3.彼と彼女と彼らの事情 02
――――懐かしい声が遠ざかっていく。騒がしい物音で意識が現実へと引き戻された。古いカビの匂いは幻で、鼻は砂糖と卵のこげる匂いと、漂ってくるコーヒーの香りを捉えていた。……一体どういうこっちゃ。
眠気でぼんやりとした視界に入ってきたのは、テーブルの上に置かれた赤い花だった。強烈な色の花が一輪、透明な背の高い瓶の中にささっていた。
その向こう側に、二人の男女。
「じゃあアザエルさんも遺跡探索者なんですか?」
「まぁそうなるね。最近はそれだけじゃやっていけないから串焼き屋始めたけど。ほら、見てないと焦げるよ」
「あ、すみません」
そんな会話が聞こえてきた。
サンドバックを修復した後、急速に睡魔が襲ってきた。アザエルが帰ってくる前に、机に突っ伏したまま眠ってしまったみたいだった。
ゆっくりと机から身を起こす。その弾みに、肩から薄手のタオルケットがずり落ちた。掛けた覚えはない。
「……何やってんだ?」
「ああクラウ。おはよう」
アザエルは質問には答えず、煎れたてのコーヒーが入ったマグカップを差し出してきた。コーヒー豆という高級な代物はこの部屋には置いていない。アザエルが持ってきたものだろう。
「昨日戻ってきたら、寝ていたもんで。起こさなかったよ」
ということは一食食いっぱぐれてしまったわけだ。昨日の昼、つまり串焼きから何も食していない。思い出したら急に空腹を意識するようになった。腹をなだめるためにコーヒーに口をつけた。他人の嗜好を把握するのがアザエルの特技の一つで、ブラックに見えるが砂糖が小さじ一杯入っている。
「これは?」
ずり落ちたタオルケットを指す。
「僕が来たときは、もうそれが掛かった状態だったよ。それは多分」
「おはようございます、王子様!」
いきなり飛んできた声がアザエルの言葉をさえぎった。それに反応し、口に含んだコーヒーを噴出した。
波打つクリーム色の髪を黒いリボンで溌剌に編み込んだ、十五歳ほどの少女。
「あんた、まだいたのかよ!」
いまいち眠気から抜け切っていなかった頭が覚醒した。
昨日、ベッドで眠ってしまった少女が、フライパンを持ってにっこりと笑っていたからだ。
「はい! ご飯作ってました!」
「……なんで?」
「昨日寝ちゃったので、お礼が出来なかったからです!」
飯とやらが本人的には謝礼のつもりらしい。
昨日から一体何なんだ、と思う。底抜けに明るい顔が腹立たしい。頭を抱えながら、厳しい声音で言い放った。
「今すぐ出てけ」
「ええ、なんでですか!?」
心外そうな声を出された。……クラウにとって、その心外そうな声こそが心外だった。
「何でもクソもないだろ。迷惑だっつうの」
大体あれはタダ飯(まだアザエルから貰ってはいないが)を求めての行動だ。それ以上でも以下でもない。それなのに、自宅に押しかけられるのは迷惑以外のなにものでもなかった。
すると、少女の目にみるみると液体がたまっていった。驚いているうちに、液体は地面に落ちた。目にたまる液体。すなわち、涙腺から分泌される体液――考えなくても、それは涙というものを指す。
少女が大きく鼻をすすった。喉をつっかえさせながら、何か、少女が主張している。
アザエルが「あーあー、泣かせた―、いけないんだー」とでも言わんばかりの視線を送ってくる。……お前のせいだバカ野郎が、という言葉を必死で飲み下した。
自分は何も、間違ったことは言ってない。あれは、あの時に終わった出来事だ。どう考えても、迷惑をこうむっているのはクラウの方だろう。だから間違ったことは言ってない。……言っていない筈だ。
しかし。
自分が原因で女の子に泣かれる。現に、そんな状況になろうとしている。17年間生きていて初めてのことだった。
「わ、悪い……」
あれ、俺、何に謝っているんだ? と謎の気分になりながら、謝罪を口にする。喉の奥がつっかえるような声がぴたりと止み、
「ありがとうございます!」
にっこりと笑う少女の涙も、また止まっていた。切り替えが早いと感心してしまう。それか、涙そのものが演技だったのか。
そして。とても、とても気になることがある。昨日から気になっていたのだが、
「あのさ、何で王子様なんだ?」
何故、自分は王子様などという大仰な呼び名で呼ばれているのだろうか。それが全く持って謎で仕方がなかった。
「だってあの時、仰っていたじゃないですか。『通りすがりの王子様です』って!」
さも当然といったように、今更それを聞いてくるのか、とでも言いたげに少女が答えた。
一拍おいて、クラウは考える。
――あの時。
アザエルが提案したタダ飯につられ、
つかつかとちんぴら達に寄っていき、
こいつら頭に腐ったヨーグルトが入ってるんじゃね? と思い、
