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彼は、そこで体育すわりをしていた。
暗い、暗い、広い空間で、たったひとり。
がんばったのに、バイト、がんばったのに……。
こんな社会不適応者を雇ってしまうくらい、ベンサンショップは人手不足で追い詰められていた。
そして彼によって、経営には終止符が打たれた。皮肉な話だ。
彼には悪魔が取り憑いているのか、それともただ彼が悪魔なだけか。
短絡的で精神病質。
パニック状態に陥り、ナイフを取り出してふりまわす、という危機につねに接している人間は、ある意味ではたしかに悪魔に見える。
──最初に殺したのは、彼に仕事を教えてくれたベンサンショップの先輩だ。
めった刺しの犯行は、怨恨を理由にした計画的な残虐行為、と見られるが、じっさいは逆のことが多い。何回も刺すのは怖いからで、相手が向かってくるのではないか、自分がやられてしまうのではないか、という恐怖から何回も刺す。
死体は床下に隠した。
隠したとも言えないような雑な始末だったが、人手不足はそんな雑で無軌道な行動のすべてを、しばし覆い隠した。
彼は脳の一部が、幼児期のまま止まっている。
自分の欲求や不満を表現することで、周囲が面倒を見てくれていた記憶に縛られている。
言葉や心を獲得するのが遅く、不満と不安に埋め尽くされている。
幼稚園受験のとき、彼は言った。
お母さん、失敗しても、ぼくを嫌いにならないで。
それは、とても悲しい響きの言葉だ。もしかしたら彼は、最初からモンスターだったわけではないのかもしれない。
幼児にとって、ほとんど絶対の存在ともいえる母親。
至高の慈母にもなれれば、破滅の怪物になることもできる。それも、比較的容易に。
そうして彼の母親は、ネグレクトという破滅的な方法で、怪物を育てた。
彼は捨て置かれて育ったので、他人の感情を読むとか、人間がふつうに育てば理解できるサインを、理解することができなかった。
人と接する訓練を受けていないに等しく、感情を正しく伝えるフィードバックができなかった。
仮に試みても、早い段階でそれを諦めてしまった。
──人と交流できない。孤独に陥り、拒絶が連鎖する。
成績が下がること。保健室に行くこと。ナイフを持ち歩くこと。
いろいろなサインは出ていても、ある側面だけが伝わることで、まちがった解釈をされる。
子供同士でも「チクる」という行為は嫌われる。
きっかけは、ほんの些細な行きちがいだったかもしれない。
だが結局のところ、それを受容する面々がやったことは、負の連鎖を加速することだけだった。
幼児的な万能感を持ったまま、心理的に追い詰められる。
成績は中くらい、というのが、キレやすい人の特徴だ。
優秀な人は、さして努力することもなく、いい成績を出せる。
劣った人は諦めてしまうので、べつに無理をしなくてもいいと思っている。
中くらいの人は、自分はバカではないと思っているので、無理をする。
ふつうでいることに対して、必死に努力をしなければならない。
──彼の名は、蛭子天彦という。
「あ、あまひこくん?」
驚いたように、そのいじめられっ子を見つめ、その名を呼んだのは、サアヤだった。
驚いたのは他の面々も同じだ。
「なんだよサアヤ、知り合いか」
「見かけによらず顔が広いんだな」
サアヤは首をかしげながらもうなずき、
「うん、知り合い、てか、親戚?」
「はあ? 穏やかならぬ関係じゃないか、それ」
「といっても、大おじいちゃんが死んだとき、お葬式で会っただけなんだけど。たしか……小学校のころ」
「小学生のときに一度会っただけのやつを、よくまあ覚えてんな」
しばらくそのやりとりを眺めていた天彦は、ゆらりと立ち上がった。
「本家から、逃げ出した、やつか」
その言葉の響きには、なにかおどろおどろしい呪詛が込められているように聞こえた。
天彦は、じっとサアヤを見つめる。
「…………」
サアヤはおびえたように、一歩あとずさった。
