第三十二章 色欲 「汝、その大罪に触れることなかれ。さもなくば大淫婦が、汝の肌を溶かし尽くすであろう」
翌日。豪雨が窓を叩く音に目を覚ました。清々しい朝とは到底呼べそうにない。
だが、最近悪夢を見ることはなくなっていた。
即ち――父の夢だ。
あれから私の心境にどのような変化があったのか自分ではいまいち掴めないが、何か得るものはあったのだろう。
いや、そうではなくてはならない。過去との決別は私に課せられた使命だともいえた。
ギュスターヴとの死闘の後、ひどく悪夢にうなされていたのはまだ記憶に残っている。
――い。
――たい。
――したい。
――殺したい――
「……っ! まあ、それでも忘れることなど叶わないか。これは私の罪であり業……忘却に沈めて済むようなものでもない」
私が自らを悪魔と称する最大の理由がこれだ。この両の腕で、父を――
「ん、んん……?」
「っと、すまない。起こしてしまったかな」
開けきらない目を眠そうに擦りながら、コトネが上半身を起こした。
またも着物がはだけてしまっている。どうやら相当寝相が悪いらしい。
せめて寝間着に着替えさせてやるべきだったかと今更ながらに思う。
「……頭、痛い」
「はぁ、まったく。隊長が二日酔いでダウンとは、とてもではないが報告できんな」
士気に関わる問題だ。いや、あの隊員たちならば相変わらずマスコット扱いしそうではあるが。
「……うぅ。お兄ちゃん、治療魔術かけてぇー」
「仕方のない奴め……」
舌っ足らずな声で猫のように甘えてくる。私は再生能力は肉体の復元がメインで、二日酔いに関しては専門外だというのに。
とはいえこのまま放置しておくのも忍びない。額に掌を当てると、魔力を流し込む。
「……ありがとうお兄ちゃん。気持ちいいよ」
それはよかった。
よかった、のだが。気持ちよさそうに目を閉じるコトネはなんだか色っぽい。
ひんやりと冷たい額の感触や、息遣いがやけに淫蕩に感じてしまう。
昨日のうちに魔力を発散しておくべきだったか。
しかし、なんだろう。この違和感は。
昨日の晩も同じようにコトネを魅力的に感じていたが、今の焦げるような熱はなかったように思う。
やけに頭がクラクラする。激しい雨音が脳幹を揺さぶるようだ。
私も二日酔いだろうか。それほど飲んだわけではなかったはずなのに。
釈然としないままコトネを治療していると、彼女の顔色はかなり良くなっていた。
「……ん。大分ラクになった。華麗に復活」
「はいはい、次は復活させないで済むように気を付けてくれたまえよ」
「……分かった。でもまたこうなったら、治療してくれる?」
「だから、最初から二日酔いになるなと――いいや、酒に逃げたくなる時もある、か。その時は遠慮しないでいいぞ、私は基本的に紳士だからね」
肩をすくめながら言うと、起き上ったコトネがこちらへ寄りかかってきた。
ベッドの端に座っていた私はバランスを崩し、押し倒されるような形で倒れこむ。
すぐ目の前にはコトネの上気した顔。薄い桃色の唇が扇情的だ。
不思議と抵抗する気になれなかった。頭に霧がかかっているようで、うまく思考が繋がらない。
「……ねえ、お兄ちゃん。私のこと、好き?」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、そんなことを問われた。
なにを馬鹿なことを。答えなど決まっている。
「ああ、好きだとも。それがどうかしたかね」
「……でも、私はお兄ちゃんの妹、でしょう?」
囁きが脳を犯す。直接煩悩に息を吹きかけるような、暴力的なまでの官能。
誰がどう見ても誘っているとしか思えない。まるで娼婦だ。
「いいや――ずっと考えていたのだがね。お兄ちゃんは、撤回しようと思うのだ」
それは、クレスに過去のことを離した時から思っていたことだった。
私とコトネは傷をなめ合う仲だった。だからこその兄妹ごっこである。
しかし、私は過去と決別すると決めたのだ。ならば、いつまでもこうして仮初の妹相手に浸っているわけにもいくまい。
正直なところ、血のつながらない妹というのも良いものだが。
それはそれとして、ケジメはつけねばならないだろう。私が彼女にそう呼んでくれと言い出したのだから、やめさせるのもまた私でなくては。
この関係を続けていたくもある。私は妹の愛を得られなかったから。
だが、そんな過去に縛り付けるのは終わりにしよう。
「私のことはカズキでいい。兄妹ごっこはおしまいだ」
「……そう。ならカズキ、兄妹じゃなくなったんなら――私を抱いても、問題ないよね?」
なに、を。言っている。
トロンと蕩けた蠱惑的な瞳が喜悦に細まる。チロリと血のように赤い舌が淫らに蠢いた。
コトネはさらに顔を近づけてくる。鼻頭が触れるか触れないかというところまで迫ってきた。
ざあざあ。雨の音がやけに五月蠅い。だというのに、どこか現実感がなかった。
夢のようなまどろみ。鼻腔を突き刺す甘い女の香り。
コトネの髪が私の顔にかかる。吸い込まれそうな瞳に逆らえない。
「……ねえ、カズキ。兄妹じゃないのなら、私たちは男と女でしょう。こういうことをしてもおかしくなんてない。いいえ、むしろ自然なこと」
頬を撫でるコトネの指が果てしなく淫らだ。巨大な生物の胃に溶かされていくよう。
