第十八章 暴食 「汝、その大罪を味わうことなかれ。さもなくば蠅の王が、汝の舌を引き抜くであろう」
私とエディが現場に辿り着いた時には、あまりにも遅すぎた。
《灰色の道化師》こと卑徒グラト・グラトは泣き笑いのようにも見えるおぞましい表情を張りつかせたまま、肉を貪り食っていた。
ただの肉ではない。肉の正体は《紫の隊》の服装を纏った魔族だ。
「んんー、デリィイイイイイイイイイイイシャス! やはりこの濃厚かつ芳醇な味わいはたまらんなぁ。なかなかどうして上等な魔力の持ち主じゃあないか、すんばらしぃいいいいいいいい! ああもうオレとしたことが、前菜で満足してはこの後出てくる料理に失礼というものだ!」
骨を砕き、血を啜り、肉を削ぐ音が響く。暗がりの中でも、そいつが冒涜的な食事を行っているのが窺える。
「エリオス、カルベルティ……」
エディが茫然と呟いた。エリオスとカルベルティは、彼の部下に他ならない。そして、今その部下たちがどうなっているのかも理解してしまった。
「あ、あ、あぁああああああああああああああああああああああああああっ!」
激昂したエディが蛇腹剣を引き抜いて疾駆。不意を打つ余裕などもはや彼の頭には存在しなかったのだろう。
しかしこれほど接近しているというのに、卑徒は食事に夢中なのか見向きもしなかった。
エディの蛇腹剣が伸びる。この距離は彼にとっては既に必殺の間合いだ。
宙を舞う蛇の如き軌跡を描いて飛来したそれは、卑徒の体を絡め取り八つ裂きにする――はず、だった。
「なっ……!?」
エディの驚愕。私も同様の思いだった。明らかに、蛇腹剣は卑徒に命中したように見えた。
しかし、卑徒は傷一つ負っていない。奴の体が揺らぎ、剣が霞でも切り裂くかの如くすり抜けてしまったのだ。
卑徒グラト・グラトが血で化粧を施した顔をこちらに向けた。その顔に明確な喜悦が宿る。
「おお、おお! これはまた美味そうな奴が来たじゃあないか! 貴様はどうだ。辛いか、甘いか、苦いか、渋いか、それとも……ああたまらんなぁ!」
グラト・グラトが舌なめずり。異様なほど痩せこけた体躯をしならせ、エディに喰らい付かんと大口を開ける。
「エディ、一旦退け!」
私は援護するべく魔力を放出。三条に分かたれた雷撃の槍が飛び、卑徒の胴体に風穴を開ける。
いや、違う。雷撃が着弾するよりも一瞬早く、卑徒の体が自ら大穴を開け回避したのだ。
そして、すぐさま穴は塞がってしまう。私の攻撃は奴になんのダメージも与えることができなかった。
「なんなんだ、あいつは……!」
エディが歯軋りを零す。やはり卑徒は化物だ。そう易々と討たせてくれるような相手ではない。
私を認識したグラト・グラトが哄笑する。
「く、くくく……お前か、お前かお前かお前かぁあああああああああああああっ! お前だろう異世界人の男! オレはお前を覚えているぞああそうだとも一時も忘れたことはないお前の肉はまさにまさに至上の至高の天上の極上の究極の美味! 今夜のオレは運がいい最高に! こんな旨そうな肉が二つもやって来るとは!」
饒舌に謳う卑徒の姿に怖気を覚えた。私のことなどただの餌としか認識していないであろう。
しかし、続く言葉は意外なものだった。
「ううむ。そういえばルシフ・ルシフからあのヒューマンは殺すなと言われていたんだった。さてはて俺はどうするべきだろう、据え膳喰わぬなど主義に反するのだがああそうだちょっとつまみ食いするくらいなら許してくれるに違いないきっとそうだだから美味しくいただこうそうしよう!」
こいつはイカレている。あれほど狂気に満ちていたレヴル・レヴルでさえ対話は成立したが、この道化は次元が違う。
だらだらと涎を零しながら歯を打ち鳴らす様は完全に飢えた獣のそれ。放っておけば間違いなく災厄をまき散らす。
レヴル・レヴルのように逃げることなど有り得まい。こいつは確実にここで仕留めなければならないと、本能が告げていた。
「ほざけ、卑徒風情が! 今夜が貴様にとって最後の晩餐だ!」