天彦は、なにかを思い出そうと、しばらく自分の記憶を確認してから、言った。
「だから、弟が食われるんだ。ヒルガミさまに」
ぎくり、とサアヤの肩が揺れる。
「ヒル……」
「俺は負けない。ヒルガミさまなんかに負けない。トイレの神さまの力を手に入れて、立ち向かってやるんだ」
「あまひこくん」
巨大な影が、天彦の肉体を包む。
スキルタイプか、あるいはただの憑依体の可能性もある。
チューヤは油断なく、悪魔召喚プログラムの実行ログを監視する。
「どういうやつだよ、サアヤ」
リョージが問いかけた瞬間、ふと悲しそうに、天彦はリョージに視線を転じた。
「覚えても、いないんだね」
それは、ひどく悲しげで、恨みを帯びた声音。
小学校時代に一度見ただけのサアヤが覚えていて、中学時代の同級生が覚えていない。
クラスメートになったことはなかったが、廊下ですれちがった回数まで、こっちは覚えているというのに。
──もちろん、わかっている。
彼はそんなこと、すこしも覚えていない。自分に対して、なんの興味もないからだ。
「え、おまえネリチュー?」
天彦に問うリョージ。
練馬の中学出身で、リョージを知らぬ者はない。
「ほとんど、話したことはないけど、でも一度だけ、言ってくれただろ……」
練馬どころか、隣三軒両隣さえ、天彦のことを知らない可能性もある。
リョージは必死で思い出そうとするが、相手の名前も出てこない。
ちらりとサアヤを顧みると、「えびす・あまひこ」と口の動きで伝えてくれた。
それでもしばらく思い出せなかったが、ほどなくハッとして、
「おまえ、エビスか」
いじめられっ子として有名だったことで、思い出した。
そういえば、不良どもとの戦いをくりかえしていた中学時代、ついでに助けてやったことがあったかもしれない。
天彦は、地元の目黒でも、いじめられて転校、リョージのいる練馬の中学で卒業までを過ごした。
「目黒事件……」
サアヤがぽつりと漏らした、その印象的な単語に、何人かが反応する。
天彦が転校してから、彼の通っていた中学では、不可思議な死が連続した。
「ヒルガミさまの祟りだよ」
やおら、にやあ、と不気味に笑う天彦。
このとき彼は、呪い穴に片足を突っ込んでいたが、まだ全身が埋もれたわけではなかった。
転校先の中学ではリョージに出会い、助けられて、どうにかイジメを回避することができた。リョージのおかげで中学を卒業できた。
その後、しばらく引きこもっていたが、社会復帰のためアルバイトに出た。
うまくいくと思った。
社会人になれた。
ひとりで生きていける。
──そのはずだったのに。
「あいつ、いじわるだったよ。ちゃんと教えてくれない。わからせるしかないよ。そうだろ? 負けない、負けない、リョージくん、負けるなって言ってくれた、だから負けない、ぼくは負けない、負けない……!」
肥大する肉体。……取り込まれている。
チューヤの本能が、プログラムに促されるまでもなく、警鐘を鳴らす。
これはスキルタイプ云々ではない。
肉体が悪魔化している。危険だ。
「くそ、待てエビス! そういう意味じゃない、負けるなってのは」
「ふん、あの手のやつは追い詰めるとキレるぞ、よくいるだろ、ああいうクズ」
冷徹な目で、マフユが天彦を見下す。
「クズじゃない、ぼくは人間だ、虫じゃない、ぼくは便所虫じゃない!」
小学校時代のあだ名、「便所虫」。
いつもトイレで弁当を食べていたから。
「甘ったれてんじゃねえぞ、クソムシが。てめえに地獄がわかってたまっかよ」
マフユの表情に鬼が宿る。
彼女の地獄の一端しか知らないチューヤをもってしても、その裏側を知りたいとは思わないほどの闇が彼女を包んで……いや、覆い尽くしている。
先制攻撃を仕掛けたのはマフユだった。
彼女の闇は、天彦の闇をもってしても覆い難い、あるいは飲み込み返すかもしれない。
殴る、蹴る、殴る。
シンプルな攻撃が、つぎつぎと天彦の痛いところをえぐる。
「うわああぁあ!」
絶叫する天彦。
つぎの瞬間、天井が──落ちた!
