【前】放っておいて。一人にしないで。
人は立場や状況によって己の身の振り方が変わる。
家族の中の自分、仕事場での自分、一人でいるときの自分…。細かく見ればもっと多様な立場を有している。そのどれが真の自身であるということはない。その集合体がこの世界における『自分』という存在なのだ。
ぬめりのあるあの感触を忘れられない頬に手を置き、ポルトは王子の部屋の暖炉で燃える火をぼうっと眺めていた。
(――………)
守りたいものがある。
悔しさを噛みしめ飲み込んだことは、きっと家臣として間違った選択ではなかった。でも胸中は大きな石が沈んだかのように冷たく重い。
あの時、一瞬でもあの男に服従しようと思ったことはこれからも消えない記憶になっただろう。
何を選び何を捨てるのか。
それは正解だったのか間違いだったのか。
正解を選んだとしても納得出来るものになるのかどうか……。
考えても考えてもきりがない。
(ローガン様に謝らなくちゃ……)
任務を抜け出してまで来てくれたのに、その手を払いのけてしまった。あの瞬間の彼の顔は今思い出しても胸が痛い。
「ポチ?大丈夫か?」
顔を上げると、心配そうに眉が下がったフォルカーがこちらを見ている。
城に戻った直後こそ色々と聞かれたが、以降この件に関して深く立ち入ってはこない。多分気を遣っているんだと思う。
任務を抜け出したローガンのことを話すわけにはいかないので、「襲われそうになったけれどカールトンのおかげで大丈夫だった」としか彼には伝えていない。
「問題ありません。何か?」
「いや……。もし身体が辛いなら無理することないぞ。今日はもう良いから部屋に戻れよ」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。平気です。それより私…ロイター様にかなり失礼な態度をとってしまいました。これから殿下にご迷惑をかけることになるかもしれません。もし何か問題が起きたら私を……」
「ぶぁーか。そんなもんでどうこうなる貧弱な飼い主じゃねーんだよ、俺は。それにあの状況でロイターに味方する奴なんざ、弱み握られてるか金握らされてるかに決まってる。丁度良い、あぶり出しに使ってやるぜ」
ベッドで休む直前だった彼はガウンも羽織らないまま歩いてくる。その距離が一歩、また一歩と縮まるごとに何故か身体が反応して、力がぎゅうっと入る。
袖からのぞく大きな手。筋張った大きな手。貴族らしい傷一つ無い手。
「――っ……」
森で押さえ付けられた…自由を無理やり奪っていったあの手と重なって見える。
自分の意志とは関係なくあのニヤけ顔が浮かび、顔はこわばり心臓がきつく掴まれるように傷んだ。
「……っ……っ!」
ぎゅっと小さくなったような心臓が、無理やり血を送り出そうと強く激しく鼓動する。痛い。息が苦しい。
呼吸が浅く早くなる。
落ち着け。違う、よく見ろ、あれは何度も助けられた手じゃないか。
「…その……もしお前が……」
「……?」
「どこか触られて気持ち悪いぃ~みたいな所があったら、俺が上書きしてやっても……」
目の前が白くなるような錯覚に襲われながら小さく口からこぼれた。
「……同じ…ことを?」
何かを瞬時に察知した王子が顔色を変える。
「いやいやいやいやいやいやっ?しないしっ?俺、あんな下種野郎とは全然違うしっ?」
今回に限ってはほぼ善意100%で提案したつもりだったであろう言葉。即撤収である。
「と・とにかくだ、俺の前で無理する必要はねぇからな!しばらくこの部屋で出来る仕事だけやってろ」
「……はい」
暖炉の炎で染まる金髪をフォルカーが撫でる。いつもみたいにがしがしとかき混ぜるというより、優しく労わるように。
いつもならご褒美にも近い行為のはずなのに、背中に何百もの虫がはいずり回っているかのような感覚に襲われる。ぎゅっと固く目を閉じた。
(気合い…っ気合い気合い気合い気合い……っっ!!)
気を抜いたらローガンの時のように手を弾いてしまいそうだ。理性が本能に楔を打ち込む。
心と身体が重ならない。口の中は砂を噛んでいるかのように気持ちが悪かった。