「くけけけけけけぇええええええええええっ! 言うじゃあないかヒューマン! 良い良いぞ絶頂しそうだ辛抱たまらんこれほど生きのいい食材はそうそうお目にかかれないだろうまずはねっぷりとしゃぶり尽くしてやる!」
グラト・グラトが跳躍。軽業じみた動きで空中で回転しながら、異様に長い腕を振り下ろした。
私とエディは咄嗟に左右に転がるようにして回避する。さほど力を込めているとも思えない一撃だというのに、地面が大きく抉れていた。
だがそれしきのことで怯む私たちではない。阿吽の呼吸で卑徒に向けて攻撃を放つ。
やはり攻撃はすり抜けるのみ。なんの手応えも感じないまま剣は空しく虚空を切り裂く。
「効かん効かん効かん効かん効かん効かぁあああああああん! なんだそれは攻撃しているつもりなのかやる気が感じられんなぁ!」
卑徒の挑発。そんなことは百も承知だ。ただの攻撃では意味がないなら、こちらにもやりようはある。
「はっ!」
私は魔力を放出し、剣速を上げる。さらに雷を纏わせ、グラト・グラトの両腰から生える純白の翼を狙った。
「ぬぅ!?」
グラト・グラトが驚愕の声を上げた。翼が弱点なのは既に判明済みだ。
しかし、それでも私の手には何の感触もない。卑徒の翼すら透過してしまうだけだった。
「は、はははははははっ! どうしたどうした翼は別だとでも思ったのか間抜けめ短絡的だな理知的とは到底思えないぞさあもっともっと高まれ高ぶれ馳走たちよ!」
高らかに嗤う道化を前にして、エディが蛇腹剣を凄まじい勢いで操る。さらに魔術を発動し、地面から湧き出た巨大な腕で拘束しようとした。
「くっ、ダメなのか……!」
やはりすり抜けてしまうだけだ。物理的な攻撃が通じない。
一体どうすればいい、攻撃が効かない相手にどうやって戦えばいいんだ!
そんな私の困惑ごと打ち砕くようにして、グラト・グラトが攻勢に出た。
「いただきまぁああああああああああああああああすぅううううううううううううううううう!」
異様に長かった手足がさらに伸びる。道化の腕が私とエディに獰猛に喰らい付かんと迫る。
虚をつかれ回避はとても間に合わない。剣で防御――ダメだ、またすり抜けてしまうだけだ。
私は《魔障壁》を生成する。瞬時に展開したためさほど防御力は高くないはずのそれを前にして、グラト・グラトの腕が止まった。
「ほう……」
その時、確かに卑徒は嘆息していた。感心したとでもいうように。
どういうことだ。魔力による攻撃はすり抜けたというのに、何故《魔障壁》はすり抜けられない?
攻撃の際は透過不可能なのか、あるいは。
「ぐ、ぁ……」
苦悶の声に思考が中断。エディは剣で防御してしまったのか、同じようにすり抜けられ首を絞められていた。
「エディ! クソ、離せ……!」
私は自分の直感を信じた。掌から魔力で風を生み出し、エディごと吹き飛ばすように叩き付ける。
グラト・グラトの腕は黒い霧のように霧散し、エディは酸素を求めて苦しげに喘いだ。
「くかかかかかかかかかかかかっ、気付いたか気付いたなヒューマン! いいぞいいぞなかなか察しが良い優れた洞察力だ誉めてやろうじゃあないか!」
卑徒グラト・グラト、その正体は――
「我が名は《蠅の王》グラト・グラト! 個ではなく群であるが故に、白黒つかずの灰色の道化師なりぃいいいいいいいいいいいいいいい!」
数えきれないほどの蠅の群れ。それが寄り集まって卑徒グラト・グラトを形成しているのだ。
あの道化師じみた服装の内部では、黒い小さな塊が蠢いていることだろう。だからこそ一つ一つが分散し攻撃は通じなかった。
だが、体全体を覆う魔術である《魔障壁》はすり抜けられない。蠅が入り込むスペースが存在しないからだ。
恐らくはあの卑徒の翼も偽物だろう。どこかに一匹だけ純白の翼をもった《本体》とでも言うべき蠅が存在するはず。
突破口は見えた。一匹一匹を潰したところで意味などなかろう。ならば一匹残らず諸共消し飛ばすのみ!
