自由を得て
メリザンドの父は非常に用意周到だった。
リュテス市に構えていた銀行の本店機能をあっという間にエスパナ帝国へ移し、一族ごとガッリアを離れた。
もちろんメリザンドも父と共に……ということになっている。
ちなみに、軍人として遠く離れた大陸へ赴いている兄と、他家へ婿入りした弟は、すでに実家とは一切の関りがない。ゆえに、王宮から父親の所業を責められても、知らぬ存ぜぬを貫くことができた。
ガッリアからエスパナ大使を通じて、メリザンドの引き渡し要請を何度か行ったようだが、エスパナ側が拒否した。
メリザンドの父がエスパナの貿易事業に多額の援助を申し出たためだ。この件はエスパナと内密に取り決められ、ガッリアが実情を知るのは何年も先のことになる。
メリザンドの父は、故国を見放したのだ。娘の一件がなくとも、何十年後を見据えた結果のようだった。
すべての事情を知らぬガッリア廷臣らは、『なぜメリザンドの父親は、実娘とはいえ公式寵姫をかどわかすような真似をしたのか?』と首をかしげることとなった。
次はエスパナ皇族に娘を差し出すつもりでは?
王妃の出産に立ち会わされたのが相当屈辱だったのでは?
実は国王から暴力を受けており、逃げるチャンスをうかがっていた?
あらゆる噂が流れたが、いつまでも消えた女の話をしている場合ではないと廷臣らは気持ちを切り替えた。
これはまたとない好機! さあ、王に新たな愛人を紹介しようではないか!
若い娘も未亡人も! 大輪の花から細腰まで! 美少年はどうだろう?!
***
現在メリザンドがいるのは、ガッリア南西部にあるバルテ侯爵領である。
リュシアンの生家であるシャノワール邸(※)は、ブドウ畑に囲まれた古めかしいが大きな屋敷。
埃っぽくて、虫もたくさん出没するけれど、歴史を感じさせる調度品、美術品、蔵書の数々は実に魅力的だった。
(※注釈:シャノワールはリュシアンの家名)
なによりも、伸び伸びと生活できることが嬉しかった。
窮屈な補正下着で身体を締め付け、重いドレスを着て宝飾品で派手に飾り立てる必要がなくなり、肩こりや頭痛がなくなった。
侯爵夫人としての立ち回りを勉強する一方で、使用人の子供たちと一緒になって庭園を駆けまわり、彼らに連れられてワイン貯蔵洞窟に忍び込んだり、家宰や女中頭にいたずらして笑い転げた。
こんなにも自由で楽しい日々を送れるなんて、ほんとうに夢のようだった。
しかし、屋敷の主人であるリュシアンはいない。
夫との再会の喜びに浸れたのはごくわずかな間だけ。彼は屋敷で数日過ごしたあと、王都へ戻ってしまった。
公式寵姫が姿をくらませたのと同時に、その夫が所領へ引きこもってしまったら、疑いの目を向けられてしまうから。
メリザンドの兄弟と同様に、リュシアンも『あの女とは一切関わりなく、行方を知るはずもなく、興味もない』という素振りをせねばならなかった。ゆえに、しばらく王都で『放蕩』を続けるらしい。
そのため、メリザンドとリュシアンは未だ『本当の夫婦』になれてはいない。
次の月の物が始まるまで性行為を控えようと、メリザンド側から提案したのだ。
王宮から出奔してすぐに妊娠してしまったら、ほんのわずかでも国王の子である可能性を疑い続けなくてはならないから。
だが、リュシアンが王都へ発ってから程なくして無事に月の物が始まり、妊娠の心配はなくなった。
リュシアンとの再会がいろいろな意味で待ち遠しい。
けれど、ふとした瞬間に強い不安に駆られる。
王は、急に姿を消したメリザンドをどう思っているだろうか。怒り、嘆き、苦しんでいるのではないか。
メリザンドがバルテ侯爵領にいることを、いつまでも隠しおおせはできないだろう。いずれどこからか情報が漏れる。
万が一、王宮に連れ戻されるようなことがあったとしても、リュシアンとの子さえ妊娠してしまえば離婚は難しくなる。ゆえに、早く子供ができますようにと祈るしかない。
最良なのは、王がさっさと他の女に心変わりしてくれることだ。廷臣らは躍起になって王へ新しい女を紹介するだろう。そのうちの誰かを気に入って、新たな公式寵姫に据えてくれればそれでいい。
プルヴェ夫人や王妃がなんらかの善後策を講じてくれれば……とふと思ったが、すぐに己の甘ったれた思考を恥じた。彼女たちにそこまで求めるのはあまりに身勝手だ。
プルヴェ夫人は十分すぎるほどのことをしてくれたし、王妃は産後の肥立ちが芳しくないせいで、あまり話ができなかった。
二人とは、きっともう二度と会うことはないだろう。とくにプルヴェ夫人のことを思うと、ときおり涙がこぼれる。
***
メリザンドがシャノワール邸に身を移してからおよそ二か月後の夕刻、リュシアンがようやく戻ってきた。
女中から夫の帰宅を聞かされたメリザンドは、『連絡くらいよこしなさいよ』とわずかな怒りを覚えつつも、胸躍らせながら玄関ホールへ向かう。
そこで目にしたのは、家宰に支えられて、ひどく疲れた様子で邸内に入ってくるリュシアンの姿。メリザンドは一瞬固まったあと、なりふり構わずドレスの裾をたくし上げて、階段を駆け下りた。
「リュシアンさま……!」
彼の顔は包帯で覆われて、右目と鼻先、口元だけが露出していた。口角は腫れ、くちびるは紫色に変色している。
「大丈夫だ、メリザンド。大事ない」
リュシアンは開口一番、はっきりした声でそう言ったが、到底信じられない。どこかで暴漢にでも襲われたのだろうか。執拗に顔を狙われているようだが……。
リュシアンは手を伸ばし、震えるメリザンドの頬、そしてカメオのネックレスに触れた。
椿の花を髪にさした、美しい女性の横顔が彫られたシェルカメオ。結婚したばかりの頃にリュシアンがくれたもの。そうとは知らなったときから、ずっと大事にしてきた。
王宮にいたころは、華美なドレスに合わせるのが難しくて、ずっとしまっていたけれど、今は毎日身に着けることができる。
この屋敷に来たばかりの頃は、荷解きがまだだったため、身に着けた姿を見せるのは初めてだ。
だから、ようやく言えると待ち構えていた。『この素敵なネックレスをくれてありがとう』と。
だが、再会の喜びに浸っている場合ではなくなった。急いでリュシアンの寝所を整えて、医師を呼んで手当をしなくては……。
半ばパニックに陥っているメリザンドに向けて、リュシアンは血の滲むくちびるに柔らかな笑みを浮かべた。
「国王陛下と話をつけてきた。ただそれだけのことだ」
彼はそれ以上を語らなかった。




