質問を続けます。

「何かお爺様のエピソードを聞いたことはありませんか」

「エピソード? そうですねぇ……」

 小柴は下げていた腕を胸の前に組んで考えます。

「俺が小さいときに父から聞いた話なんですけど、祖母は結婚する前まで家族と満州に暮らしていて、当時のソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄して満州へと侵攻してきたときに一人逃げ遅れ、ソ連軍に捕まってしまったんです。当時の世情ですから、捕まった時点で祖母は殺される覚悟、もしくは戦陣訓に則り、生きて虜囚の辱めを受けまいと自殺する覚悟もしていたみたいですが、その祖母をこっそりと逃がしてくれたのがソ連兵をしていた祖父で、軍を抜け出してまで一緒に日本まで逃げてくれたそうです」

 ただただ、私はその話に聞き入ってしまいます。その壮絶なエピソードもそうですが、何よりも驚いたのは小柴の歴史認識です。あくまで私の偏見ですが、大学中退で三十歳を過ぎてもアルバイトでフラフラしていたような男が、そこまで歴史の知識があるとは思えませんでした。これは実話だからこその雄弁だと感じた私は、この話が事実に違いないという確信を持ったのです。

「自分たちを置いてどこかへ行ってしまったお爺様でも、お婆様はずっと感謝されていたんですね」

「助けてもらったことに関してだけね。祖母いわく、それとこれと話は別だと。助けてもらった話以外は鬼の形相で聞くに堪えない罵詈雑言で祖父を罵っていたそうですよ。幼い父がトラウマになるくらい」

「……そうですか。で、ロシア語というのは」

「うちは貧しくて、おもちゃも絵本もろくにないような家だったんです。だから、小さい頃から暇潰しになるような物は、父が祖父から買ってもらったという古い日露辞典くらいで、別に勉強しようとかそういうつもりじゃなく、暇に任せて眺めていたら勝手に頭に入っていた感じですかね」

「そうだったんですか。なるほど、よくわかりました。すみません、話の腰を折ってしまって」

 話はポルカがしていた謎の電話の場面に戻ります。

「確か、小柴さんがポルカさんの話を聞くためにベッドを下りたところだったはずです」

「ああ、そうでしたね」

 小柴の右手がいつもの顎ヒゲに伸びました。

「ベッドを下りて廊下に近づき、半開きのドアの隙間から廊下を覗くと、『もうスパイを辞めたい』と泣きながら何度も携帯電話にお願いをしているポルカの後ろ姿が見えたのです。俺だって完璧なロシア語の能力があるわけではないので、最初は耳を疑いました。しかしポルカが『もうアキヒロを騙せない。日本を裏切りたくない』と言ったところで、信じるしかなくなったのです」

「ポルカさんがどんな日々を送られていたのか、小柴さんは把握されていたんですか?」

「スパイだとわかるまでは、北千住のロシアバーで働いていると聞いていました。もちろん俺はそれを信じていたので、バーには一度も行ったことがないのですが、店が北千住にあるのはホームページを見せてもらっていたので知っていましたよ」

「そこがロシアと繋がる、所謂アジトだったんですね……」

 ここで私はある違和感に気づきます。

「……でも、ポルカさんはウクライナ人だったような」

「そうですよ」

「ウクライナ人がロシアのスパイになれるんですか?」

「そこは俺も気になったので、ポルカを問い質しました。どうやら、ポルカはモスクワの大学に留学して日本語を学んでいたみたいで、そこの教授とSVRの高官が繋がっていたらしく、美人で優秀なポルカを高い報酬で誘ったみたいです」