「エディ、行けるな! こいつはここで仕留める!」
「応とも親友!」
私とエディは共に魔力を集中。卑徒を跡形もなく打ち倒すには、それなりの魔力量が必要だ。
だが、それを許すグラト・グラトではなかった。
卑徒の体が揺らめいたかと思うと、黒い霧――否、黒い蠅の群れが弾けたように拡散。辺り一面を闇より暗い漆黒が支配する。
「くけかかっかかかかかかかかかかかかかかっ! 喰らえ喰らえ喰らえ喰らえぇええええええええええええ!」
「っ、ぐ、……!」
思わず苦痛が漏れる。視界は完全に塞がれ、蠢く蠅どもが《魔障壁》を食い破って肉を削いできた。
私は全身から魔力を放出。蠅どもを吹き飛ばし、拡散する暇すら与えず雷撃をもって消し炭に変える。
さらにエディも追撃。グローリアの放ったものよりは小さいが、極光の矢が蠅どもの群れを貫いた。
しかし、あくまで一部を削っただけだ。やはり本体を潰さねば意味がないだろう。
「あああああぁあぁぁあああぁああああぁあああああああああああ! もう我慢の限界だ食わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ俺を俺たちを殺しやがって許せん許さない断じて絶対に喰い殺す!」
絶叫するグラト・グラト。捕食者としての矜持が奴を激昂させたのか、奴の魔力が膨れ上がっていく。
卑徒の体が回転。またも奴の体が輪郭を失い、蠅の軍勢へと姿を変える。そして訪れるのは死の旋風。
蠅の群れが高速で回転し、巨大な黒い竜巻と化した。
「っ、カズキ君!」
「任せたまえ!」
この規模の竜巻を回避することなど不可能。さらに言えば、このまま侵攻すればコトネたちのいる宿へ直撃してしまう。
故に迎え撃つ。都市一つを軽々と消し飛ばすであろう蠅の暴風を前にして、私たちは一歩も退くことはない。
魔力を右腕に掻き集める。傍らに立つエディも私の右腕にありったけの魔力を乗せた。
「うおぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
雄叫びと共に魔力を解放。黒嵐に対抗するべく放った暴風が唸りを上げる。負けじと咆えるグラト・グラト。
膨大な魔力が衝突する。あまりの衝撃に全身が引き裂かれそうになるが、この程度で根を上げるわけにはいかない。
「ぐ、ぅ……!」
しかし、黒嵐に徐々に押されてくる。こちらは魔力を消費していくばかりだが、奴はどれだけ潰しても潰してもキリがないのだ。
「くけっけええええええかかかかかかかっかかかかっかっ! こんなものかヒューマン! 大人しく俺の血肉となるがいい!」
蠅の王が嘲り笑う。私とエディに焦りが生まれた。このままでは……!
――その時、氷風と血風が私たちの魔力を後押しするかの如く現れた。
「苦戦しておるようじゃのう、お主ら。妾の手を煩わせるでないわ」
『ケケ、俺サマ参上! ってな。テメーら腑抜けてんじゃねえぞオイ!』
「……お兄ちゃん、エディ、助けに来た」
グローリアとコトネの魔力によって増幅された私の暴風が、グラト・グラトを押し返す。
さらには《蒼の隊》、《紫の隊》の隊員たちまでもが次々と魔力を放っていく。
彼女たちはグラト・グラトの眷属たちと戦っていたのだろう、既に相当のダメージを負っているのがわかる。
それでも駆けつけてくれたのだ。ならば答えないわけにはいかないだろう!
ついに私たちの魔力の嵐がグラト・グラトに打ち勝った。黒の大群が巨大な渦に呑み込まれ、悲鳴すらなく消えていく。
辺りを静寂が支配した。勝利の余韻に浸っているわけでも、勝利の美酒に酔いしれているわけでもない。
まだ、卑徒の持つ強大なる魔力の源が消えていない。
「なん、だ……?」
誰かが疑問の声を上げた。
都市が揺れている。これ以上ないほどの魔力の鼓動に打ち震えているのだ。
やがて、どこからともなく羽音が聞こえてきた。それは破滅の足音に他ならない。
「皆、あれを見ろ!」
エディが上空を指して叫んだ。月光に照らされるようにして、何億、いや何兆という蠅の大軍勢が一つの形を成していく。
その時、私は理解していた。眷属どもが食い荒らされていた理由はこれだ。この都市に多くの蠅を集めるためだったのだ。
そして、何故眷属となることを《卑徒化》と呼ぶのかも、目の前の現実とともに突き付けられた。
それは正しく《蠅の王》と呼ぶにふさわしい異様であった。あまりにも巨大、あまりにも強大、あまりにも壮大、あまりにも偉大。
全高十メートルはあろうかという蠅の怪物。それが、もはや数えきれないほどの蠅の群れによって形成されていた。
『――貴様ら一匹残らず喰らい尽くしてやるぅぁあああああああああああああああああああああ!! 嗚呼、腹が減ったぞ肉どもこの俺に咀嚼されろ!』
絶望が、始まった。




