第9話 春祭りに行きたい
「春祭り、ですか?」
そう、とアンジェラは頷く。
「数年前にね、見たことがあるの。春になると遠くの島にたくさんの火が灯って、たくさんの灯篭が空に上がるのよ」
帝都にある一番高いレンガの塔を上ると、帝都全体を見渡すことができる。
巨大な皇宮と城下の街が、指でつまめるほど小さく眼下に広がる。そして帝国をぐるりと囲む防壁の向こう──海が見える。
アンジェラは当時見た光景を思い返した。
普段なら暗くて見えないが、春祭りの夜にはたくさんの火が灯るので、暗闇の中に島国がおぼろげに姿を現す。
焚火のような炎が島全体にぽつぽつと灯り、空には星のように何千もの灯篭がふわふわと浮かび上がる。
その幻想的な光景を、アンジェラは家からこっそり抜け出したときに、偶然見かけた。
アンジェラが社交界デビューを果たす前、十五歳だったとき。
皇宮では三十歳になる皇太子の誕生祭が開かれており、父と姉はそれに招待されて皇宮に出向いていた。アンジェラも招待されていたのだが、姉が故意に招待状をびりびりに破いて燃やしてしまったので、行けなくなってしまった。
皇太子の誕生祭というだけあり、パーティーは盛大なもので、当時社交界に強い憧れを抱いていたアンジェラはどうしても行きたかった。招待状がない限り、皇宮に入ることはできない。
せめて、皇宮を遠目から見るだけでも──そう思って、父と姉が行ったあと、こっそり馬車を拾って帝都までひとりで行った。
帝都の軒並みから抜きん出ている、細長くそびえる塔に上ってみた。
そうしたら、思いがけず異国の祭りを目にすることができたのだ。
満点の星のように、夜空いっぱいに広がる灯篭の群れに、アンジェラの目は釘付けになった。
(きれい……こんな景色、見たことないわ……)
皇宮で開かれる派手で賑やかなパーティーとは違って、密やかで美しい祭り。
──皆がダンスやお喋りに夢中になっている中、自分だけがこの光景を独り占めしている。
そんな優越感と、生まれて初めてひとりで家を抜け出してきたことへの背徳感と共に、春祭りの光景はアンジェラにとって特別な思い出として心に残っていた。
(あの景色を、もう一度見てみたい……)
「帝国から海を隔てて、北方にある島国が、ルロワ王国なのよね?」
「……はい。春祭りは、俺の祖国の伝統行事です」
「そう……あれが、ルロワ王国……」
当時は何も知らずに見ていたが、あの島国がグレゴワールの祖国だったのだと思うと、なおさら感慨深くなる。
「春祭りは年に一度の、春の到来を祝う祭りです」
グレゴワールは懐かしむように目を伏せた。
「王国はとても寒いので、作物があまり実りません。だから、豊穣の女神に祈りを捧げるのです。今年の春は、よく作物が実りますように……と」
「火を焚くのはどうして?」
「天上にいらっしゃる女神さまへ、王国の場所を知らせるためです」
「灯篭を上げるのは?」
「灯篭は、民の祈願です。民の願いごとを書いた紙を灯篭の中に入れて、天上の女神さまに届くように、空へ放します」
「それじゃあ、わたしがあのとき見た灯篭の数は、王国民の願いごとの数だったのね」
何千、何万という灯篭の数だけ、王国の民がいる。
ただの綺麗な火の光だと思っていたが、それにはひとつひとつ、人の願いが託されていた。
「素敵な伝統ね。帝国にはそんなお祭りはないもの」
「……はい。俺にとっても、思い入れのある祭りでした」
グレゴワールは寂しそうに微笑む。
それを見て、アンジェラは胸が痛くなった。
(そっか……ルロワ王国はもう滅んでしまったから、過去形なのね……)
祖国を失った彼の気持ちは、理解することはできない。
けれど、何となく想像することはできる。
(きっと、お家を無くしたときみたいな感じかもしれない)
小さい頃から生まれ育った場所、帰るべき場所──自分の居場所を、彼は失っている。
(春祭りが見たいだなんて、ちょっと軽率な発言だったかもしれないわ……)
帝国の支配下にある今、王国では春祭りなんて行わないかもしれない。そう思い、アンジェラは自分の発言を後悔した。
「……少し気になったのですが、お嬢さまはどうして春祭りの名称をご存じに?」
グレゴワールが不思議そうに訊ねる。
「帝国では、春祭りを目にしたことがある人はいても、春祭りという名称までは知れ渡っていないはずですが……」
確かに、とアンジェラは首をひねった。
「さあ、どうしてだったかしら……」
思い出そうとしても、どこで春祭りの名称を知ったのか思い出せない。
