DAY5 青の棲家
最初に向かったのは、海洋生物の展示コーナーだった。
薄暗い通路の両脇を巨大な水槽が埋め尽くし、青い光が床へ揺らめく波紋を描いている。
まるで夢の中の“あの教室”みたいだ、と僕は思った。
「……深海魚、好きなんですか?」
「好きというより、親近感かな。海の底に棲むものには、どうしても惹かれる」
舟先輩はガラス越しに漂うリュウグウノツカイを眺めながら、小さく笑う。
「深海というのは不思議な場所だ。静かで、暗くて、冷たい。なのに、生き物だけは確かにそこに存在している。まるで世界から忘れ去られた命の吹き溜まりだ」
「……」
「だから私は、ああいう場所が嫌いじゃない。ずっと海の底にいた私にとっては、むしろ地上の方が異質なくらいだ」
さらりと言う。
けれどその“ずっと”の重みを想像した瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
彼女は普通の高校生みたいに笑う。
冗談も言うし、ちょっと意地悪だし、案外ノリも軽い。
なのにその実態は、人を喰らい、邪神の復活儀式に組み込まれた怪異。
そのギャップが、僕の脳を滅茶苦茶にする。
「……先輩」
「なんだい?」
「先輩って、本当に人を食べたんですか」
聞いてしまった、と思った。
デートの空気に水を差すにも程がある。
けれど彼女は怒りもせず、水槽の青を見つめたまま。
「食べたよ」
あまりにも、静かに答えた。
「最初は泣いた。吐いた。三日三晩眠れなかった。……でも、慣れてしまった」
そこで彼女は、自嘲気味に肩を竦める。
「人間というのは存外、環境に適応する生き物らしい」
「……」
「まぁ、誤解しないで欲しいが、好んで食べていた訳ではない。私だって出来ることならハンバーガーとか、ポテトとか、そういうジャンクなものを頬張りながら『ウマウマ』とか言いたかったさ」
「言い方が妙に俗っぽいですね……」
「ネットは嗜むのでね。海底Wi-Fiは、意外と速い」
「嘘ですよね?」
「さぁ?」
くすくすと笑う彼女の横顔は、やっぱり綺麗だった。
どうしようもなく。
♪ ♪ ♪
「……で、どうかな。実際のところ」
「何がです?」
「私と歩いてみた感想だよ。夢の中ではなく、こうして現実で」
クラゲの展示水槽の前。
青白い光に照らされながら、彼女は僕を見た。
その視線は、妙に真っ直ぐだった。
「正直に言うと」
「うん」
「思ってたより、普通です」
「ほう?」
「もっとこう……禍々しい感じとか、精神が汚染される感じとかあるのかと思ってました」
「失礼だな君は」
「でも、本当に普通で」
そこで言葉が止まる。
普通。
本当にそうだろうか。
人を喰らって。
邪神復活の巫女で。
放っておけば世界が滅ぶかもしれなくて。
そんな存在を前にして、“普通”なんて言葉を使うのは、きっとおかしい。
なのに。
「……普通に、楽しいです」
そう言うと、彼女は一瞬だけ目を丸くして。
それから。
「――ああ、駄目だな」
とても困ったように笑った。
「それは、困る」
「何がですか」
「君がそうやって私を“普通”として扱う度に、私は少しだけ、生きたくなってしまうじゃないか」
その言葉に、胸が締め付けられる。
生きたい。
たったそれだけの願いが、どうしてこんなにも痛々しく聞こえるのだろう。
「先輩は」
「うん?」
「本当は、死にたくないんじゃないですか」
問い掛けた瞬間、彼女の笑みが止まった。
静寂。
水槽の中を漂うクラゲだけが、ゆっくり揺れている。
「……どうだろうね」
やがて彼女は、小さく息を吐く。
「死にたくない、というより。死ぬ以外の道を、最初から考えないようにしていただけかもしれない」
「だったら――」
「でもね、海斗」
彼女は遮るように言った。
「希望というのは、往々にして人を狂わせるんだ」
その声は優しかった。
だからこそ、余計に苦しかった。
「期待してしまえば、諦める時に苦しくなる。なら最初から諦めていた方が、ずっと楽だ」
「それは逃げです」
「そうだよ。だから私は逃げている」
彼女はあっさり認めた。
「怖いんだ。私は」
その瞬間だった。
初めて彼女が、“怪異”ではなく、“一人の女の子”に見えたのは。
「死ぬのが?」
「違う」
彼女は首を横に振る。
「生きたくなってしまうのが、怖い」
空調の微風が頬を撫ぜる。
微かな湿り気に、僕は。何となく涙を感じた。
そんな折、館内放送が流れた。
『間もなく、プラネタリウム特別上映を開始いたします――』
星空の投影案内。
その言葉に、彼女の表情が僅かに曇る。
「……星、か」
「先輩?」
「ねぇ海斗。もしも」
彼女は、水槽越しの青を見つめながら呟いた。
「もしも本当に星辰が揃って、ルルイエが浮上したら。君は――私を殺せるかい?」
答えられなかった。
即答なんて、出来る筈がなかった。
そんな僕を見て、彼女はどこか安心したように目を細める。
「やっぱり、君は優しいね」
「……優しくなんかないです」
「いいや、優しいさ」
そう言って彼女は歩き出す。
「さぁ、行こう。せっかくのデートなんだ。今日はもっと、青春らしいことをしようじゃないか」
「青春らしいこと?」
「例えば――」
彼女は悪戯っぽく振り返った。
「手でも、繋いでみるかい?」