 とても緊張感のある話が続いていましたが、恥ずかしながら、私の中に好奇心が芽生えてしまうのです。

「あのぅ……」

「何でしょう」

「ポルカさんの写真は、もうお持ちではないですよね。携帯電話とかに……」

「先生。俺はそんな柔な男じゃないです。過去を引きずるようなことはありません」

「ごめんなさい。そうですよね。すみません、話を続けてください」

 小柴は微動だにせず話を続けます。

「俺の口から言うのもこっ恥ずかしいのですが、彼女は俺を愛するあまり、もうスパイ活動を辞めたいと話していたようです。俺と結婚をして、日本で普通の暮らしがしたいと」

 これまでほとんど休むことなく動いていた私のペンを持つ右手が止まっていました。

「それ以上は聞く必要がなかったですね。俺はまた静かにベッドへ戻りました。でも眠れるはずがありません。俺はまだ微かに聞こえるポルカの声を背に、目を瞑ったのですが、ポルカの思いを考えたら胸が張り裂けそうで。そして決めたんです。朝が来たら、ポルカに結婚を申し込もうと。そう決意したときに部屋のドアが開く音がし、足音はベッドの前で途絶え、すぐにベッドの後方に別の体重がかかりました。俺はそのまま眠ったふりをしていると、ポルカが俺の背中に抱きつき、それでも俺はそのまま、ポルカの温もりを感じながら、その温もりの中でいつしか眠りについたのです」

 最後の言葉を実践するように小柴は目を閉じて一息入れ、また私の目を見つめます。

「そして翌朝、俺が目を覚ますと、隣にポルカはいませんでした。その日、一緒にスカイタワー西東京を見に行く約束をしていたのに、部屋の中にもいないし、何度電話をしても出ません。俺は急いでポルカの家に行きましたが、そこにもポルカはいませんでした。そして俺の眠っていた東欧の血が騒ぎ始めたんです。ポルカはウクライナへ帰ろうとしていると」

 私は小柴への質問を閉ざし、あえて口を挟みませんでした。ただ、今はすべてを吐き出してほしい。そうすることで少しでも悲しみが和らげばと。そう願いながら眼差しを強め、心を込めて相槌を打ち続けます。

「気づいたら俺は成田行きのスカイアクセスに乗っていて、成田に着き次第、ターミナルを探し回っていました。ここでポルカと出会えたら、もうドラマですよね。でも現実は甘くはありませんでしたよ。ポルカとの再会が叶わなかった俺は打ちひしがれながら帰途に着いたんです。電車の中で彼女との想い出を振り返りながらね」

 ついさっき「俺は過去を引きずる柔な男じゃない」と豪語していた小柴ですが、このときはまだ違ったようです。壮絶な失恋が、彼を変えた。それが虚言癖になるきっかけだったのかもしれない――。

「その途中で偶然、思い出したんですよ。ポルカが俺の部屋に残していった物を」

 投げかけられたようなテンポに、私は重い口を開きました。

「それは、何ですか」

「段ボールです」

 心の中で私は「段ボール」と言い直しました。

「ポルカが俺の部屋に通うようになったとき、着替えとか生理用品とか、よく使う日用品を段ボールに詰めて持ってきたんです。その存在を思い出した俺は無性に段ボールの中身を確認したくなり、駆け込むようにして部屋へと戻って押入れを開けました。段ボールの中身はそのままでしたね。その事実よりも驚いたのは、段ボールに伝票が貼り残されていたことです。そこには、送り主であるポルカの家族が住んでいる地元ウクライナの住所と、届け先としてポルカの本名が記載されてありました。ポルカは、ララセイ・フランニコフという本名だったのです」

 それを聞いたとき、まるで自分のことのように心が晴れやかな気持ちになりました。早く彼女のもとへ行ってあげて。まるで自分も現場にいるかのように、私は心の中でそう叫んでいました。

「俺はたいした荷物も持たず、さっきまでいた成田に向かっていました。成田からはトルコのイスタンブールを経由し、黒海を空路で渡ってウクライナのオデッサという美しい港町に着きます。フランニコフ……、いや、ポルカの実家がある町です。オデッサの中心地からタクシーに乗って伝票にある住所通りに進んでもらうと、三〇分ほどで送り主と同じ名前の表札が掲げられている家の前に到着しました。どこか長閑で落ち着いた閑静な住宅街にあったその家は、決して立派な門構えではありませんでしたが、歴史と品格のある欧州らしい建物のポルカの実家を前にして、初めて『もしポルカがいなかったら』と思い始め、勢いだけでウクライナまで来てしまったことに後悔をしましたが、ここまで来て引き下がれません。緊張しながらベルを鳴らすと間もなくして玄関のドアが開き、そこから出てきたのは、ポルカ本人でした」

