第1黒 黒百合、最初の粛清
夜は深く、王国の貴族街に沈黙が降りていた。
白亜の石で造られた壮麗な屋敷。その主は、かつて「白百合の勇者」を称え、そして裏切りに手を貸した一人――元家臣、エドガー=ローヴェン。
彼は知らない。
自分が今夜、歴史から“消える”ことを。
屋敷の屋根の上。
月光を歪めるように、闇が静かに蠢いた。
「……今の私は、闇を統べるものだ。」
低く、感情を削ぎ落とした声。
そこに立つのは、かつて英雄だった面影を残しながらも、もはや別物となった存在――
黒百合の女帝、リィナ=エーべルヴァイン。
破れた白銀の鎧の名残を闇の魔装が覆い尽くし、身体の線に沿う黒は夜そのもののように光を拒む。
金色だった瞳は血のような赤へと変わり、左目には復讐を象徴する紋章が淡く浮かんでいた。
その表情は冷徹で、怒りも悲しみも表に出さない――だが、瞳の奥には燃え尽きぬ憎悪が確かに宿っている。
「最初の代償にしては……ちょうどいいわね。」
背後で空気が揺らぎ、皮肉混じりの笑い声が響く。
「ほう、随分と手慣れた侵入だな、元勇者。
その目……もう迷いはないらしい。」
――カイゼル=ダークロード。
かつて彼女が封印した魔王にして、今は使い魔。
「黙りなさい。今日は“彼”の番よ。」
リィナが一歩踏み出した瞬間、闇が彼女を包み込む彼女の姿が闇へと消えていく。
屋敷の内部。
護衛兵が二人、警戒も緩く巡回していた。
「まさか、こんな夜に――」
言葉は最後まで紡がれなかった。
闇が、斬った。
「……終わりよ。」
かつて聖剣だった欠片を闇で再構築した長剣は、抵抗を許さず命を断ち切った。
悲鳴もなく、ただ“結果”だけが床に横たわる。
「力を寄こせ……その身も、技も、すべて。」
剣身の暗黒紋章が淡く光り、魂が引き剥がされるような感覚が空間を満たす。
「目標はこの奥ね…」
「そこにいるのは分かっているのよ。」
書斎の扉が軋む。
ランプの火が大きく揺れ、エドガー=ローヴェンは弾かれたように立ち上がった。
「だ、誰だ……! 衛兵! 来い!!」
返事はない。
代わりに、背後から“声”だけが落ちてくる。
「無駄よ。もう、誰にいない。」
闇が解け、赤い瞳が現れる。
彼女を見た瞬間、男の顔色は紙のように白くなった。
「そ、その瞳……まさか……リィナ……!?
し、死んだはずだ! 裏切り者は――」
「裏切ったのは、あなたたちよ。」
一歩、また一歩。
リィナが持つ長剣 ダーク・リベリオンが不吉な音を立てる。
「ま、待て……! あ、あれは命令だった!
アイツらが! あの時は選択肢が――!」
男は机を蹴り倒し、廊下へ逃げ出す。
だが床に足を取られ、無様に転がり落ちた。
「来るな……来るなああっ!」
「逃げ場はないわ。」
空間が歪み、彼女は一瞬で距離を詰める。
男は短剣を振り回し、恐怖に駆られたまま必死に抵抗する。
「ち…近寄るな!お前は勇者だろう!? 人を斬れるのか!!」
「……元よ、今の私は、只の復讐者。ましてやクズを斬るのに、慈悲なんて要らないわ。」
刃が弾かれ、短剣は床を滑った。
男は這うように後退し、涙と鼻水に塗れた顔で叫んだ。
「た、助けてくれ……!
見逃してくれるなら何でもする…金でも地位でも……!」
リィナは足を止め、冷たく告げる。
「ふふっ…命乞いをするなら地獄の王にでもすることね。さようなら。」
剣を振り下ろす――その直前、彼女は囁いた。
「死ぬ前にもう一度胸に刻め、私の名を……それが復讐の鎖となる。」
「ひ……!」
一閃。
残ったのは血の海に沈む人であった亡骸だけだ。
「……終わりね。」
剣身の紋章が淡く光り、魂の余韻が闇に吸われていく。
《奪魂の契約 発動》
――固有スキル:完全隠密取得
リィナの輪郭が、完全に世界から消えた。
「ふふっ…影でコソコソやってきた奴にはお似合いのスキルね。有難く貰っておくわ。」
背後で、低い笑い声。
「無様に足掻いたな。だが……それでいい。
復讐とは、相手に“選択肢がない”と理解させることだ。」
「序章は終わり。」
彼女は闇の中で静かに告げる。
「これから始まるのは……回収よ。
奪われたすべての、代償を。」
黒百合は、誰にも気づかれぬまま、闇夜で確かに咲き始めていた。




