王子の胸裏
「さて、バルテ侯爵夫人。『遠慮なく頼っていい』というぼくの言葉が口先だけじゃないという証に、これを渡しておこう」
アルフレッドが胸ポケットから取り出したのは、小さなカードだった。華やかな装飾の施されたそれは、いわゆる『名刺』と呼ばれるものだ。
「これを持ってぼくの屋敷へ来てもらえば、門前払いされることはないよ。まあ、手紙の一つでもくれれば、国境まで迎えに行ったっていい」
「んま~、メリザンドったら果報者ねぇ! アルフレッドさまにここまで言っていただけるなんて!」
イベール夫人が甲高い声で割り入ったのは、アルフレッドへのフォローだろう。まかり間違っても、メリザンドが名刺を突き返したりしないように。
「……ありがたく頂戴します。有事の際は、ご厚意に甘えさせていただきますわ」
丁寧に頭を下げたあと、メリザンドはわずかに眉根を寄せた。
――『有事の際』って、具体的にはどんなことかしら?
わざわざガッリアを出て、外国人であるアルフレッドを頼らなければならないような事態が起こりうるのだろうか。だとすれば、それはいったいどのような……。
「では、ぼくはこれで失礼するよ。あとはご婦人同士、心行くまでお茶と会話を楽しんでいってほしい」
アルフレッドが優雅に立ち上がる。続いて腰を上げようとするメリザンドらを手で制し、足早に退室していった。
――突然やって来たかと思えば、己の言いたいことだけ言って去っていったわね……。
やや呆気に取られたが、特に不満はない。会話中、何度も柱時計に視線をやっていたので、別の約束があるのだろう。一国の王子が多忙なのは当然のことだ。
扉が閉まる音がしてから少しすると、イベール夫人がにやりと笑って言った。
「女を待たせているのよ。甘い香水の移り香がしたから、間違いないわ」
――血は争えない、ということね。
メリザンドは小さく嘆息し、手の中の名刺を少しだけ折り曲げた。
「オルガったら、アルバスの王子とメリザンドの密会を仕組むなんて……!」
プルヴェ夫人が鋭い声でイベール夫人を非難する。本気で怒っていることが伝わってきた。
「密会なんて大げさねぇ~。彼も言っていたけれど、あくまでもあたくしは『友人』を紹介して、みんなで楽しくおしゃべりした、それだけのことよ」
「……まったくあなたという人は」
のらりくらりとしたイベール夫人に、プルヴェ夫人は疲れたように嘆息する。背もたれに深く身を預け、もう一つため息をついた。
「……メリザンド、アルフレッド殿下と会ったこと、国王陛下には隠しておいた方が良いですよ」
「や、やはり、他国の王子と公式寵姫が非公式に会ったとなると問題が……」
青ざめながら問うと、プルヴェ夫人は小さくかぶりを振る。
「そうではなく……。アルフレッド殿下は、陛下とさも仲が良かったかのような物言いをしておられましたが、実のところしょっちゅう対立しておられたそうですよ。犬猿の仲、といっても差し支えないほどに」
「え、そうなのですか?!」
吃驚に目を見開き、固まっていると、イベール夫人がからからと笑声をあげた。
「そうねぇ~、基本的には一緒に行動していたみたいだけれど、事あるごとに取っ組み合いの喧嘩をしていたわよ」
「取っ組み合い?! あのお二人が、そんな野蛮なことを? 弓や馬などではなく?」
困惑のあまり目が回りそうだ。いつも鷹揚に構えているユージェーヌと、気品にあふれるアルフレッドが、くんずほぐれつの泥臭い争いをしているところなど想像できない。したくない。
「一度現場を見たことがあるけれど、口論から始まって、険悪な雰囲気が増してくると、取り巻きがさっと上着を預かるの。そしてみんなでまわりを取り囲んで、場を作って……ちょっとした見世物だったわねぇ。殴り合いじゃなくて投げ合いだった分、平和的と言えるんじゃないかしら」
「はあ……」
なにが平和的か、と呆れ果てながらも、メリザンドはアルフレッドの好意の裏にある想いを悟った。
万が一、メリザンドがユージェーヌを袖にするようなことがあれば、そしてその結果アルフレッドを頼るようなことがあったのなら……。
――アルフレッドさまは、十二分に溜飲を下げることができる、というわけね。
情け深い好青年の顔をしながら、内心ではライバルを貶めたいと腹黒く考えていたのだ。
一方で、友人であるリュシアンの友として、その妻の力になりたいという想いも真実だと思いたい。
――まあ、まかり間違っても、アルフレッドさまの思惑通りにはいかないでしょう。
ユージェーヌがメリザンドを必要とする限り、その心を裏切るようなことは絶対にない。そもそも公式寵姫とは、王命により就任する重職なのだから、職務放棄はすなわち国王への造反だ。
「ところでメリザンド、あと数日はアルバスに滞在なさるのでしょう? 一度、あたくしの屋敷にいらっしゃいな!」
イベール夫人が唐突に声を張り上げた。
「ここの料理には及ばないにしても、できうる限りのもてなしをして差し上げるわ。それで、ぜひ泊まっていってちょうだい」
「ええと……」
プルヴェ夫人に視線で伺いを立てると、顔いっぱいに渋いものを浮かべていた。
「オルガ、また誰かと引き合わせようというのではないでしょうね」
「んもう、神に誓ってそれはないわよ。ただ、もう少しこの子と話をしてみたくてねぇ……」
イベール夫人は大きな目を細める。含みを持ったその視線をどうしても無視することはできず、メリザンドは「はいはい」とどこか投げやりに了承していた。




