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第二十三章 家族 ――人間よ、欲深くあれ

虐待描写を含みます。苦手な方はご注意ください。

 クレスは自室で蝸牛のように蹲っていた。薄暗い部屋で、どれだけの間そうしていたのだろうか。

 ノックもなしにレディの部屋に入ってきた私に文句すら言わず、クレスは虚ろな目を向けてくる。

「カズキ様……」

 その響きには悲痛なまでの色が込められていた。


「カズキ様、わたくしはどうすればよかったのですか? どうして父が卑徒に……あんな姿にならなければいけなかったのです!? あの優しかったお父様が、どうして!」


 クレスは溜まりに溜まっていた憤慨をまき散らすかのように、私に掴みかかってきた。

 世界の不条理を憎むように。世界の理不尽さを呪うように。

 そうしなければ壊れてしまうしかないと、彼女は分かっていたのだろう。

 眷属は敵であり、卑徒もまた敵だ。眷属とて魔族の成れの果てだが、彼らには生前の記憶も姿形もない。

 だが卑徒となったラースは違う。翼こそあれど見目は変わっていなかったというし、クレスの名を呼んだのだという。

 

 それはパンドラの箱にも似ている。絶望の中にたった一つだけ残った希望。

 いっそのこと絶望だけが詰まっていたならば諦めもついただろう。眷属どもを屠るように、心を殺して鬼になることもできた。

 だが希望が残っているからこそ、彼女はこうして俯いているのだ。もしかしたら、と。

「もしかしたら、お父様はまだ……お父様のままなのではありませんか? わたくしを見て泣いていたあの姿は、元のお父様にしか見えませんでした。教えてくださいカズキ様、わたくしはあのヒトを殺さなくてはならないのですか!?」

 激情のままに、クレスが詰め寄る。虚ろだった瞳に涙を宿して問い詰めてくる。


 私は彼女の細い腕をつかんでベッドに押し倒した。嗚咽を漏らし、ぐしゃぐしゃに歪んでしまった顔を見つめる。

「クレス、答えが欲しいか?」

 地獄の底から響いてくるような、低い声で問う。クレスは小さく震えた後、目を見開いた。

「答えを、くれるのですか……?」

 その声を聴いて完全に悟った。この女は参ってしまっている。恐らく彼女にとって、父親とはそれほどまでに大事な存在だったのだろう。

 尋常ではない取り乱し方をしていたクレスだが、私のただならぬ様子に息を止める。

 そうだ、それでいい。感情を殺せ。悪魔になりきれ。

 

「ああ、答えをやろう。ただし、その代わり私の話を聞いてもらう。なに、大した話ではないさ。どこにでもある他愛のない与太話だよ」

 私は何でもないことのように言った。実際には精神が悲鳴を上げ嘔吐と頭痛が止まらないが無視。

 クレスはふっと力を抜いて、目を閉じた。

「はい、聞かせて下さいカズキ様。あなたが、答えをくれるというのなら」

 

 では、と一拍置いて。私は語りだした。

 私に纏わる過去の因縁を。度し難い罪の形を。私の――家族の話を。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




 私の父は、名を亜門和義(あもん かずよし)という。


 人間よ、欲深くあれ。

 父は常々そう言っていた。父は人間の欲望を誰よりも愛し、慈しみ、そして尊んでいた。

 私の家族は、父と妹の和菜を合わせて三人だ。母に関しては何も知らない。というのも、私は母を見たこともなければ名前すら聞いたことがないからだ。

 もちろん私とてキャベツ畑から生まれるわけではない。母というべき存在は確かにいたのだろう。

 今となってはどうでもいいことだ。少なくとも私が物心ついた頃には、私の世界には父と妹しかいなかった。

 

