第20話 三人の食卓
四月になった。
リンデンバートの春は、一度始まると早い。
裏手の岩場に一輪だった白い花は、十日で二十を超えた。石畳の隙間からも、名前の分からない黄色い花が顔を出している。村の周りの木々には薄緑の若葉が開き始め、冬の間ずっと灰色と白だけだった景色に、色が戻ってきた。
湯溜まりの湯気は、冬ほど目立たなくなった。外気が温かくなると、湯と空気の温度差が縮まって、湯気が薄くなる。けれど朝の早い時間、まだ空気が冷えているうちは、白い柱がまっすぐに立ち昇る。この村に来た日から変わらない景色だ。
朝、目が覚めたとき、離れの中にパンの匂いが充満していた。
焦げた匂いではない。きつね色の、ちょうどいい匂いだ。
寝台から体を起こして竈の方を見た。
ディートリヒが竈の前にしゃがんでいた。
火箸で炉の中のパンをひっくり返している。慎重な手つきだった。片手にパン、もう片方の手で火加減を調整している。額に薄く汗が浮いている。
「……おはようございます」
「ああ」
ディートリヒはこちらを見なかった。パンから目を離していない。
初めてこの村でパンを焼いたとき、この人は真っ黒な炭を作った。あれは十一月だ。五ヶ月前。ユリウスが「くろい」と言い、食べられる部分を削いで渡したら「子どもに食わせろ」と言った。
あれから何度か焼いている姿を見た。最初のうちは焦がしたり、生焼けだったりした。それでもやめなかった。誰にも頼まれていないのに、朝早く起きて、竈に火を入れて、焼いている。
いつからか、焦げなくなった。
正確にいつからかは分からない。記録をつけていなかった。ディートリヒのパンの焼き加減は、看護記録の対象外だったから。
竈から出されたパンは、きれいなきつね色だった。表面に細かい割れ目が入っていて、中から湯気が出ている。焼きたてだ。
ディートリヒがパンを皿に載せて、机の上に置いた。
「焦げてない」
私が言う前に、自分で言った。
「はい。焦げてません」
「分かっている」
分かっていることを確認するのは、この人の癖だ。
ユリウスが起きてきた。寝間着のまま、裸足で、髪がぼさぼさで。毎朝同じだ。この子の朝は半年前から変わらない。
ただ、一つだけ変わった。
「おはよう、おかあさま」
十日前から、朝の挨拶が変わった。「まま」が「おかあさま」になった。毎回ではない。「まま」と呼ぶこともある。「エレ」と呼ぶこともある。三つの呼び名を気分で使い分けている。四歳の言語感覚は自由だ。
「おはよう、ユリウス。手を洗って」
「あらう」
ユリウスが水桶に向かった。自分で手を水に突っ込んで、布で拭く。ひと月前まではディートリヒに言われなければやらなかった。今は自分からやる。
それから机の上を見た。パンと、鍋のおかゆと、三つの皿。
「パパがやいた?」
「ああ」
「くろくない」
「黒くない」
ユリウスがパンを手に取って、匂いを嗅いだ。
「いいにおい」
木箱の台によじ登って、椅子に座った。
「いただきます」
手を合わせた。ハンナに教わった仕草。もう毎朝やっている。
ディートリヒは手を合わせなかった。けれどユリウスが手を合わせるのを見て、いつもの短い間を置いてから——今朝は、右手を軽く机の上に置いた。手を合わせるのとは違うが、何かの区切りをつける仕草だった。初めて見た。
パンをちぎった。ユリウスの皿に半分、ディートリヒの皿に半分。自分の分は残りの端の方だ。
「おかあさまのすくない」
ユリウスが自分の皿のパンを一切れちぎって、私の皿に置いた。
「ありがとう」
「パパも」
ユリウスがディートリヒを見た。
ディートリヒは自分の皿のパンを見た。一瞬の間があった。それから、一切れちぎって、私の皿に置いた。
「……食え」
ぶっきらぼうだった。パンを渡す仕草も乱暴だった。でも、パンは私の皿の上にある。
「ありがとうございます」
三人で食べた。
おかゆは私が作った。根菜と干し肉の、いつもの味だ。ユリウスが「おいしい」と言い、ディートリヒが黙って二杯目をよそい、私はパンをかじった。
ディートリヒのパンは、素朴な味だった。私が焼くものより少し硬い。塩が微かに多い。でも焦げていない。中まで火が通っている。
