第3黒 賞金首《黒のカサブランカ》
辺境の森。
夜の帳が降りるにはまだ早いはずなのに、森はすでに深夜の顔をしていた。
幾重にも絡み合った古木の枝が空を覆い、月明かりさえ細切れにされて地へ落ちる。
湿った土と腐葉の匂いが濃く、踏みしめるたびに、過去にここで失われた命の残滓が軋むようだった。
影が、異様に濃い。
まるで森そのものが、何かを待っているかのように。
――その頃。
ヴァルディス王国領、交易街の外れ。
表向きは静かな別邸を装ったその館の奥で、荒々しい怒号が壁を震わせていた。
「……全滅、だと?」
低く、腹の底から絞り出すような声。
重厚な机の向こうに立つのは、肥えた体躯と贅肉に埋もれた顔をした男――
奴隷商を裏から束ねる貴族、オルフェン=グレイスナー子爵。
跪く配下たちは、頭を床に擦りつける勢いで震えている。
「は、はい……辺境の森の集積地が……」
「見張りも、人攫いも……一人残らず……」
言葉は途中で途切れ、部屋を満たしたのは重苦しい沈黙だった。
次の瞬間。
鈍い破壊音。
子爵の拳が、机の天板を叩き割っていた。
装飾木材が砕け、書類と酒杯が床に散る。
「ふざけるな……!」
怒りと焦燥が混じった叫び。
それは単なる損害への怒りではない。
支配が脅かされたことへの恐怖だった。
「商品を根こそぎ奪い……奴隷まで解放するとは……!」
「しかも……ハーフエルフまで逃がしただと……!」
子爵は理解していた。
これは事故ではない。
偶然でもない。
――意図的な破壊だ。
「……誰の仕業だ。」
配下の一人が、喉を鳴らしながら答える。
「黒い剣を持つ女です……」
「連れに、魔族のような存在がいたと……」
その言葉を聞いた瞬間、子爵の目が細く吊り上がった。
「……“黒のカサブランカ”か。」
最近、裏社会で囁かれ始めた名。
夜に現れ、奪い、壊し、血を残さず消える存在。
「商売の邪魔をして……無事で済むと思うな。」
子爵は立ち上がり、外套を荒々しく翻す。
「金はいくらでも出す。」
「“黒のカサブランカ”の首を持って来い。」
数刻後。
森の外縁。
人の手が入った道が尽き、獣道へと変わる地点に、重い足音が集まり始めていた。
革鎧が擦れる音。
金属が触れ合う鈍い響き。
呼吸は揃い、無駄口はない。
現れたのは十数名の男たち。
ヴァルディスで名を知られる傭兵団――《灰狼団》。
団長格の男は、傷だらけの手で地面に残る痕跡をなぞる。
「……ここが現場か。」
血の匂いはほとんどない。
争った形跡も乏しい。
「戦闘跡は……ほとんどないな。」
「一方的に殺された……いや、処理されたか。」
別の傭兵が、喉の奥で唸るように呟く。
「噂通りか……黒のカサブランカ。」
「花みたいな名前だが……やることは魔物だ。」
団長は鼻で笑った。
「相手は女一人だ。」
「だが、油断するな。
首に賞金が掛かるほどの相手だ。」
その視線は、すでに森の奥――
影が最も濃い場所を捉えていた。
一方、その頃。
森のさらに深部。
焚き火は最小限。煙も光も、極力殺されている。
「……影が、騒いでますねぇ。」
シルフィが、木の根に腰を下ろしたまま囁く。
銀髪は夜に溶け、淡い緑の瞳だけが微かに光っていた。
「後ろから……複数。」
「足音が重いですねぇ……傭兵、でしょうか。」
空中で腕を組んでいたカイゼルが、楽しげに口角を上げる。
「ほう、早いな。」
「奴隷商の貴族が、黙っているはずもないとは思っていたが…。」
リィナは答えない。
ただ、静かに黒い剣へ手を伸ばす。
闇を拒むような刀身。
月光すら飲み込む漆黒。
その瞬間――
森の影が、わずかに割れた。
低く、荒れた男の声が響く。
「……お前が“黒のカサブランカ”だな?」