ガン付けられたちんぴらにお前は誰だと問われて答えた一言が。
『通りすがりの王子様です』
「あ」
息が後ろに下がったような声が漏れる。
思い出した。今の今まで忘れていたけれど。そうだ、あのときに、いってしまった一言があれだった。
微妙な沈黙が流れていく。少女の純真な笑顔、アザエルの豆鉄砲でも食らったかのようにぽっかりとした顔、そして――
「……くっ」
微妙な沈黙を破ったのは、アザエルの抑えた笑い声だった。
「あっはっはっは! 王子様だって! おうぢさまだって! あっはっはっはっは!!!」
笑い声は徐々に大きくなり、爆笑に変わった。手のひらで額をたたく。何が素晴らしい嘘だ。全然素晴らしくない。これなら不名誉だが、破壊屋の方がマシかもしれない。バカか俺は。俺は死ぬほどバカだ。
たっぷりと五分以上、アザエルの爆笑を一身に浴びた。
「まぁとにかく。朝ごはんでも食べようじゃないか。お礼だっていって彼女が用意してくれたんだよ。八割九分ほど僕の手が入ってるけど」
「……ほとんどお前が作ったんじゃねえか」
そうしてテーブルに並んだのは、狐色に焼いたパン。コーヒー。スクランブルエッグに、簡単なサラダ。食材はコーヒーと同様に、アザエルが持ってきたものだろう。それから……赤い花を指さすのではなく、
「なあ、これ、何だ?」
聞くのも恐ろしいものが、一品。
アザエルは三十度ほど目を逸らして、固まった半笑いの表情を作る。これに関しては全くのノータッチらしい。
「アップルパイです!」
笑ったまま答えないアザエルに代わって、少女が元気に言い放った。
これがかよ、と思ったが口には出さない。ルックスが悪すぎる。アップルパイが、こんなドドメ色になるものなのか。パイ生地って、もっと白くなかったか? というか、朝っぱらからこんな甘ったるいものを食べたくはないぞ。
「作っていたら鍋に穴あけちゃいましたけど、味は悪くないです!」
「ちょっと待て。今何て言った?」
とっても気になることを言っていたような。
「アップルパイです!」
「いや、その後」
「作っていたら鍋に穴開けちゃいましたけど、味は悪くないです!」
ガスコンロの鍋にあわてて振り返る。ガス台にそのまま置かれているのは、確かに底に穴の開いた、もはや使い物にならないかつて鍋だったものだ。
鍋の底からこんにちは。向こう側がはっきりと見える。部屋で一つだけの鍋。
「君がいつも遺跡でぶっ壊してくるものと比べれば、これぐらいは可愛いんじゃないの?」
それを言われるとつらい。
クラウは聞かなかったことにして、アップルパイ、らしきものを食べてみることにする。
「……不味くない」
小さく呟いた言葉には驚きの要素が含まれていた。アップルパイとしては申し分のない味が口の中に広がる。鍋を破壊させたのだから、昇天するほど美味いか一口食べただけで地獄に堕ちるほど不味いかのどちらかだと思っていた。……普通のアップルパイのために鍋がひとつ犠牲になったかと考えると、少しばかり切ないが。
闖入者、王子様、ドドメ色のアップルパイ、死んだ鍋。
「あんた、名前は?」
起きた直後からの展開の連続に、軽い頭痛を覚えながら少女に向かって問う。
「ミルカ・マイヨールです」
「そうか、ミルカさんか。街中で助けたのは俺とはいえ、知らない人間の家に押しかけてくることに疑問なんかは持たなかったのか?」
「いいえ」
少女――ミルカが即答する。あまりにもさっぱりとした返事なので、逆にクラウの方がたじろいでしまう。
「アザエルさんともお知り合いになりましたし、何よりも王子様に助けて頂いたお礼をちゃんとしたかったんです」
「……その王子様ってのはやめてくれ」
ミルカは小さく首を傾げる。何て説明したものだろう。
「アレは言葉のあやってか、その場のノリっていうか。……まぁとにかくやめて欲しい。俺にはクラウっていう名前があるんだ」
クラウ、クラウ、とミルカはその名前を小さく確かめた。呼ばれるでもなく自分の名前を呟かれることに、一種の気恥ずかしさを覚える。
「はい、わかりました!」
大輪の花が咲いた。短い間だが、今までで見た一番の笑顔だった。
朝食中、ミルカは色々なことを話した。第一大陸中を旅していること。港町のディーターから、列車に乗る金がなかったので夜通し歩いてダラスに来たこと。ダラスは大きい街だったからびっくりしたこと。街につくなり、がらの悪い男に絡まれて怖かった、など。目まぐるしく少女の話題は変わっていった。
改めて、じっくりと顔を見る。
卵型の輪郭。少しばかり垂れた、鳶色の大きな瞳。綺麗と可愛いだったら後者に当てはまる、愛らしい顔立ち。長いクリーム色の髪は若干癖が入っているらしく、ふわふわと緩く波打っている。
