失われた警戒心
顏と身体の数か所に打撲痕、左頬から耳にかけての裂傷。
リュシアンは実に惨憺たる有り様で、帰宅してすぐに寝所へ向かい、医師の手当てを受けた。
腫れはそのうち引くし、青あざはいずれ消えるが、裂傷は生涯残るだろうと医師は言った。
「顔に傷のある男は嫌か? お前は、わたしの顔が好きだっただろう」
リュシアンは、包帯まみれの痛々しい姿で寝台に横たわりながらそう言った。台詞こそ自虐的だったが、メリザンドが『嫌なわけない』と答えるのを確信しているようだった。
不安で心がいっぱいだったメリザンドは、つい苦笑する。
「いいえとんでもない、かえって男っぷりが上がったというものです」
泥棒猫除けにもなるでしょうし、という言葉を吞み込んでから、夫へ深い労りの目を向ける。
「あれだけの怪我をしておいて、何日も馬車に揺られるのはさぞお辛かったでしょう」
「一刻も早くお前に会って、『もうすべて大丈夫だ』と安心させてやりたかった。わたし不在の間、子どものようにはしゃいでいたそうだが、不安の裏返しだろう?」
包帯の隙間から覗く緑色の瞳には、優しく温かい光が宿っていた。
「そのネックレスを身に着けているお前を見たとき、ほんとうに嬉しかった。我が想いは、ずっとお前の傍らにあったのだな」
「これの贈り主がリュシアンさまではないかと教えてくれたのはプルヴェ夫人です。彼女から言われなければ、永遠に気づきませんでしたよ」
少しくちびるを尖らせると、リュシアンは「そうか」と小さくつぶやいた。
「きちんと言葉に出さなければ、なにも伝わらないな。ならば――」
リュシアンの喉元で咳払いの音が聞こえた。包帯にくるまれた顔が、メリザンドへとまっすぐ向けられる。
「メリザンド、我が最愛の妻。改めて、夫婦としてともに歩もう。失われた時間を、ゆっくり確実に埋めていこう」
「リュシアンさま……」
メリザンドは思わず夫へ身を寄せていた。
「抱きついてキスをしたいのに……今は無理ですね」
至極残念そうに嘆息すると、リュシアンも包帯の奥から吐息を漏らした。
「そうだな、わたしも同じ気持ちだ」
そして二人で声を立てて笑った。
***
リュシアンが帰宅してから二週間が経った。
身体は順調に回復しており、昨日から執務室で仕事を始めた。
メリザンドも心機一転、子どもたちとはしゃぎ回るのはやめて、侯爵夫人らしい立ち振る舞いを心掛けることにした。
使用人への差配の他、上・中流階級の女性に王都風の着こなしや流行の髪型、社交界での礼儀作法、アルバス語をはじめとした諸外国の言語を教えたりした。
そうしていると、まるで自分がプルヴェ夫人になったような気分がして、くすぐったいような、寂しいような気分になった。
遅めの昼食のあと、手持ち無沙汰になったメリザンドは、数人の子どもを供につけて屋敷の外へ散策に出かけた。周辺地理の把握と、領民の暮らしぶりを垣間見るだめだ。
広大なブドウ畑の間を縫うように造られた道を歩きながら、それを世話する人々の姿を眺める。
生き生きと働く老若男女の姿を見て、この地がとても豊かなことを知った。みんな心に余裕があり、いきなり現れた侯爵夫人に対しても好意的に接してくれる。
王都リュテス市で生まれ育ったメリザンドにとって、自然と人情味にあふれたこの土地は非常に魅力的だったが、反対にこの地で生まれ育ったリュシアンは王都を見たとき、なにを思っただろう。
若く美しい彼にとって、大都会での生活はあまりに刺激的で、手放しがたいものだったに違いない。
メリザンドはおそらく二度と王都の地を踏むことはできない。リュシアンもまた、その覚悟で国王と話をつけてきたのだろう。いつか必ず、王都が恋しくなる日が来るだろうが、二人で支え合っていければいいと思う。
――でもリュシアンさま……どうやって国王陛下と『話をつけた』のかしら。
風に揺れるブドウの緑葉を眺めながら、メリザンドは思案に暮れた。
国王と決闘でもしたのではないか、と一部の者がささやいていた。もしそうだとして、勝者であるリュシアンがあの怪我なら、王はもっとひどい有り様になっているということになる。いくらなんでも、それはちょっと考えられない。
ならば、メリザンドを取り戻すために一方的な暴行を受けたのだろうか。執拗に顔を狙われて、耳まで切り裂かれて……。
だが、リュシアンははっきりと大丈夫だと言った。ならば、もう怯える必要はないのだろう。王命に従って妻を差し出し続けてきた男が、最後に身命を賭してくれたのだ。
結果、メリザンドはまごうことなき自由を手に入れた。少女の頃から憧れ続けていた侯爵の妻に戻ることができた。
……とはいえ、リュシアンの怪我がある程度癒えるまでは、『本当の夫婦』になるのはお預けだ。
いざその日が来たときのことを想像すると、とても邪な気分になる。
――ああ神よ、どうかお許しください……。
夫婦の営みをするのに神に許しを請う必要は一切ないはずだが、メリザンドが望んでいるのは愛の果てに得られる悦楽だ。神の教えにばっちり反している。
背徳的な気分になりながら熱い吐息を吐き出したとき、背後から近づいてくる蹄の音に気付いた。
「奥さま、奥さまー!」
大声に振り返ると、厩番の少年が馬上から手をぶんぶん振っていた。
「お客人がみえてます。急いでお戻りいただけますか?」
「わたしに? お名前はうかがっていて?」
「はい、ロレンなんとかオルランド……とかいう外国人です。奥さまのサイン入りの手紙を持っていました。奥さまとお話する約束があるとかなんとかで」
「ああ、オルランディ……」
意外と早く来たな、とメリザンドは苦笑した。もう少し落ち着いてからの方がよかったが、来てしまったものは仕方がない。彼との約束はきっちり果たさねばなるまい。
「今は、旦那さまが相手をされてるみたいです。そのお客が来たとき、なんだかすごく難しい顔をしていたそうですよ。嫉妬ですかね?」
余計なことを抜かす少年を軽くにらみつけて黙らせる。リュシアンもそれなりにオルランディが苦手なのだろう。
「お使いご苦労さま、すぐに戻ると伝えてくださいね」
ポケットに忍ばせていた砂糖菓子を渡すと、少年はぱぁっと顔をほころばせて屋敷へと戻っていった。メリザンドも同乗できればよかったのだが、あいにく乗馬は苦手……というより、単純に怖い。
遠ざかる馬の尻を眺めながら、メリザンドも足早に帰途へ着いた。頭の中で、オルランディになにをどう話そうか、情報を整理しながら。
しかし――かつてまったく同じことがあったはずなのに、メリザンドの胸裏にこれっぽっちも疑念や警戒心が湧くことはなかった。
いわゆる、『平和ボケ』してしまっていたのだろう……。
「かつてまったく同じこと」があったのは、第三幕「急な来客」においてです。




