第三十四章 産声 「産声とは?」 「この世に産まれ出でてしまったことに対する嘆きである」
時間は少し遡る。カズキとグローリアがラスト・ラストとの死闘を繰り広げる中、もう一方でも死闘は行われていた。
黒い獣が猛り狂う。ラスト・ラストの洗脳は色濃くテオドールの脳を蝕み犯しているようだ。
「このっ……目を覚ましなさい、テオ!」
エイミーの鮮やかな上段回し蹴りは空を切る。四足獣と化したテオドールの動きは以前の比ではない。
テオドールが背後に回り込もうとしたところへ、すかさずコトネが《霙》を振るった。
しかし、その一撃は峰打ちである。コトネの持つ《霙》の呪いが発動すれば、テオドールとてただでは済まないからだ。
故に峰打ち程度で黒狼は止まらない。強化された肉体は鋼を思わせる硬度を備えている。
「……なら、こうする」
卓越した体捌きでテオドールの懐にもぐりこむ。体格差からいって、コトネとテオドールのリーチの違いは圧倒的なはずだった。
しかし、ここにリーチの差は逆転する。熊のごとく立ち上がっていたテオドールに、ゼロ距離のコトネを攻撃する術はない。
「……ちょっと、冷たいけど。我慢してね」
コトネの掌が黒狼の腹に押し付けられたかと思うと、氷の膜が広がりテオドールを襲った。
「――ッ!?」
それ以上の接触はまずいと本能的に悟ったのか、テオドールがバックステップ。獣の跳躍力で大きく距離をとる。
四つ這いの状態で、警戒するように唸る獣。《霙》の呪いとは違いこれ以上侵食することはないが、氷の魔術は彼の動きを阻害するに足るものだ。
ここが好機であることは間違いなかった。魔術とてこの酸雨の中では徐々に剥がれてしまう。
「決めるわよコトネ! これ以上卑徒の好きにさせるもんですか!」
「……うん、許せない。もう誰かがいなくなるのは、嫌」
テオドールが再び跳躍。それに合わせるようにしてエイミーとコトネが魔術を放つ。
荒れ狂う炎と鋭利なる氷の槍は、しかし獣の速度で空を蹴るテオドールを捉え切れない。
だがそれも読み通り。最初からこの程度で御せる相手ではないと分かっている。
コトネが空中のテオドールを追い、氷刀《霙》を一閃。袈裟がけに振るわれた銀光はまたも黒狼を捉えられず――
――雨を切り裂いた。
意識のないはずのテオドールが瞠目する。
コトネの持つ氷刀《霙》は、ただ闇雲に切り裂いただけではその呪いを発動することはない。
魔力を集中させて対象を「斬る」と定めることで発動するのである。
コトネが放つ氷刃は空気を斬った際に発動する呪いによるものであり、そして雨を標的として切り裂いたならば。
それは即ち、雨を氷漬けにするということに他ならない。
「――グオッ!?」
テオドールの驚愕の声。突如として周囲を氷の壁に覆い尽くされた彼は、完全に逃げ場を失ってしまった。
すぐさま氷の壁を突破しようとするが、そのような隙を逃すはずはなかった。
「はぁあああああああああああああああああっ!」
エイミーは氷の殻に捕らわれたテオドール目がけて突貫。紅蓮の焔は酸の雨如きで消せはしない。
「目をっ、覚ませぇえええええ!」
大砲を思わせる豪快なハイキックは、洗脳されたテオドールの意識を吹き飛ばすに足るものだった。
狼は昏倒し、地に伏せる。その有様は、本当に手加減していたのか疑わしいほどである。
「……エイミー、やりすぎ」
「え、ええっ? そ、そうかな? テオなら大丈夫……よね?」
「……普通なら、死んでると思う」
「なら大丈夫ね。テオドールは普通じゃないし!」
それでいいのかな、と呟くコトネに、エイミーは朗らかに笑った。
「カズキたちの方も、終わったみたいね」
「……うん。流石。やっぱりカズキは凄い」
と、そこでエイミーが違和感に気付いた。
「……エイミーも、気付いた?」
「う、うん。コトネ、あなたいつの間にカズキのことを名前で呼ぶようになったの」
「…………違う、そうじゃない。卑徒が死んだのに、いつまでも雨が止まない」
彼女は唖然とした。コトネの言う通り、卑徒の能力であるはずの酸雨が、卑徒が死んでもなお続いている。
違和感はそれだけではなかった。この場から感じる魔力の総量が、ほとんど減っていないのだ。
『……うふ、うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ』
どこかで。
妖艶な笑い声が木霊した。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「何故……何故雨が止まぬのじゃ!」
グローリアが苛立たしげに叫んだ。グロリアスのことを考えれば、この状況で焦るなというほうが無理がある。
私は確かに卑徒の首を落としたはず。あれは幻覚の類ではなく、本物だったという確信があったというのに。