全員が防御姿勢で、なんとか衝撃に耐える。
天井が落ちたように見えたのは、巨大な足が降ってきたからだった。
モンスターの足が、チューヤたちに向けてストンピングしてくる。
天彦が駄々っ児のように床で暴れるのに合わせて、天井から飛び出してきた足が、チューヤたちを踏みつぶそうと落ちてくる。
悪魔名/種族/レベル/時代/地域/系統/支配駅
カンバリ/妖怪/25/18世紀/日本/今昔画図続百鬼/落合南長崎
チューヤは敵をアナライズしつつ、ナカマたちを展開してサアヤを防御陣形に取り込む。
攻撃はマフユとリョージでじゅうぶんだ。
いや、リョージも昔のことがあってか、遠慮がちに取り巻くのみ。
もっぱらマフユひとりが、いらだちに任せて天彦を殴る蹴るしている。
「メソメソと泣き言ばっかりよォ、気持ちわりいんだよテメェ、さっさと死ねよオラ!」
心底から不快そうに叫んで、マフユは闇の拳を叩き込みつづける。
「敵もそうとう強いんだけど、マフユってもっと強いんだな……」
「あいつはいじめっ子気質だから、いじめられっ子に対しては強いかもな」
理由はともかく、事実、マフユは優勢に戦闘を進めている。
カンバリは、いわゆる「トイレの神さま」で、加牟波理入道とも呼ばれる日本の妖怪だ。
さまざまな妖怪らしいエピソードが伝わっているが、便所飯をたしなむいじめられっ子にとっては、親和性の高い悪魔なのかもしれない。
「くそ、てめえ、ぶっ潰してやる」
いじめられっ子の本能で身を縮ませつつも、ポケットからナイフを出す天彦。
「ああ? 潰されんのはてめーなんだよ、この便所虫が、踏んづけてやるァ!」
マフユの長い脚が傲然と宙を舞い、踵落としが天彦の脳天に食い込む。
が、便所サンダルの柔らかさが幸いし、致命傷に至らない。
一方、カンバリの攻撃もマフユをとらえ、両者、交錯して弾け飛ぶ。
「くっそが、便所サンダルはうんこ踏んづけるにはいいけど、便所虫踏み殺すのは向いてねえな!」
「どういう苦情だよ」
チューヤの視線の先、マフユの両足が凍結していく。
凍結の魔力回路が、マフユを強化する。
よく見れば、両手も氷の武装で固められている。
「うんこみてえに凍って死ねや、便所虫!」
「うんこみたいの意味がわからんが、がんばれマフユ!」
チューヤの声援は不快だったが、マフユはその長くしなやかな体躯を駆って、トドメの一撃を繰り出す。
つぎの瞬間、天彦のモードが切り替わる。
「うわ、あぁあう、わあぁ、ヒル……ぁうう、ガァアァア!」
これまでと比較にならない魔力がほとばしり、突進していたマフユは激しく吹き飛ばされた。
後方で受け止めるリョージ。
一同の視線の先、天彦が変態を遂げていく。
「がぁあ、うぉあ、くんな、ヒルコ、ぼくは、やめ、ろぉおぉお!」
ぞぶぞぶぞぶ、と全身に赤黒いミミズ腫れが走った。
つぎの瞬間、天彦に取り憑いていたカンバリが、周辺に集中してストンピングを繰り出す。
床が壊れ、がらがらと崩れ落ちる。
気がつけば、そこに天彦の姿はなくなっていた。




