第十七章 恐怖 「恐怖とは?」 「死ぬこと、ではない」
都市ダクシムは、まるで巨大な獣の顎に食い破られたかのように荒れ果てていた。
壁や地面は血と臓腑が混ざり合い、ドス黒く変色している。さらに脂肪の黄色と脳漿の桃色が艶やかなコントラストを描き、冒涜的な色彩を生み出していた。
もはや原型を留めないどころか、ただの"物体"になり下がったものに蠅が群がっている。死肉を漁る蠅どもだけが生き生きとしていた。
一体どれほどの暴虐がこの都市を襲ったというのだろうか。百体の魔族が死に絶えたとしても、これほどの死体の山にはならないだろうという確信がある。
奇妙なことに、これほどの破壊の跡があるというのに建築物や地面には傷一つない。
生あるもののみを喰らい尽くしたというのか。しかしそうでなくては説明がつかない。
痕跡からして、ここで凄惨な殺戮ショーが繰り広げられたのは最近だろう。
「……エディ、確かこの都市にはもう魔族は住んでいないのではなかったか?」
私はその光景に顔を歪めながら尋ねた。
「ああ、そのはずだよ。とっくに放棄された都市だ。実際ここにくるまでにかなりの数の眷属に遭遇したし、平穏無事に過ごせるような環境とは思えないね」
エディもまた珍しく私と同じように顔を歪めた。誰もが同じ気持ちだろう。
グローリアが眉根を寄せた。
「つまり、何者かがわざわざここまで魔族を連れてきて虐殺したということかの? 何とも浅ましいことをするものじゃな。そんなことをするのは、卑徒しかおらんじゃろううて」
『ケケケ、ご主人サマよう。そいつは違うぜ」
と、グロリアスが主の言葉を否定した。グローリアが黙って続きを促すと、魔傘は饒舌に語りだした。
『ああ、卑徒の野郎がやったってのは否定しねぇぜ? 問題はそこじゃねえ、よく見てみろよこの血の量を。魔族やら家畜やら掻き集めたところでこんな血の海地獄になるはずがねえんだ。要するによ、ここでディナーとして美味しくいただかれちまったのは――眷属だろうよ」
なるほど、確かに一理ある。それならば荒野を越えてから眷属が現れなかったことにも説明がつく。
だが、それでもやはり疑問は残る。
「……どうして、卑徒が眷属を?」
私の疑問を代弁するようにコトネが呟いた。そう、卑徒の手駒たる眷属を自ら手にかける理由がわからない。
『さてな、そこまでは分からねえがよ。奴らの考えることなんざ分かりたくもねえ』
それには私も同意だった。卑徒の行動原理も何もかも謎なのだ。もしかすると眷属は卑徒の栄養補給源だとか、そういう可能性だってあり得る。
いずれにせよ考えたところで答えは出ない。ひとまずこの都市を調査することに決まり、私はコトネと共に北側の貧民街へと向かった。
血の海だった南側と違って、北側は綺麗なものだった。とはいえ建物は老廃しているし植物も枯れ果ててはいるのだが。
やはり生存者の姿はなかった。都市に生気は一切なく、完全なる静寂に満ちている。
コトネもまた言葉はない。しかし何かを噛み締めているかのような表情だった。
「どうかしたのかね?」
「……ここは、私の故郷――だった」
だった、と過去形で彼女は言った。
私は、そうか、と返すことしか出来なかった。こんな時に気のきいたセリフが浮かんでこない自分が恨めしい。
私が逆の立場だったとして、かけて欲しい言葉が思いつかない。だからこそ何も言えなかった。
私とコトネは貧民街をぐるりと回った。感傷に浸る彼女の横顔は、ひどく儚い雪のよう。
「……私は、大してこの街に思い入れなんかなかった。むしろ思い出したくない部類の過去なのに……どうして、こんな気持ちになるの?」
彼女の呟きは私の胸に響いた。
「綺麗ごとを言うつもりはないが、過去があるからこそ今のコトネがあるのだろう? 私とてなかったことに出来るならなかったことにして欲しいものだが、そうもいくまい。それに、コトネと仲良くなるきっかけにもなったしな」
コトネはくすくすと笑った。少しは調子が戻ってきたようだ。
彼女はおぼろげな記憶を手繰り寄せるようにして、貧民街を練り歩いた。私は何も言わずについていく。
やがて、彼女の足が止まった。
「……そっか」