しかし、依然として雨は止まず、卑徒特有の巨大な魔力も消えてはいない。
『……うふ、うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ』
と、私の耳朶を犯すような囁き。脳髄にまで浸み込んできそうな魔性の声が、未だに現世に留まっていた。
地面を見下ろすと、落としたはずのラスト・ラストの首が笑い声をあげている。
まだ死んではいなかったというのか。しかし、余裕ありげな奴の表情とは裏腹に、その背後にははっきりと死神の影が垣間見える。
ラスト・ラストは死に瀕している。これは単なる断末魔に過ぎず、脅威にも値しない。
――はず、なのに。
『ふ、ふふふふふ……あはははははははははは! ついに、ついに産まれるわ! 私の、私の愛しい愛しい赤ちゃん……グリド・グリドが!』
まるで何者かに誘導されるかのようにして、視線が奪われる。
ラスト・ラストの豊満な肢体――そして大きく膨らんだ胎が胎動しているではないか。
「まさ、か……」
それは生命の蠢きだった。脈動する瑞々しい命だった。零れ落ちる一滴の雫のような、無垢なる輝きであった。
七体目の卑徒――!
私は思考すると同時に駆けていた。なんとしても、奴の誕生を阻止するために。
卑徒は七つの大罪を司る存在であると、リーネは言っていた。
《傲慢》、《憤怒》、《怠惰》、《色欲》、《暴食》、《嫉妬》――そして、残る一つの罪。
その罪には覚えがある。私が、私だからこそ誰よりも深く知っている。
ラスト・ラストの胎が裂けていく。飛び散る鮮血の華が、新たなる命の誕生を祝うように咲き誇った。
絶望が顔を覗かせる。皺くちゃの顔はまだ目すら開いておらず、一つの生命としては未熟といえた。
しかし、それでも。その蕾のような口が開いて。
『オギャァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!』
絶叫、であった。
《強欲》の卑徒がこの世に産まれ出でてしまったことに対する嘆きを謳う。
ずるり、と。生理的嫌悪を催す不快な音を立てて、ラスト・ラストの胎から這い出てくる。
既にラスト・ラストは事切れていた。己が子の誕生を見届けることもなく。
赤子には、手足がなかった。芋虫のような肉体を這わせながら、こちらに顔を向ける。
悪寒が走った。まるで背筋を大量のムカデが這い回るかのようなおぞましい気配に、思わず硬直してしまう。
赤子は確かにこちらを知覚していた。まだ目も開いていないにも拘らず、額から生えた純白の翼を震わせる。
彼――ないし彼女――が、何を思ったのかが私にはわかってしまった。
――何故、自分はお前のように立てないのだ。
そう卑徒グリド・グリドは思考している。
そして、奴の罪は《強欲》である。全てを我が物にせんとする、飽くなき欲望のカタチ。
人間よ、欲深くあれ。
故に、奴が次に何を思うのかも自明の理だ。
肉が裂ける嫌な音を立てながら、赤子の胴体から四肢が這い出てきた。しかしそれは成人男性と同規模のもので、明らかに不釣り合いだ。
その有様はまさに異形の一言に尽きる。どのような生物よりも禍々しい姿に、吐き気を覚えた。
激しい嫌悪。これはそう、同族嫌悪というやつに他ならない。目の前の卑徒はなんとしても排除せねばと強く理解する。
赤子の両目が見開かれた。赤い朱い、燃えるような真紅。
その輝きに気圧されるようにして、私は半ば狂乱しながら剣を振るった。
「ああぁあああああああああああぁあああああああああああああっ!」
ラスト・ラストが完全に沈黙したことで、酸雨は鳴りを潜めていた。このまま振り切れば、間違いなくグリド・グリドを討てる。
「貴様はっ、貴様は生かしてはおけない……強欲者よ! 貪欲なる者よ! 私の他に《強欲》は不要だ、消え去るがいい!」
奴の母であるラスト・ラストと同じように首を刎ねれば全てが終わる。しかしそんな確信ごと、私の剣は打ち砕かれた。
激しい金属音は、グリド・グリドが生み出した魔力剣と私の魔力剣が打ち合った音。明らかに脆弱なはずの体で立つグリド・グリドの一閃は、私の一撃を完全に模倣していた。
『ソレ、モラッタ』
グリド・グリドがニンマリと笑う。無邪気なるその表情は、どこか卑徒レヴル・レヴルを彷彿とさせた。
だが、こいつはレヴル・レヴルとは違う。《嫉妬》の罪を背負っていたレヴル・レヴルが他者のモノを欲しがったのは、ひとえに自己愛によるものだ。
自分が持っていないものを他者が持っているのが我慢ならない、そんな思考だったはずだ。
しかし、グリド・グリドの愛は他者へと向かっている。欲するという起源は同じであれど、その方向性は真逆である。
――グリド・グリドは、「私」になりたがっている!
