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一 奨学金の怪

★『銀杏玲の冒険(The Adventures of Toru Icho)』シリーズ最終話★

 大学三年の春、僕もようやく就職を考え始めた。大学院に進み、就職を先送りして、大学院生という社会的身分を担保に文筆活動を続けるのもいいだろうし、出版社に就職して、自分の好きなことを仕事にするのもいい。ただやはり、子を授かった以上、前者の選択は、愛する伴侶に失礼であろう。そう考えて、サークル仲間とともに、出版関係の業界研究に着手していたのだが、そんな折、「奨学金が打ち切られて、退学する学生が増えている」という学内の不穏な噂を耳にしたのである。三年生のこの時期に何と気の毒であろうか。というよりも、何て残酷なことをしてくれる大学なのだろうか。ただ一方で、自分が当事者にならなくてよかったと思ってしまった自分もいる。

 そんな自己嫌悪から、僕は普段、仲良くしている学部事務室のスタッフにそれとなく、噂の真相を聴いてみることにした。すると、どうやら、打ち切られたとされる奨学金は、大学の基金から支出されているものではなく、大学とは関係のない『新緑の春』といわれる法人が一般公募した奨学生に対する奨学金であることがわかった。一般の奨学金にみられるような高校時代の成績要件がない代わりに、奨学生が法人に年数回の奉仕活動を提供することを要件として支給される返済不要の奨学金だったようで、このたびの支給の打ち切りは、法人の解散によるものらしい。たしかにここ最近は、中小企業の倒産も増えており、景気も芳しくない。

 そうした経済状況を反映してか否か、細田教授の『財務会計論』の講義でも、企業の貸借対照表や損益計算書等を含む有価証券報告書から企業価値を測ったり、成長可能性を予測したりする『財務諸表分析』に時間が費やされていたのである。

「いいかね?君たちに今配ったのは、トーキーホールディングスの有価証券報告書だ。親会社と子会社の決算書類が“がっちゃんこ”されている連結決算書類だね。諸君が二年生の講義で連結会計を当然勉強していて難なく理解できることは自明ではあるが、その報告書類一式をもとに、トーキーホールディングスのグループ全体の今後の成長可能性を論じることを、期末試験の課題としよう。では今日はこれで終わり」

 細田教授は、連結会計基準を最近の研究テーマとしていることもあり、国の連結会計ワーキングの委員を引き受けたり、衆議院の財務金融委員会で政府参考人として質疑に立ったりするなど、連結会計の権威として学会のみならず、我が国の連結会計基準の策定に一定の影響力を持っている。そのせいか、教授の講義は『財務会計論』という看板ではあるものの、中身はもっぱら『連結会計基準論』で、ニッチで難解な論点を扱うことが多い。

 当然、僕一人の頭ではいつも理解に苦しむので、これまた“当然”、いつもの喫茶店で黒木の頭を借りるのである。

「この課題はさ、連結の会計処理そのものを理解していないと一歩も踏み出せないよ」僕が紅茶片手に鉛筆を書面にぐりぐりしていると、黒木は「ふうー、やっぱりコーヒーのカフェインは心を落ち着かせる」とゆったりした言葉に続けて、

「何も連結の仕訳を起こせなければ、連結書類を読み取ることができないわけでもない。例えば、この連結の範囲の項を見ると、ざっとどんな企業が子会社として連結されているかがわかる」

 そう言って、黒木はカバンの中から、しわしわになった一式の書類を取り出し、

「これは教授が配布した書類の前年度、つまり昭和56年度の書類を俺が興味本位に入手したものだが、経年比較で連結されている子会社の相違を発見できる。こうして試しにマーカーを引いてみると、昭和56年度決算で連結されていた16社のうち、教授が配布した昭和57年度決算の書類では、『ホッカイアセットコミュニティ』、『北東マネジメントグループ』、『新緑の春』、『新道アセットマネジメント』の4社が連結から外れていることがわかる。連結の範囲の操作もいわば企業の意思決定、会計政策の産物だ。何らかの意図がある。そこから、そのグループ企業が置かれている状況を読み取り、個別の財務諸表を検討していくと、そのグループの成長可能性、企業価値を判断する一助になる。しかし、まぁ、教授も面倒な課題を出してくれるね」

 コーヒー飲みながら、財務書類をまじまじと眺めていた黒木を目の前に、僕は黒木が口にした『新緑の春』という言葉に引っかかっていた。

「黒木、今『新緑の春』って言ったよね。新しい、緑の、春の」

「あぁ、だからこの会社だよ、『新緑の春』」

 黒木は書類を僕の方にひっくり返して、マーカーで指し示しながら、

「『新・緑・の・春』、これがどうかしたか?」

 僕は紅茶をテーブルに置いて、一呼吸おき、細い息にのせた小さな声で、

「ここ最近、奨学金が打ち切られて、退学している学生がいるって話をサークル仲間から聞いていたんだけど、その奨学金を支給しているのが、この解散した『新緑の春』っていう法人なんだよ」

 黒木は「ほう、なるほど。その『新緑の春』がうちの学生の“春”を奪ったということか。何という皮肉。だが、今回の教授の課題に併せて、ついでにその『新緑の春』という法人の財務状況を検討する余地はありそうだ。取り急ぎ、少々ズルいやり口だが、じいちゃんのツテで『新緑の春』の個別財務諸表を集めてもらうことにする。そうだな、一週間待ってくれ。話はそれからだ。」


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