また悲しげに俯くコトネ。その表情から、この場所にコトネの住んでいた家があったのだと分かる。
そして、今はもう存在しないことも。
「……ないんだ。そう、よね。綺麗に、なくなっちゃったんだ」
取り壊されたのか、目前にはぽっかりと何もない空き地が広がるのみ。私は彼女の頭に手を乗せた。
「安心したまえ、君はもう一人ではない。帰る場所なら、私たちにはもうあるだろう?」
「……うん。そうだね、お兄ちゃん。しっかり帰らないと、皆を心配させるもんね」
私とコトネは、しばらくそうしていた。じっと動かず、虚空を見つめる。
まるで家をなくした、兄と妹のように。
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北側の探索を終えた私たちは、集合地点である中央広場へと集まっていた。
夜の帳が降り、辺りを不気味な闇が支配している。僅かな焚火の明かりが皆の顔を照らしている。
真っ先に口を開いたのは南側の調査を行っていたエディだった。
「僕たちが調べた結果、南側はほとんどが血の海に覆われていた。グロリアスの言う通り、眷属の血だと思う。けど不可解なのは、眷属の残骸が残っていることだ」
「ふむ、灰になっていないのは奇妙だな。これまで、眷属は絶命すれば残さず灰になったものだが」
私の言葉に皆が頷いた。
「そうだね、カズキ。でも残骸はその大きさや魔力量からして眷属のもので間違いないんだ。少なくとも、奴らがここで食い荒らされたのは間違いない」
そして、やはり生存者はいなかったと報告して、エディは口を閉ざした。
南側はあれほどの凄惨な有様だったのだ。辟易してもおかしくない。
続いて、コトネが立ち上がった。
「……北側は南とは打って変わって、大人しいものだった。生存者はなし、でも周囲に損害は見られない。特にこれといった魔力の痕跡もなし。かえって不気味なくらい」
それだけ言ってコトネは私の隣に腰を下ろした。相変わらずの無表情だが、心なしか私との距離が近い。
エディがちらりとこちらを見たが、それだけだった。彼の感情は全く読み取れない。
「さて、では次は妾の番じゃの」
大仰に立ち上がり無い胸を張るグローリア。吸血鬼の魔眼がかすかに赤く光った。夜は彼女の時間だ。
「妾たちの担当は中央じゃ。こちらも一見すると綺麗なものなのじゃが……」
グローリアは溜めを作り、ゆっくりと皆の顔を見回す。
「これが残っておったわ。まるで見せびらかすように、の」
彼女の小さな手に握られているのは――純白の羽根。
「それは……!」
皆が一様に驚愕の声を上げた。それも仕方あるまい、なにせその羽根は畏怖の象徴に等しいのだから。
「つまり、ここに卑徒がやってきたのは確実じゃの。さらにこの惨状を考えれば、答えは一つじゃ。卑徒グラト・グラト――奴の仕業で間違いなかろうて」
グローリアはそう断言した。卑徒グラト・グラトというと、あのピエロのような恰好をした卑徒だろう。
「カズキ、お主は卑徒の神殿で奴と戦ったのであろう? グラト・グラトに関して何か有益な情報はないのかのう?」
「ふむ、そうだな……奴は接近戦を好むタイプだろう。見た目はまるで道化だが、凶暴かつ俊敏な動きで喰らい付いてくる」
私は神殿での戦闘を思い出して顔を顰めた。完治したはずの右肩に僅かな痛みが走る。
卑徒との戦闘に関して話し合った後、中央街の宿へと向かった。比較的腐敗の少ない建物を掃除して使うことになったのだ。
さらに交代で夜間の見張りを行う。このまま卑徒や眷属が現れることなく、安全が確保できたならこの都市は第二の拠点として活用されることになる。
悲しげなコトネの顔を思い出すと、何も起こらないでくれればと願ってしまう。それが叶わない願いだと知りつつも。
宿の一室で思案にふけっていた私は、最初ノックの音に気付かなかった。
「カズキ、いるかい?」
エディの声。が、こんな夜更けに何の用だろうか。交代の時間にはまだ早いはずだ。
私は訝しみながら、ドア越しに声をかけた。
「エディかね? この扉を開けて欲しくば、合言葉を言うがいい」
「ええ? あ、合言葉? そんなの決めてないだろう!?」