どちらかと言えば大人しさを印象づける顔だ。人がよさそうで、人に騙されそうで、そして人から愛されそうな。ヴァシリーの秘書のキーラのように、どの角度から見ても美人、分かり易く美人、美女と評さない人間がいないほど超現実的な美人、という感じではない。一目見た時に思ったように、身にまとう空気はとても柔らかく、笑った顔は魅力的だ。
雰囲気だけはとても柔らかい。だが、その裏に、ひと様の部屋に簡単に押しかけてくるような行動力を秘めているのだ。常にフライパンを持ち歩いているような意外性を持っているのだ。……一人で旅をする度胸があるのだ。大人しくしてれば可愛い、と思う。
「……どうしたんですか?」
じっと見ていたのに気付いたのか、ミルカが怪訝そうな顔を向けてきた。女性の顔をじっくりとみてしまったことに対する気恥ずかしさを覚える。
「あー、いや、なんでもない」
何となくでも、可愛いと思っていたことを勘付かれたくない。気まずそうに答えるクラウの横で、アザエルがにやにやと笑っていた。
「で、あんたはこれからどうするんだ?」
少女の話がひと段落したところで、改めて問う。
もう十分、これ以上は迷惑というほどお礼とやらは貰った。できればさっさとどこかに消えてほしいところなのだが、おいしそうにコーヒーを嗜んでいる姿を見ていると、このまま居座られそうな予感もしている。金がないと言っていたし。
「ええっと、人と会う約束をしているんです。今日の十時にお約束しているんです」
「十時っていうとそろそろだけど」
テーブルに置かれたままの懐中時計でアザエルが確認する。九時五十分。じゃあそろそろ、本当にこの少女と縁が切れるんだな、よかったよかったと思っていたら――。
「やぁクラウ。部屋に女の子連れ込んで押し倒したって本当?」
ノックもなくいきなり入ってきたのは、よく知る黒髪の男だった。未だに寝ていた姿のままのクラウとは対照的に、流行もののスーツを隙なく着込んでいる。
よく知る黒髪の男――ヴァシリー・アトウェルの唐突な台詞に、クラウは食べていたパンを器官に詰まらせる。
「勝手に入ってきたんだよ!」
「ていうか、寧ろ押し倒されたよね、クラウ」
「へぇー。なんだ。僕本当かと思って、さっき通りで会った管理人さんに話しちゃったよ。『私というものがありながら、若い女となら寝るのね!』って泣いていたよ」
「何の話だそれ。知らねえよ!」
咳をしながらの抗議を、ヴァシリーはさらっと受け流した。勿論、アザエルの余計なひと言も。
「一つアドバイスをしておこう。その年で女の子を泣かせると、今後の人生、女性関係でろくな目に合わないよ。ま、それが楽しくなったら人でなし一直線だけどね。ソースは僕」
「あ、人でなしなの、自覚してたんですね」
「だからお前ら人の話を聞け!」
何で朝っぱらからこんなに疲れないといけないんだ。先ほどから繰り返されるアザエルの無用な茶々も、頭痛の種として脳内にまかれていくだけだ。
「まぁ、とりあえずクラウ君が女の子を押し倒したかどうかはともかくとして」
一転して、ミルカの方を振り向く。そして少女の手を取って、優雅にほほ笑んだ。切り替えが早い男だ。
「こんにちはお嬢さん。お待たせして申し訳ない。昨日ダラスについたという知らせを受けてね。時間が時間だったので、今日に回してもらいました」
「い、いいえ。こちらこそ、無理にお願いしてしまってすみません……」
打って変わって紳士的な態度をとるヴァシリー。
「……知り合いなのか?」
清楚だがあか抜けない少女に、見た目だけは洗練されている青年。接点らしきものはまったく見当たらない。知り合いであることが不自然な二人だ。
「顔を合わせるのは初めてさ。ねぇ?」
「はい。ヴァシリー・アトウェルさん、ですよね?」
「キーラに頼んどいたんだけどね。一応、聞いてない?」
「いや、キーラさんからは別の事を聞いた」
どうやら情報の行き違いがあったようだ。
「まぁいっか。あ、そうそう。罰金払ってきたから、その書類持ってきた。一応君にも渡しておかないとね。以後、気を付けるように」
ずらりと並んだのは、先日の被害総額を現す数字だ。自分の数年分の年収以上だろう。
反省してはいるが、思い出したくもない。さっさと話を切り替えることにする。
「で、お前らは一体、どういう関係なんだ?」
「……説明すると長いんだけど。した方がいい?」
「当たりめーだ。昨日から、こっちは迷惑してるんだ」
迷惑なんてひどいです! と少女が元気に抗議する。……間違いは言っていない筈なのだが、こっちが悪者のような気分になるのは何故だろう。この少女に関わってから、無用な罪悪感を抱いてしまうことが多い。
「まぁ、君にも説明しておこうか。その前にちょっといい?」
「なんだよ」
「僕にもコーヒー頂戴。ブラックがいいな」




