第一章 婚約破棄と冷酷皇帝への嫁入り
舞踏会の夜というのは、いつだって残酷なほど美しい。
シャンデリアが無数の光を降り注ぎ、貴婦人たちのドレスが花のように広間を彩る。
音楽は絶えることなく流れ、笑い声が空気に溶けていく。
そんな華やかな世界の中で、私はひとり、壁際にひっそりと立っていた。
フィリア・アステル。
アステル伯爵家の長女、齢二十歳。
五年前から王太子殿下の婚約者として、この社交界に身を置いてきた。
今夜、その五年間に終止符が打たれることを、私はまだ知らなかった。
「フィリア・アステル」
レオニス殿下の声が、広間の中心から響いた。
まるで魔法のように、音楽がぴたりと止まる。
次の瞬間、無数の視線が一斉に私へと集まった。
殿下は金色の髪に翡翠の瞳を持つ、誰もが認める美しい王太子だ。
その隣には、今夜も彼女がいた。
ミレーユ・フォンタン嬢。
半年ほど前から社交界に彗星のように現れた、明るい金髪の令嬢。
殿下の腕に、花が絡みつくように寄り添っている。
「お前のような地味な女では、私の隣には立てない」
言葉が、静かに広間へ落ちた。
地味。
その一言が胸の奥に刺さる。
なのに不思議と、涙は出なかった。
出るはずの涙が、どこか遠いところへ消えてしまったみたいに。
五年間。
私はこの五年間、懸命に努力してきた。
作法も、語学も、外交礼儀も。
殿下の隣に立って恥ずかしくないようにと、それだけを考えて生きてきた。
なのに、地味。
たったその一言で、五年分が終わる。
広間がざわめき始めた。
貴族たちの視線が、好奇心と同情を半分ずつ混ぜながら、私へと向かってくる。
「さらに申し上げる」
殿下が続けた。
「フィリア嬢は今後、隣国ノルディア帝国へ嫁ぐことが決まっている。外交上の必要から、先方より強い要請があった」
ノルディア帝国。
その名前が空気に溶けた瞬間、広間の空気がまたひとつ変わった。
ざわめきが、今度は明らかな動揺へと変質する。
耳に届く声は、どれも似たような色をしていた。
「かわいそうに……氷の皇帝のもとへ嫁ぐなんて」
「アステル伯爵家も、終わりですわね」
「あの冷血皇帝のもとへ……ご無事でいられるかしら」
誰もが知っている名前だ。
ノルディア帝国皇帝、カイルハルト。
"氷の皇帝"とも"冷血皇帝"とも呼ばれる、北の大国の支配者。
処刑を厭わず、感情を持たず、ひとたび敵と見なした相手には容赦しない。
そんな話が、子どもの頃からずっと耳に入り続けてきた。
私は一歩も動かなかった。
足が石になったかのように、その場に縫い付けられている。
でも、体の奥で何かがゆっくりと決まっていくのを感じた。
「承知いたしました」
声が口から出た時、自分でも驚いた。
こんなにも落ち着いた声が、私の喉から出るものだったのか。
「殿下のご判断に従います」
殿下は一瞬だけ、何かを言いたそうな表情をした。
でもすぐにそれを隠して、軽く顎を引いた。
「賢明な判断だ」
それだけだった。
五年間の婚約が、たったそれだけで終わった。
父が私のそばへ駆け寄り、震える手で肩を掴む。
その手の震えが、じんわりと伝わってきた。
「フィリア……」
「大丈夫です、お父様」
私はできる限り穏やかに微笑んだ。
嘘でも、今はそうするしかなかった。
屋敷へ戻ったのは夜も深まった頃だった。
父の書斎に呼ばれると、机の上には地図が広げられており、ノルディア帝国の版図が、王国から遠く北に伸びている。
父の顔には、見たことがないほどの疲労が滲んでいた。
「本当に申し訳ない、フィリア」
「お父様のせいではありません」
「いや、だが……あの場でもっと強く抗議すべきだった」
「逆らえば、アステル家に害が及んでいたかもしれません」
私は静かに首を振った。
正直なところ、今の私には怒りも悲しみも、うまく湧いてこない。
それよりも先に、これからのことを考える方が頭を占めてしまう。
「ノルディアへはいつ発つのですか」
「……二週間後だと通達があった」
「では、準備を始めなければなりませんね」
「フィリア」
父の声に、切実な色が混じった。
「本当に行くつもりなのか。向こうの皇帝は、噂では……」
「噂は噂です」
私は父の目を真っすぐに見た。
「ですが、せっかくなので」
引き出しを開けて、中から一枚の紙を取り出す。
数日前に父の知人から届いた手紙の中に、偶然挟まっていたもの。
ノルディア皇帝の肖像画だった。
蝋燭の明かりに照らして、ゆっくりとその絵を見つめる。
息が、止まりそうになった。
恐ろしいほど美しい人だ、と思った。
切れ長の瞳に、整いすぎた輪郭。
眉間にほんのわずかな険しさを宿しながらも、その表情には奇妙な静けさがある。
笑ってもいない。
怒ってもいない。
ただ冷たいほどに、静かな顔だった。
でもその目の奥に、何か深いものが見えた気がした。
怒りでも冷酷さでも、ない。
もっと柔らかい、まるで傷のようなもの。
「……フィリア?」
「何でもありません」
私は肖像画を父に手渡した。
「覚悟を決めました」
「無理をしなくても……」
「無理ではありません。もう後ろを振り返るつもりはないので」
そう言い切った瞬間、不思議と気持ちが落ち着いた。
嘘から始まった覚悟でも、口に出すことで少しだけ本物になる気がする。
二週間後の朝、私はアステル家を後にした。
馬車の中には最低限の荷物を積み、侍女のリナが隣に腰を下ろしている。
リナは幼い頃から私のそばで育ってきた侍女で、「ついていきます」と一言も引かなかった。
その頑固さが、今はとても頼もしかった。
馬車が動き始める。
窓の外を、王都の景色が流れていく。
王宮の白い尖塔。
広場の噴水。
見慣れた街並みが、少しずつ遠ざかっていく。
「フィリア様」
リナが、ぽつりと声をかけてきた。
「怖くないのですか?」
少し考えてから、正直に答えた。
「怖いわよ」
「では、なぜそんなに落ち着いていらっしゃるのですか」
「怖がっていても、馬車は進むでしょう」
リナがくすっと笑った。
私もつられて、小さく笑みが出た。
山脈を越えるにつれて、空気が変わっていった。
青かった空が白に近づき、風が頬を刺すほど冷たくなる。
草原の緑が消え、岩と雪に覆われた景色が広がり始めた。
私は膝の上で手を組み合わせて、ゆっくりと深呼吸した。
あの肖像画の瞳を、また思い出す。
冷たくて、でも何か深いものを宿した、あの瞳を。
本当に恐ろしいだけの人なのだろうか。
それとも、噂とはまったく違う人なのだろうか。
答えは分からない。
分からないまま、私はノルディア帝国の首都へと向かっている。
怖い。
それは本当のことだ。
でも怯えたまま一生を終えるくらいなら、前を向く方がずっとましだ。
あの王国は私に、何も与えてくれなかった。
認めることも、大切にすることも、ただそこにいると言ってくれることさえも。
ならば、ここから先は。
私が私自身のために、生きていい。
馬車は北へと進み続ける。
寒風が窓を揺らし、ノルディアへの道は白くどこまでも続いていた。