私が右腕を突き出すとほぼ同時、奴もまた右腕を突き出していた。
放たれる雷撃はちょうど二つ。威力、速度共に同等。ならばと距離をとりながら暗剣を投擲すると、やはり同じように迎撃される。
「貴様……!」
『アハハ、オモシロイ! オモシロイ!』
間違いない、こいつは私の思考を読んでいる。そしてなおかつ学習しているのだ。
次第にグリド・グリドの顔が、肉体が歪んでいく。私を完全に模倣するつもりか。
「呑まれるな、カズキ! 安心せい、お主の方が何倍も男前じゃぞ!」
後方からグローリアの声と魔術が飛来。巨大な闇の腕が、卑徒を握りつぶすべく肉迫した。
さらに、テオドールを倒したエイミーとコトネがこちらへ駆け寄ってくる。
「カズキ、大丈夫?」
「……なにあれ、気持ち悪い。だいたいカズキの真似なんかしても、いいことないのに」
今、さらりとコトネに酷いことを言われたような気がするのだが。
いや、そんなことを言っている場合ではない。一刻も早くあの卑徒を止めなければ。
グローリアの魔術によって握り潰されるグリド・グリド。急激に成長してはいるものの、まだまだ幼いといったところか。
駄目押しとばかりに雷撃を連射。エイミーとコトネも容赦なく魔術を放っていく。
荒れ狂う魔力の奔流は、間違いなく奴に直撃した。これだけの魔力掃射を前に、無傷ではいられまい。
『アハ、アハハハハハハッ! こウか、ふム……イや、こうダな?』
確かに、極大の火力を叩き込んだはずだった。実際に奴は体を血で染め、満身創痍といった風情だ。
それでも死んでいない。膝をつくどころか、やけに嫌味ったらしい顔で仁王立ちしている。
「なっ……魔障壁だと!?」
奴の眼前に展開している魔力の壁を見まごうことなどできはしなかった。あれは私とリーネにしか使えないはずの超級魔術で、私は奴に対して《魔障壁》を見せてすらいないというのに。
しかし、元々がリーネの魔術を模倣したものなのだ。それがさらに模倣されないという保証などどこにもない。
グリド・グリドはますます私に似た姿を獲得していた。赤子としての面影は既になく、奴の額から生えた小さな翼がなければ、まるで鏡を見ているような錯覚に捕らわれただろう。
『クくク……滑稽な顔ヲしているナ。だガ感謝しよウ、貴様のおかゲで、私ハさならる力を手ニ入れられたのだかラね』
「その薄ら笑いを止めたまえ、虫唾が走る。私のような存在など、世に二人もいらん。ハーレム王が複数もいては邪魔だからな」
言って、新たに生み出した魔力剣を構える。奴がどれだけ私を模倣しようと、こちらにはグローリア、エイミー、そしてコトネがいる。
私と同等の力であるならば、この状況でこちらに勝てる道理など存在しないのだ。
それを悟ったのか、グリド・グリドは憎たらしいほどにそっくりな顔で笑った。
『ふむ、どうやら分が悪いようだ。だが母の仇はいずれ取らせてもらうぞ、トウジョウカズキ。またいずれ、雌雄を決する時まで――』
「待て、逃がすか!」
咄嗟に追いすがったが、卑徒レヴル・レヴルの時のようにはいかなかった。一瞬早く、奴の転移が完了してしまう。
もしかすると、私が一度転移に巻き込まれに行ったことを思考読解で察知していたのかもしれない。
《強欲》の卑徒グリド・グリド――新たなる波乱の予感を孕ませて、ようやく暗闇の世界は晴れていった。
呆れるほどの快晴と相反するかのように、私たちの表情は一向に晴れることはなかった。