「何を言っているのだ。さっきの会議で決めておいたではないか。"コトネのおっぱいは"と言ったら"正義"と返すのだと」
「ば、馬鹿言うなっ! そそそそんなハレンチな合言葉があるかっ!」
ふむ、この反応は間違いなくエディだな。
私が扉を開けると、涙目で顔を赤らめたエディがいた。男のこんな顔は見たくない。
「それで、何かね? 私はこれから夜のソロ活動にいそしまねばならんのだが……」
「何の活動だよ! そうじゃなくて、ちょっと話があるんだ。顔を貸してくれないか」
彼の表情は至極真剣なものだった。私も顔を引き締め頷く。
見張りに言い残して宿を後にした私たちは、再び中央広場へと赴いていた。
彼は頭のない銅像にもたれかかると、大きな溜息を吐いた。
「カズキ君、僕はダメな男だ」
いきなり何を言い出すんだこいつは。
「知っている。それがどうかしたのかね?」
エディは力なく笑った。
「はは、ひどいな君は。でも、そんな君だからこそコトネ君は……」
そう言いかけて口を噤む。エディは自分の考えを振り払うように頭を振った。
「いや、いい。この話は聞かなかったことにしてくれ。話題を変えよう、僕はね……実は怖いんだ」
「怖い? それは、卑徒が怖いということか?」
彼は曖昧に笑った。
「それもある。もちろん卑徒は怖いさ。レヴル・レヴルだって間近で見ただけで震え上がるくらい恐ろしかった。でもね、本当に怖いのはカズキ君――君だよ」
あろうことか私が怖いと、《紫の隊》の副隊長を務める彼は言った。
それは当然のことなのかもしれない。魔族にとって、元々得体の知れない怪物という意味では私も卑徒も変わりないのだ。
だが、そんな私の考えを否定するようにエディは続けた。
「違うんだ。なにも君の力が怖いというわけじゃない。全く怖くないと言ったらウソになるけどね。僕が一番怖いのは、君のその精神性だよ」
「ふむ、精神性……ね。私のような餓鬼にそんな大層なものが宿っているとは思えないのだが」
「そう、それだ。君はまだ幼い。隊長のような長寿の果てに得たわけでもないのに、どうしてそんなに達観していられるんだい? まるで、君は死が怖くないみたいだ」
死、という単語にラティラの姿を思い出す。
そして、私の妹のことも。
「私とて死は怖いさ。ただそれ以上に、もっと怖いものがあるだけだよ」
人間よ、欲深くあれ。
欲望を失ったとき、人は人でなくなる。ケダモノ以下の人形に成り下がるのだ。
意欲の喪失、存在の否定。私は何よりもそれが怖い。
エディは顎に手を当てしばし考えていたが、どうやら納得のいく回答は得られなかったらしい。
「僕には見当もつかないな。自己の死より怖いもの、ってのは」
「簡単だよ。君はコトネが死ぬのは怖くないのかね? そして、彼女を守れないことは?」
私の言葉に、彼は虚を突かれたようにポカンと口を開けたままだった。
やがて、その口から笑いが漏れ出した。
「は、はははははははははははははっ! そうだ、そりゃそうだ! そいつは怖いな、僕が死ぬことなんかよりよっぽど怖い。ああなんだ、こんなに簡単なことだったんだ」
「そうだろう? 私は二度とあんな思いをしたくない。だからこそこうして生き恥を晒している。その生き方がどれほど歪んでいようとな」
生物は自己の生存本能に忠実である。それでも、誰かのために生きることはできるのだ。
欲望は醜くも美しい。殺すも生かすも自分次第。
エディはひとしきり笑った後、晴れやかな表情を取り戻していた、
「ありがとうカズキ君。なんだか、頭の中の霧が消えた気分だよ」
「それは重畳。もっとも、私の下らない話が役に立ったかは分からないがね」
と、その時。私たちの弛緩した雰囲気を正すようにして、巨大な魔力の塊が上空に出現した。
「これは……!」
エディの驚愕。既に相対したことのある私は彼よりも早く動くことが出来ていた。
卑徒グラト・グラト。灰色の道化師はまるで私たちを嘲笑うかのように、上空で踊っているのが感じ取れる。
「行くぞエディ、我が親友よ――怖い思いは、御免だろう?」
「ああ、勿論だとも親友!」
暴食の卑徒との死闘は、こうして幕を切ったのだった。