本能が警鐘を鳴らすのが聞こえるが、逆らい難い安楽に身をゆだねてしまう。
徐々に唇が近づいて――触れる。
「……んっ」
小鳥がついばむような、唇と唇をなぞるだけのキスではなかった。
貪るような舌づかいで私の口腔を犯してくる。唾液と唾液が混ざり合い、アルコールにも似た酩酊感が襲った。
淫靡な水音が雨音に混ざって鼓膜を刺激する。
「……っぷは。カズキ、気持ちいい?」
「ああ、いや、だが……」
なにかが、おかしい。
それが分かっているにも関わらずされるがまま。またも舌で吸い付かれる。
これは麻薬だ。一度沈んでしまえば二度と浮かんでこられない底なしの沼。
「……んっ、んん、は、ぁ……カズキ……ずっと、このままいよう? ずっと、こうして気持ちいいことを続けよう?」
なんと甘美な響きだろう。
ずっとこのまま、永遠に、この快楽の海で漂っていられたらどれだけいいだろうと瞼を閉じかけて。
「――――さっさと起きろ、この阿呆ものどもがぁああああああああああああああああああああああっ!」
硝子の割れるような甲高い音と獣の雄たけびによって、目を覚ました。
「……あれ、カズキ? 私、どうしてこんな……」
「私にも何が何だか分からん。が、これは恐らく罠だろう。そしてこんな罠を仕掛けてくるとなれば、答えは明白だ」
「……卑徒」
「ああ、間違いない。どうやら不覚を取ったらしい、急ぐぞ!」
さきほどの声はテオドールのものだ。彼の咆哮がなければどうなっていたことか。
官能に堕ちる悪夢となれば、卑徒ラスト・ラストの仕業に違いあるまい。
既に戦闘の音が外から響いている。が、あれだけの豪雨が嘘のように静まっていた。
いや、文字通り嘘だったのだろう。あの豪雨こそ、卑徒の能力の一つであり私たちを罠に嵌めた術だ。
行儀よく玄関から出ていく余裕などあろうはずもない。コトネと共に部屋の窓から飛び出していく。
空を見上げると、虹色の光弾を放つ影が一つ浮かんでいる。地上では黒い影がその光弾を打ち落としていた。
前者はラスト・ラスト、後者はテオドールである。
我々の後ろからは、同じように窓から飛び出してくるエイミーとグローリア。
二人とも心なしか頬が赤い。
「カ、カズキ……!? あ、あの、あたしはあんなことしないから! て、敵の罠だからね!」
勘違いしないでよね――というテンプレが聞こえてきそうな物言いである。
というか、どんな夢を見ていたんだエイミー。
一方のグローリアは辛そうだ。今は早朝、幻の豪雨も消え、強い日差しが降り注いでいる。
吸血鬼である彼女にはさぞ辛かろうと見ていると、ぷいっと顔を逸らされた。
「わ、妾は経験豊富な女じゃからな。ああああの程度の夢幻如きに動揺なぞしておらんぞ!」
『おい、声震えてんぞご主人サマよ。まったくいい歳してそれじゃあなあ。とっくに腐っちまってんじゃねえか?』
「……!」
グロリアスに突っ込まれ、思わず傘を地面に叩き付けようとするグローリア。
しかしそうすると自分が焼け爛れることを思い出し、振り上げた傘の下ろしどころを見失ってしまっていた。
いや待て。こんな漫才をしている場合ではない。
「テオドール! 無事か!」
叫びながら接近すると、こちらを認識したのか数多の光弾が唸りを上げて迫る。
「ふっ……!」
これは卑徒の神殿で一度経験済みだ。回避しても追いすがってくる追尾型であるなら、相殺するまで。
掌から魔力が飛翔。黒の雷弾が光弾をことごとく相殺し消し去る。
「あらあら、随分と無粋ね。もう少しあの泡沫に沈んでいれば、幸せな悪夢に浸っていれたのにもったいないわ」
妖艶な仕草で笑うラスト・ラスト。膨らんだ胎に、男の欲情を誘う露出度の高いドレスを纏っている。
直接的な戦闘能力よりも、精神攻撃や絡め手を好むタイプだ。まんまと引っかかってしまったのは不覚というよりほかない。
テオドールが光弾を打ち払いつつ、苦い顔で唸りを上げた。
「遅いぞカズキ、いつまで色ボケているつもりだ。チンケな夢なぞ気合いで押し返せばいいだろうが」
なんという根性論か。とはいえ悪夢に捕らわれなかったのが彼だけなのを考えるとあなどれない。
「ご、ごめんなさいテオ……」
何故かエイミーが謝りだした。
「いや、エイミーに言ったわけではなくてだな……ええい、貴様のせいだぞカズキ!」
「もう私のせいでいいから真面目にやりたまえ」
卑徒を前にしてこの有様。余裕が生まれてきたと見るべきか。
「うっふふ、かわいいわねぇ。食べちゃいたいくらいだわ、黒い狼さん。あなた、とっても私好みよ。でもそっちのヒューマンはゲテモノね。なんだか生理的に受け付けないわ――死んでちょうだい」
ラスト・ラストが踊るようにして空中で回転。すると私たちの足元から次々と泡が出現する。
咄嗟に飛び退くと、巨大な泡が音を立てて弾けた。
それが、悪夢の始まり。開戦の合図であった。
「なっ――」
瞬間、世界ががらりと色を変える。
都市ダクシムの中央広場にいたはずの私たちは、気付けば暗闇の世界にいた。
あの悪夢のように、またも豪雨が降り注ぐ。その中で雨に濡れ、より官能的になったラスト・ラストが微笑む。
「ようこそ、私の箱庭へ。悪夢の続きを楽しみましょう?」