「悪くないです」
言ってから、気づいた。ディートリヒの口癖を使ってしまった。
ディートリヒの口元が動いた。笑ったのだ。今度こそ確実に笑った。小さく、短く、けれど確かに。
「真似するな」
「すみません」
「謝ることではない」
ユリウスがおかゆの匙を口に運びながら、二人を交互に見ていた。
「おかあさまとパパ、おんなじこといった」
「同じことは言っていない」
「いった。わるくないっていった」
「……聞こえていたか」
「ユリウスのおみみはいいよ」
その通りだ。この子の耳は良い。「エレ」を拾ったのもこの耳だ。
食後、ユリウスが皿を運ぼうとした。
両手で皿を一枚持って、よろよろと水桶の方に歩いていく。危なっかしい。けれど落とさなかった。
「もういちまい」
戻ってきて、二枚目の皿を持っていった。これも落とさなかった。
三枚目に手を伸ばしたとき、ディートリヒが先に取った。
「三枚目は俺が運ぶ」
「ユリウスがやる」
「二枚で十分だ」
「みっつめもやりたい」
「割れたら危ない」
「わらない」
ディートリヒが皿を持ったまま、ユリウスを見下ろした。ユリウスが見上げた。
目の高さが全く違う。大人と子どもの距離だ。けれど、視線はまっすぐにぶつかっている。
「……半分持て」
ディートリヒが皿を傾けて、ユリウスの手が届く位置に下ろした。二人で一枚の皿を持って、水桶まで運んだ。
小さな手と大きな手が、一枚の皿の両端を支えている。
その光景を見ながら、思った。
食卓を準備して、食べて、片づける。三人がそれぞれの手で。
これが家族というものなのかもしれない。血の繋がりではなく、毎日の繰り返しの中で、少しずつ形になっていくもの。
洗い物を終えて、ノートを開こうとしたとき。
ディートリヒが机の前に座った。
書類ではなかった。何も持っていない。手を机の上に置いて、窓の外を見ていた。
「話がある」
声が低かった。いつもの低さとは少し違う。重さがある。
ユリウスは外に出ていた。ハンナが迎えに来て、石畳の先に走っていった。二人の笑い声が遠くに聞こえている。
「王都に戻らなければならない」
椅子の上で、体が強張るのが分かった。
「会計監査の最終報告を、当主として監査院で受ける。それと——母上と話す」
マルガレーテと。
ディートリヒが窓から視線を戻した。私を見た。
「仮処分が出てから四ヶ月だ。監査が終われば、処分の解除か、あるいは正式な処罰が下る。どちらにしても、俺が監査院に出向いて結果を受け取る必要がある」
事務的な口調だった。公爵当主としての声だ。
「それと、温泉の認可の件も、内務卿に直接会って話を進める。ヴェーバーの報告は好意的だった。内務卿が首を縦に振れば、手続きは早い」
私は頷いた。頷くしかなかった。
この人がここに留まり続けるわけにはいかないことは、分かっていた。ディートリヒはヴァイスフェルト公爵家の当主だ。領地の管理も、王都での政務もある。この村で薪を割り、屋根を直し、パンを焼く生活は、永遠には続かない。
「いつ、発たれますか」
「一週間後を考えている」
一週間。
「分かりました。留守の間、村とユリウスのことは——」
「違う」
ディートリヒが遮った。
声が変わった。事務的な声ではなくなった。
「一人で行くとは言っていない」
目が合った。
「三人で行こうと思っている」
三人で。
その言葉が、離れの中に落ちた。春の光が窓から差し込んで、机の上を照らしている。木の実が三つ並んでいる。その横に、白い花を挿した小瓶。
「三人で、ですか」
「ユリウスを置いていくつもりはない。あんたを置いていくつもりもない。監査院の結果を受けるとき、三人で行く。母上と話すときも、三人でいる。逃げ隠れする段階は終わった」
ディートリヒの声は静かだったが、迷いがなかった。靴紐を結ぶときの手つきに似ている。一度決めたら、ためらわない。
「王都に戻れば、公爵邸に入ることになる。あの廊下を歩く。母上と顔を合わせる。使用人の目がある。楽ではない」
楽ではない。
あの廊下を思い出した。冬の手前の冷たい空気。マルガレーテの声。「あなたがそばにいるから泣くのです」。使用人たちの目。誰も目を合わせなかった。
