第49話 毒?
私は大烏の部屋の前に立っていた。
手にしたワイングラスの中で、
赤い液体が小さく揺らめいていた。
これは毒殺の証拠になる。
当然。
警察に提出するべきもので、
通報するには電話が必要だ。
どちらにせよ。
大烏には報告しなければならない。
それに。
窃盗犯という汚名も晴らしておきたい。
しばしの逡巡の後、
私はドアに手を掛けた。
部屋には大烏ともう1人、
ヒカルの姿があった。
2人はソファーの上で、
今にも唇が触れそうな至近距離で
抱き合っていた。
思いもよらぬ光景に、
私は手にしたグラスを
落としそうになった。
「やあ。
三ノ宮くん、どうしたのかね?」
私に気付いた大烏が
涼しい顔で手を上げた。
「あ、あの・・ごめんなさい。
で、出直してきます」
私は気まずさを誤魔化すように、
早口でそう告げた。
「ふむ。
構わないさ。
私も君には聞きたいことがあったのだ。
ヒカルくん、
そういうわけで。
少し席を外してくれないかね」
大烏の言葉に
ヒカルは露骨に顔をしかめた。
それから不機嫌そうに髪をかき上げて、
立ち上がった。
「はぁ。
鍵の掛からない部屋って最低っ」
そして。
つかつかと私の方へ歩み寄ってくると、
「これは謝罪の代わりとして
もらっておくわ」
と言って私の手からグラスを奪い取った。
「あっ!」
という間の出来事だった。
ヒカルは私の目の前で
グラスを一息に呷った。
それから空になったグラスを
私に押し付けると、
「彼はアタシのモノよ」
と私の耳元で甘く囁いた。
私は「彼」という言葉が
大烏のことを指しているのか、
それとも笠原のことを指しているのか、
瞬時に判断できずに戸惑った。
ヒカルは大烏の方を振り返ると
「この続きはまた後でね」
と軽く手を振って部屋を出ていった。
「ふむ。
彼女のことは気にする必要はない。
それで。
私に話というのは何かね?」
大烏がソファーの上で姿勢を正した。
「あ・・は、はい」
私は返事をしたものの、
頭は激しく混乱していた。
「ふむ。
立っていても話し難いだろう。
そこへ座り給え」
私は思考がまとまらないまま、
大烏の対面のソファーに腰掛けた。
「ふむ。
グラスを置いたらどうかね?」
「あ・・はい」
そして言われるがまま、
目の前のテーブルに空のグラスを置いた。
私はそのグラスをぼんやりと見つめた。
部屋の柱時計が
ボーンボーンと22時を告げた。
「あ、あの・・。
江藤さんに聞きました。
窃盗事件があったと」
私の言葉に
大烏は何も反応を示さなかった。
私は続けた。
「私は盗んでません。
私の荷物が盗まれていないことで、
私を疑うのであれば、
同じように鈴木さんも疑うべきです。
金品以外に
何か目的があったかもしれません。
だって鈴木さんは笠原さんと私を・・」
そこまで話して私は慌てて口を噤んだ。
大烏が顎に手を当てて首を傾げた。
「ふむ。
君が何を聞いたのかわからないが、
私は別に君が盗んだとは考えていない。
『疑わしきは罰せず』というのは、
刑事裁判における
基本的な原則だからね。
それに。
盗まれた物は
江藤が本人達に気付かれないように
返却しているはずだ」
そして大烏は「はっはっは」と笑った。
そんな大烏を見て
私は僅かに不安になった。
大烏に相談にきたのは
間違いだったのかもしれない。
ほんの一瞬、
そんなことが脳裏をよぎった。
部屋の柱時計が
コツコツコツと時を刻んでいた。
「・・あの。
この建物の部屋はすべてが
防音になっていますよね?
一体何のために
そんな手間とお金のかかることを?」
「ふむ。
その質問には答えることができない」
大烏はゆっくりと腕を組み、
何かを思案するように眉間に皺を寄せた。
「・・つまり。
何かやましいことがある
ということですか?」
私が重ねて質問をすると、
大烏はふたたび「はっはっは」と笑った。
「いやいや。
誤解をさせてしまったようだ。
正確には。
私にもわからないと言うべきだったね」
「えっ?」
今度は私が首を傾げる番だった。
「ここはね。
私が別荘としての物件を
探していた時に、
とある不動産業者から紹介されてね。
一度内覧したのだが、
すぐに気に入って契約したのだよ」
「そ、そうなんですか・・」
「ふむ。
というわけで。
この建物については、
詳しいことはわからないのだ。
当然。
君の質問にも答えることができない。
これで満足かね?」
私は小さく息を吐き出してから頷いた。
部屋の柱時計が
コツコツコツと時を刻んでいた。
「このグラスには毒が・・。
毒が入っていました」
そう言って私は大きく息を吸い込んだ。
それから大烏の目を正面から見据えた。
自分でも。
おかしなことを
口にしているとはわかっていた。
大烏は目を丸くした。
一瞬の後。
大烏が噴き出した。
「はっはっは。
君には驚かされてばかりだよ。
毒だって?
それなら。
たった今そのグラスの中身を飲んだ
ヒカルくんが無事なのは、
どういうわけかね?
まさか。
廊下で倒れているとでも言うのかな?」
当然の疑問だった。
そして。
私はその疑問に
答えることができなかった。
大烏は立ち上がってドアの方へ向かった。
大烏がドアを開けて廊下を覗き込むのを
私はソファーに座ったまま見ていた。
しばらくして大烏はドアを閉めた。
そして私の方を見て大袈裟に肩を竦めた。