 それが当たり前だとも思っていたし、疑問に感じることもなかった。父と妹、三人での暮らしは裕福でこそなかったものの、それなりに満ち足りていたからだ。

 父は優しく実直な人物だった。男手一つで私と妹を育て上げ、時に厳しく、時に甘く、時にユーモラスに、私たちと接してくれた。

 私は、父のことをこの上なく尊敬していた。私には父の教えこそが全てであり、神のお告げのようにすら思えたほどだ。 

 そして、やはり父はこう言うのだ。人間よ、欲深くあれ、と。

 それはまるで魔法の呪文だった。それが間違いなく心理であると信じて疑わず、何度も何度も胸に刻み込んだものだ。


 ――人間は欲によって行動するときのみ、人間足り得る。故に、欲深くあらねばならない。

 ただし、欲望そのものは決して悪ではない。欲求とは人間の原動力であり、それを善とするも悪とするも人間の行い次第なのだ。

 生きたいと願うのも。殺したいと思うのも。守りたいと誓うのも。犯したいと欲するのも。その全てが欲望から来る感情の発露に過ぎない。

 欲望を失えば、ただの人形に成り下がってしまう。だから獣のように貪欲に、ただ人間らしくあれ。


 父はいつもそう言って笑っていた。幼心に、その教えに対して忠実であろうとしたものである。

 もっとも、父の理想とは程遠かっただろう。それでもいい、その内理解できるようになるさと私の頭を撫でてくれた掌の感触を、今でも覚えている。

 そうして一見平凡かつ平和に、亜門家の日常は過ぎて行った。


 そんな日常が脆くも崩れ去ったのは、私は中学校に入学してすぐのことだった。

 

 父が、壊れたのである。

 元々精神の強い人間ではなかった父が狂ってしまったのは、そうおかしなことではなかったのかもしれない。

 父が狂った理由を私は知らない。それは私の語るべき物語ではないし、当時の私には関係のないことだった。

 会社が倒産したとか、恋人に裏切られたとか、そういう理由があったのかもしれない。もしくはなかったのかもしれない。

 ともかく重要なのは、父が精神を病み酒に溺れ始めたこと。


 そして、私と妹に暴力を振るうようになったことだ。


 即ち虐待。壊れた父は毎朝毎晩毎日毎月毎年のように、私と妹に向かって暴力を振るった。

 人間よ、欲深くあれ。その言葉は、呪文からただの呪いへと姿を変えた。

 父は欲望のままに暴虐の限りを尽くした。思いつく限りの暴言と暴力を振るわれ、家族は壊れていった。

 だが、私は必死に抵抗した。せめて妹だけは守ろうと。

 人間よ、欲深くあれ――父のその呪いを、私は体現しなければならないと思ったのだ。


 父が欲望のままに暴力を振るうなら、私は欲望のままに妹を守り抜こう。幼い彼女を庇うことこそが、私のやり通さねばならないことだと悟っていた。

 欲深くあれ、欲深くあれ。父が殴る。

 欲深くあれ、欲深くあれ。私が庇う。

 欲深くあれ。欲深くあれ。父が蹴る。

 欲深くあれ。欲深くあれ。私が守る。


 そうしているうちに、父の欲求は私だけに向けられるようになった。うわ言の様に自分の教えた言葉を呟く息子が気に入らなかったのだろう。

 それでも、父とて常に狂っているわけではなかった。いや、むしろそうだったなら諦めもついただろう。

 父は酔いが覚めると、必ずこう言うのだ。

 ――すまかった、許してくれ。

 正気に戻った父を見て安堵するのもつかの間、父は罪悪感に耐え兼ね酒を浴びるように飲む。そしてまた狂奔が繰り返されるのだ。

 

 そんな狂った日常が繰り返された、ある日のこと。

 父はその身に滾った欲望を、自分の娘に向けようとした。

 いつかそうなるとは思っていた。暴力だけで終わるはずがないと。いずれ父は肉欲にすら溺れるようになると確信していた。

 だから、私はいつものように身代りになったのだ。

 妹だけは守ってみせる。むしろ思わなければ私の精神の方が持たなかったのだ。私は妹に依存していた。彼女が笑ってくれることだけが生きがいだった。

 

 そして、その夜。父の肉欲は、私へと向けられることになった。


 父が殴る。鼻が折れ血が噴き出た。父が蹴る。腹に詰まっていた消化物が逆流し口に酸っぱい味が広がる。

 父が乱暴に私の服を剥きながら、血走った眼で私の頭を押さえつけた。四つん這いの格好で、吐瀉物の海に顔を突っ込まされる。

 カチャカチャ。ベルトを外す音。次いでズボンを脱ぎ棄てる音。妹の悲鳴。脈打つ鼓動。荒い獣のような息遣い。


 やめろ。やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ人間よやめろやめろやめろやめろやめろ欲深くやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろあれやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろお願いやめろやめろやめろやめろやめてやめてやめてやめてやめて――


 その後のことは、よく覚えていない。

 

 次に意識を取り戻した私の眼には、口から泡を吹いて倒れ伏す父と、泣きじゃくる妹の姿だけが映っていた。

 それから先はとんとん拍子に事が運んだ。虐待が明るみに出たことで、私と妹は親戚の東城家に厄介になることになった。

 親戚の人たちはとてもとても優しかった。ろくに口も利かず、心も開かない私たちを懸命に励まし育ててくれた。

 