半年前の記憶が鮮明に蘇った。
けれど、半年前の私と今の私は違う。
あの夜、裏口の掛け金を外したときの手は震えていた。ノートを鞄に入れた手は震えていた。今は震えない。
ノートがある。記録がある。裁定書がある。リーフェンタール伯の所見書がある。四十件を超える症例がある。ゲルハルトの証言がある。温泉の認可が進んでいる。そして——ディートリヒが「三人で行く」と言っている。
一人ではない。
「行きます」
声は穏やかだった。自分でも驚くほど穏やかだった。
「三人で、行きましょう」
ディートリヒが小さく頷いた。
外から足音が聞こえた。
ユリウスとハンナが戻ってきた。ユリウスの手に黄色い花が一本ある。また拾ってきたらしい。
「おかあさま、おはな」
「ありがとう。きれいだね」
小瓶に挿した。白い花の隣に黄色い花。春の色だ。
ユリウスが机の上を見た。パンの皿はもう下げてある。木の実が三つと、花の小瓶。
「おかあさま」
「なに」
「きょうも いっしょ?」
胸が詰まった。
この子はいつも確認する。明日もいるか、あさってもいるか、ずっとか。
「いっしょだよ」
「あしたも?」
「明日も」
ユリウスがディートリヒを見た。
「パパも いっしょ?」
ディートリヒは椅子に座ったまま、ユリウスを見下ろした。
「ああ」
短い一語だった。でも、十分だった。
ユリウスが笑った。満足した顔だった。確認が終わって、安心して、笑う。いつもの順番だ。
「ハンナ、おゆいこ」
「いこいこ」
二人が走っていった。石畳を叩く小さな足音が二つ、遠ざかっていく。
午後、ゲルハルトの家を訪ねた。
王都に発つことを伝えた。ゲルハルトは腕を組んで聞いていた。
「行くのか」
「はい。三人で」
「村はどうする」
「ゲルハルトさんにお願いします。湯治客の対応は、体系化ノートの写しが手元にあります。症例の記録は——」
「やり方は見て覚えた。あんたほど丁寧にはできんが、温度と時間くらいは書ける」
ゲルハルトが鼻を鳴らした。
「記録をつけろと言ったのはあんたの方だ。今さらやめんよ」
「ありがとうございます」
「礼はいい。さっさと王都で片をつけて戻ってこい。湯治客が増えとるのに、あんたがいないと困る」
ぶっきらぼうだった。でも「戻ってこい」と言った。
「戻ります」
「当たり前だ」
ゲルハルトが窓の外を見た。湯気が立ち昇っている。冬より薄い、春の湯気だ。
「ハンナには俺から言う。泣くかもしれんが、すぐ泣き止む。強い子だ」
「はい」
「それと——王都に行ったら、あの侯爵夫人に会うんだろう」
「はい」
ゲルハルトが腕を組み直した。
「あの方は——変わりかけとる。芽が出たところだ。踏むな。だが甘やかすな」
花の芽のような言い方だった。この人らしい。
「分かりました」
「分かっとるなら言うことはない」
ゲルハルトが立ち上がって、棚から何かを取り出した。
小さな包みだった。布に包まれている。中を開けると、乾燥した薬草の束が入っていた。
「ハンナ用の煎じ薬の材料だ。余りがある。持っていけ。王都でも手に入るが、この山の薬草の方が効きが良い。ユリウスが風邪を引いたときに使え」
「ゲルハルトさん」
「なんだ」
「この村に来てよかったです」
ゲルハルトの目が、一瞬だけ細くなった。
「あんたが来てよかったのは、こっちの方だ」
低い声だった。ぶっきらぼうな、いつもの声だった。でも、温かかった。
出発の前日の夜。
離れの中で荷造りをしていた。
鞄の中身は、来たときと同じだ。着替え、筆記具、ノート。来たときは鞄一つだった。今もそう変わらない。
ただ、ノートが増えた。来たときは一冊だった。今は三冊。ユリウスの健康記録、症例記録、体系化ノート。それに加えて、ヘルムートからの手紙の束と、監査院の公文書の写し。
鞄の底に手を入れた。
来たときと同じ場所に、同じものがある。自主退去書面の控え。赤い魔力封蝋が施された便箋。あの夜、この控えがあったから追手を退けられた。
もう必要ないかもしれない。裁定は出た。後見権の移管は却下された。会計監査も進んでいる。
でも、持っていく。記録は捨てない。何があっても、記録がある人間は強い。ゲルハルトの言葉だ。