 私は偽りのない心境を呟きます。

「良かった。やっぱり実家に帰っておられたんですね」

 恥ずかしそうにはにかみながら頷いた小柴はさらに話を続けます。

「開口一番、俺は言ってやりました。『お前がわざと残してくれた唯一の手掛かりを辿って、ここまで来たよ』って」

「わざと?」

「しっかり者のポルカが、ましてや、スパイまでしていたポルカが、実家の住所が残った段ボールを他人の家に持ち込むなんてありえない。あいつは、もしものときに備えてわざとやったんです。ポルカは涙を浮かべながら、笑っていました。否定も肯定もしないところが、やっぱりスパイなんでしょうね」

 全身に清らかな風が流れた気がしました。普段、小説とかドラマとか、創り物で感動した試しのない私が、創り話かもしれない小柴の話に感動し、鳥肌が立っていたのです。

「俺は四の五の言わず、『日本へ帰ろう』と言うと、ようやくポルカが自身の隠された秘密を、自身の口から初めて明かしてくれました。そのすべてを聞いた上で、俺はもう一度『日本へ帰ろう。そして、結婚しよう』と申し込んだんです。ポルカの笑顔に涙がつたっていました。『私は帰れない。結婚もできない。あなたに迷惑が掛かるから』って。もちろん俺はそんなこと関係ないと言いました。それでもポルカは、俺に迷惑を掛けるくらいなら、こうやって離れて暮らした方がいいと言って聞きません。俺だってウクライナまで来た意地があるから、一歩も引かないつもりで応戦していたときです。彼女は漆黒のレザー生地のスカートを少し捲ると、そこからある物を取り出しました」

「それは?」

「トカレフです。彼女はそれを俺に向けることなく、己のこめかみに向けて突きつけました。ポルカの並々ならぬ決意を見た俺は、もうここにいるべきではないと感じ、渡すべき物を渡し、彼女の家を去ったのです」

 それは小柴の巧みな話術なんでしょう。私は聞かずにはいられませんでした。

「その渡すべき物とは」

 小柴は不敵に笑いながら言いました。

「決まってるでしょ。俺とポルカの出会いのきっかけとなった物……」

 私が過去の話を思い出そうと記憶のスイッチに手をかけた瞬間、すぐに小柴の口から意外な答えが放たれます。

「コンドームですよ」

 すると私は、今考えると信じられないような相槌を返すのです。

「なるほど」

 すべてが当時の私にとっては納得のできる筋道だったのです。そんな私を見たからか、小柴の方が先に自身の哀しくも美しい想い出話から現実に戻りました。

「ちょっと話しすぎちゃったな」

 今さらながら真剣に照れ始めた様子の小柴。

「先生が無駄に喋らせる空気を作るから」

「私は何もしてません。何もできませんでした」

 それが偽らざる私の気持ちでした。完全に小柴の話に入り込んでしまい、この場が診断という名の面談であるということ、そして自分が医師であることすらも忘れてしまっていたのです。医師ではなく一人の高嶋凛子として、小柴彰裕の身の上に一喜一憂していた。診察費をもらってないとはいえ、医師としてあるまじき姿です。この後もポルカさんとの悲劇話が余韻として診察室に残り、その空気を引きずったまま診断らしい診断はできませんでした。そして小柴が去った後になって、ようやく気付くのです。ポルカさんとの話もどうせ嘘であるということを。ただ、はっきりとわかったことが一つだけあります。小柴の話術は、その真偽はともかくとして、私が今まで出会ってきた患者、いやそれ以外に接してきた有能な人々の中でも、飛び抜けて優れているということです。


 意識が事務室の自分に戻ったのと同時に私は我に返り、葉那さんとの話が途中だったことを思い出します。そして変な間を埋めるべく、冷静を装って話を再開させました。

「……彼の場合はまだそれほど、それほど詳しい症状がわかってないから、これからやることがいっぱいあるんだけどね」

 そうです。やるべきこと、調べるべきことがまだまだある。私は未知なる世界に足を踏み入れるときと同じように、不安と喜びを併せ持った純真無垢な気持ちで小柴と向き合っていく決意を固めました。

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