 少しずつ、私と妹は回復していった。私はなんとか高校に入学し、学生生活を送れる程度にまで立ち直ることができたのも、叔父と叔母のおかげである。

 妹は私よりも回復が早く、次第に笑顔を取り戻していった。私が守った成果なのだと思うと、たまらく嬉しく感じたものだ。

 人間よ、欲深くあれ。その教えは正しかったのだと私は理解した。

 父は欲望に捕らわれ間違ってしまった。それでも間違いさえしなければ、こうして妹の笑顔を守ることもできるのだ。

 だが、私は気付いてしまった。妹が私に対して怯えを見せることに。

 私の姿に父の影を見たのだろう。だんだんと父に似通った顔つきになっていく私を見て恐怖を感じるのは、無理もないことだったのかもしれない。


 しかし。しかしだ。これまで妹を父の魔の手から守ってきたのは他ならぬ私なのである。

 それが否定され拒絶されたのだ。もっとも妹とて私を嫌っているわけではなかった。

 むしろ父から守ってくれた兄として絶大の信頼を寄せてくれていたし、依存もしていたのは間違いない。

 それでも、彼女が男性恐怖症に陥ったのはどうすることもできないことだった。

 

 父が捕まり、平穏な日常が戻ってきたと思っていた。それすらも、易々と打ち砕かれてしまった。

 妹は私と父の「――」を見ていた。実際に毒牙にかかった私は覚えていないが、妹はずっとその光景を目撃していたのだ。

 その瞬間、私は悟った。


 誰も、私を愛してはくれないのだと。




 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇




「……これで終わりだ。詰まらない話で悪かったがね」

 話を聞き終えたクレスは、震える唇でなんとか言葉を吐き出した。

「じゃあ、あなたは……」

 悟ったようなクレスに、私は狂ったように笑う。

 

「そうとも。私の異常性欲も、殺意に慣れた体も、そして――ハーレムなどという夢想を抱いたのもこの過去のせいだ! 誰にも愛されなかったから、ただ誰かに愛してほしかっただけにすぎない! どうだ、滑稽だろう!?」

 

 私は両手で顔を覆い隠し、くつくつと笑いを零した。 

 ああ、可笑しくてたまらない。やはり私は道化だった。過去に縛られた亡霊なのだ。

 そうだ、私は卑徒となんら変わらない。仲間を増やしたかった奴らと、家族を欲しがった私。そこにどれほどの違いがあるという。

 この感情は何と呼ぶのだろう。涙が溢れて止まらないのに、決して悲しいわけではない。

 

 いいや、今はそんなことはどうでもいい。クレスだ、目の前の彼女に答えをくれてやろう。

 私は悪魔のように微笑むと、彼女の耳にそっと囁いた。

「クレス、答えをやろう――お前の父は、私が殺す」

「――ッ!」

 ビクリと電流でも流されたかのように反応するクレスに、さらに耳打ちを続ける。


「私は父親という存在が憎い。憎くて憎くてたまらない。たとえそれが誰の父親であろうとも、だ。いいかクレス、お前の父親は卑徒になった。もう助からん。だがそんなことは関係ない。私はただ、お前の父親が憎いから殺すだけだ」


 クレスが息を呑む気配。唇だけでなく、彼女の全身が震え始める。

 私は構わず哄笑した。呪うように言葉を吐き続ける。

「私はただの私怨でお前の父親を殺す。さあ――私を恨め、私を憎め、私を蔑め! お前の仇はここにいる! 故に、お前が何の苦痛も感じる必要はない。お前はひたすらに私を憎み、復讐しにくればいい。私はいつでも待っていよう」

 

 それが答えだ、と言い残して私はクレスの部屋を去ろうとする。

「待って……待ってください、カズキ様! あなたは……あなたはそれでいいのですか!?」

 背後から悲痛な声が響いた。クレスは生まれたての小鹿のように立ち上がると、よろよろと追いすがってくる。

 私は振り切るようにして、扉を閉めた。扉が完全に閉まりきる前に、これだけは言っておかねばなるまい。


「言い忘れていたが……私を殺しに来るときは、必ず笑顔でいることだ。なに、難しいことではないだろう。憎むべき相手を殺せるのだから」

「――っ! カズキ様……あなたは、それで幸せになれるのですかっ!?」


 私は力強く扉を閉めきった。これ以上の問答は無駄だとばかりに。

 ああまったく、クレスの奴め。何を勘違いしたことを抜かしているのやら。見当違いも甚だしい。

 幸せになれるか、だと?

 ――私はもう、とっくの昔に幸せなんだよ。この世界に来て、君たちと出会った時から、ずっと。

 後は、君たちの笑顔を守り抜くだけだ。


 人間よ、欲深くあれ。

 この呪いが――いつか祝福に変わりますように。

 


 

 

 

 

 

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