ユリウスは寝台で眠っている。明日の旅が楽しみらしく、夕食のときに「おうとー いく?」と何度も聞いた。「行くよ」と答えるたびに目を輝かせた。
ディートリヒは簡易寝台に座って、最後の書類を整理していた。
「ディートリヒ様」
声をかけた。
ディートリヒが顔を上げた。
書類から目を離して、私を見た。
「旦那様、ではなく——ディートリヒ様、とお呼びしてもよろしいですか」
長い間があった。
ディートリヒの表情が動いた。無表情が崩れるのではなく、無表情の奥にある何かが表面に浮かんだ。驚きとも、戸惑いともつかない。
「今さらか」
「今さらです」
「五ヶ月一緒に暮らして、今さら呼び方を変えるのか」
「はい」
ディートリヒが目を逸らした。書類に視線を戻した。
「……好きにしろ」
許可とも拒否ともつかない言葉だったが、声は——柔らかかった。ディートリヒの声の中で、いちばん柔らかい声だった。
「では、ディートリヒ様」
「なんだ」
「明日のパンは、誰が焼きますか」
「俺が焼く」
「焦がさないでくださいね」
「焦がさん。もう焦がさん」
ディートリヒが書類に目を落としたまま言った。声だけが、少し笑っていた。
荷造りを終えて、最後にノートを開いた。
今日の記録。
体温三十六度四分。食欲良好。排泄正常。朝食はディートリヒ様が焼いたパンとおかゆ。ユリウスが皿を二枚運んだ。三枚目はディートリヒ様と二人で運んだ。午前はハンナと外遊び。午後はゲルハルトの家を訪問。明日、王都へ出発。
特記事項——
『朝食の場面。三人がそれぞれの役割で食卓を準備した。ディートリヒ様がパンを焼き、エレオノーラがおかゆを作り、ユリウスが皿を運んだ。食事中、ユリウスが「きょうも いっしょ?」と確認し、全員が「いっしょ」と答えた。家族としての日常が安定していることを示す場面と考えられる』
看護記録の書き方。客観的で、淡白で。
でも最後に、また一行足した。
『明日、三人で王都に向かう。この村に来て五ヶ月と少し。ノートは三冊になった。記録は続く』
ペンを置いた。
窓の外を見た。
四月の夜空に、星が多かった。冬の星座は西に傾き、春の星座が東から昇ってきている。前世の知識では、この時期に見えるのは——いや、この世界の星座は前世と同じではないかもしれない。
同じでなくていい。
この空の下に、この村がある。湯溜まりから白い湯気が立ち昇っている。ゲルハルトの家の煙突から、細い煙が出ている。石畳の上に花が咲いている。
明日、ここを離れる。でも戻ってくる。
この村は、もう誰も来ない場所ではなくなった。湯治客が来る。認可が下りれば、もっと来る。ゲルハルトが看板の苔を落としたときに出てきた彫り文字——「リンデンバート温泉郷」。あの文字が、また意味を持ち始めている。
半年前、馬車の中でユリウスに「おやすみ」と言った。誰も来ない場所がいい、と思った。
今は違う。
来てほしい人がいる。帰ってくる場所がある。
寝台に入った。
隣の寝台でユリウスが寝息を立てている。簡易寝台でディートリヒが眠っている。
三つの寝息。大きいのと、小さいのと、中くらいの。
木の実みたいだ。横一列。いっしょ。
目を閉じた。
明日は早い。馬車はリンデンバートの入り口まで来る。王都まで二日半。ユリウスは馬車の窓から外を指差すだろう。「やま」「かわ」「とり」と叫ぶだろう。今度はもっと多くの言葉を知っている。「おはな」も「かぶ」も「おゆ」も。
王都の空は灰色かもしれない。あの重たい冬の空ではなく、春の灰色だといい。
公爵邸の廊下を歩く。マルガレーテと顔を合わせる。監査院で結果を受け取る。
怖くはない。
手は震えない。
ノートがある。記録がある。そして隣に、ディートリヒとユリウスがいる。
三人で行く。
三人で帰ってくる。
おやすみ、ユリウス。おやすみ、ディートリヒ様。
今夜も声には出さなかった。
でも——いつか。
湯気の匂いと硫黄の匂いが、春の夜風に混じって窓から流れ込んでいた。
明日は、晴れるといいな。
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