「無理に思い出そうとしなくても大丈夫ですよ。少し気になっただけですから」
「うん、でも……」
何か引っかかりを覚えた。
(どこかで、誰かに聞いた気がするんだけど……)
「お嬢さま」
アンジェラが必死に思い出そうとしていると、グレゴワールが窓の外を見ながら言った。
「行きましょう。春祭りに」
アンジェラは目をまるくした。
「え……でも、春祭りはもうやっていないんじゃないの?」
「奴隷として連れて行かれたのは半数です。王国にも、まだ民は残っています。彼らが例年通りに執り行うでしょう」
「……本当に?」
アンジェラは目を輝かせた。
「本当に、またあの景色が見られるの?」
「……はい。春祭りは、一週間後の夜にあります。お嬢さまが望むなら、行きましょう」
「ええ、行きたいわ!」
アンジェラは興奮のあまり、椅子から立ち上がった。
祭りを見に行く。それだけで、胸が高鳴った。
「グレゴも、一緒に来てくれるの?」
「はい、当然です。俺はあなたの護衛が役目です。──離宮を抜け出すには、それなりの危険が伴うでしょうから」
「離宮を、抜け出す……」
アンジェラは少し冷静になった。
(離宮を抜け出しても、大丈夫かしら)
エミリアンに外出許可を求めても、却下されることは目に見えている。
だとしたら、黙って出て行くしかない。
ほんの少し、不安だった。
もし離宮を抜け出したことがエミリアンに知られたら──そう思うと、身の毛がよだつ。
きっと、怒られるだけじゃ済まない。
──ここから逃げ出そうなんて思うなよ。
エミリアンの言葉が、頭の中に響く。
(……でも、逃げ出すんじゃないわ。ちょっとだけ、お祭りを見に抜け出すだけ)
せっかく訪れた機会を、諦めたくない。
ちょっと抜け出すくらいだから、大丈夫。
それに、ひとりではなく、グレゴワールも一緒に来てくれる。……だから、大丈夫なはずだ。
アンジェラは自分にそう言い聞かせた。
(それに、グレゴにも故郷のお祭りを見てほしいわ)
妃の護衛騎士だというのに、グレゴワールは監禁されているアンジェラと同じく、自由に外出もできない。
生真面目な彼は、ひとりでこっそり外へ行くなんてこともしないだろう。
アンジェラの護衛という名目で、彼が外に出ることができるなら……。
「行くわ」
アンジェラはグレゴワールの手を差し出した。
「わたしと一緒に来て」
「はい」
グレゴワールはアンジェラの手を取って、頷いた。
(……殿下に、気づかれないようにしなきゃ)
***
それから、アンジェラはグレゴワールと共に離宮を抜け出す計画を立てた。
抜け出す手段や、帝都までの交通手段を、毎日自室で彼とふたりで話し合う。そのときは部屋の前に誰もいないことをしっかり確認した。
グレゴワールと会うのは、いつも朝の起床時間とティータイム、そして夜の就寝前だった。彼と会う機会を変に増やしたりはしていないし、話し合うときも口頭のみで、計画を文字に残したりもしなかった。
そして、春祭りの日が明日に迫ったというとき。
「──最近、やけに楽しそうだな」
夕食の席で何気なくエミリアンそう言われ、アンジェラはギクッとして肉を切る手を止めた。
「そ、そうでしょうか……?」
「ああ。この頃、いつになく表情が明るいように見える」
「そんなことは……」
エミリアンは、ワイングラスを小さく揺らしながら意味深な笑みを浮かべた。
「そうかい?」
アンジェラは固唾を飲んだ。
(何か、勘づかれたかしら……)
確かに最近、浮かれていたかもしれない。
外に出られる。それも、グレゴワールと一緒に春祭りを見に行けると思うと、その日が楽しみで仕方なかった。
(人に興味ないって顔してるのに、そういう変化には目敏いのね……)
アンジェラは素知らぬふりをしながらも、エミリアンの顔色をちらちら窺った。
彼はいつも通り、取り澄ました顔をしている。
何を考えているのか、全く読めない。
「最近、君が部屋で護衛の騎士と楽しそうに話していると、警備から聞いてね」
「え……」
「よほど護衛の騎士と親しいらしいな」
アンジェラは固まった。
「……彼は、実家から連れてきた騎士ですので。馴染みがあるんです」
「そうか。毎日顔を合わせているのに、よく話が尽きないものだね」
背筋がうすら寒くなった。
今までグレゴワールに関心を示さなかった彼が、突然そんなことを言うなんておかしい。
「──それで? ふたりで、いったい何を話しているのかな」
エミリアンはワイングラスを置き、テーブルの上で両手を組み合わせてアンジェラを見つめた。