第15話 決死の抵抗
白馬に乗った、秀麗な顔立ちの皇子。
今のアンジェラにはその美しさが恐ろしかった。
エミリアンは居丈高な態度で、馬上からグレゴワールを見下ろした。
「ここは帝都だ。地理は私の方が熟知している。追い詰められていたことに気づかないとは、愚かな奴だな」
そう言って横にいる金髪の騎士に微笑みかける。
騎士は恐縮するように目を伏せた。
追い詰められていた──その言葉を聞いて、アンジェラはハッとする。金髪の騎士はアンジェラたちを単純に追いかけていたのではなく、崖へ行きつくように誘導していたのだ。──まるで牧羊犬のように。
(逃げていたつもりだったのに、追い込まれていたなんて……)
ぞっとして足が竦む。彼の頭では、自分たちの行動はどこまで計算されているのだろう。エミリアンを見つめたまま、アンジェラは地面に接着されたように動けなくなった。
「エミリアン・フォーリック……!」
グレゴワールが低く唸るようにその名を呟く。
彼にとってエミリアンは祖国の仇。それを前にして、今まで抑えていた怒りが溢れ出したようだった。
「グレゴ、だめよ……」
彼の気持ちは、多少なりは理解しているつもりだ。
それでも、今の状況でエミリアンに真っ向から歯向かうことは得策とは思えない。腕を掴んで止めようとしたが、エミリアンはグレゴワールの眼差しに気がついて目を向けた。
興味深そうに片眉を上げて、すぐに視線を逸らす。身軽な動きで馬から下りると、彼はグレゴワールを通り越し、アンジェラを見据えたまま近づいてきた。
「アンジェラ。戻ってきなさい」
アンジェラは息を呑む。
胸の前で手を強く握り、じりじりと後ずさった。
「……嫌」
──戻りたくない。
またあの窮屈で息苦しい日々には、戻りたくない。
エミリアンは僅かに眉を寄せた。
「──アンジェラ」
言外に、脅すような圧を感じる。
足が震え、今にも座り込みそうだった。けれどここで屈したら、自分はもう二度と立ち上がれなくなる気がする。
「……戻りたく、ないわ」
エミリアンをまっすぐ見据え、静かな抵抗を示す。
彼の目から、すっと温度が消えた。
彼の手がアンジェラに向かって腕を伸びかけたとき。
白い閃光が視界を裂いた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
空気が斬られるような音が耳を打ち、アンジェラの足元を風が吹き抜ける。
エミリアンの腕を切り落とす勢いで、グレゴワールが長剣を振り下ろしたのだった。彼はそれを躱して、小さく舌打ちした。
「気性の荒い番犬だな」
騎士団員が一斉に剣を構え、戦闘態勢に入った。
「手出しは無用だ。手負いの男ひとりくらい、私ひとりで事足りる」
そう言って細身の剣を抜きながら、グレゴワールを冷たい目で見据える。
再びグレゴワールが斬りかかった。
振り下ろされたグレゴワールの剣は、彼の剣に受け止められた。だが、グレゴワールの力の強さにエミリアンの肩がわずかに沈む。
二度、三度と鋭い音が連続する。
激しい剣戟の音が鳴る。
金属の擦れ合う音が、アンジェラの心臓を重く揺さぶった。
今まで目にしたことのない光景を前にして、呼吸を忘れて立ち尽くした。
──怖い。
力はグレゴワールのほうが強くても、エミリアンのほうが一枚上手なのは明らかだった。負傷しているグレゴワールは、体力も集中力も削れている。
このままじゃ負けてしまう。
それでも彼は攻撃を止めなかった。
アンジェラを守るためだ。
傷ついた背中を見つめながら、アンジェラはただ唇を噛みしめる。
──守られている。
それは嬉しいことではなくて──悔しかった。
(どうしてわたしは、いつも殿下の前で立ち尽くしていることしかできないんだろう)
勇気も何もない。
ここで自分がしゃしゃり出たって、どうせ何もできないのだ。
けれど、動きが鈍くなったグレゴワールの首元を──鎧で覆われていない部分を見て、そこに鋭い剣先で狙いを定めるエミリアンを見て、衝動に突き動かされた。
──このままじゃ、本当に殺されてしまう。
アンジェラは地面を蹴って、剣が交錯する間に割って入った。
「やめて!」
両腕を広げ、エミリアンを睨みつける。
剣を構えていた彼はピタッと動きを止めた。
「退け」
「嫌」
「私の言うことが聞けないか?」
エミリアンは顔を近づけて、騎士に聞こえないように囁いた。
低い声に背筋がうすら寒くなったが、アンジェラは負けじと言い返した。
「わたしは嫌だって言ってるわ」
「生意気な口を利くようになったな。一体誰の影響かな」
言いながら、彼はグレゴワールを見ている。
アンジェラは小さく苦笑した。
やっぱり、と思った。
「……誰の影響でもないわ。わたしの本心よ」
(殿下はやっぱり、わたしのことを見ていないのね……)
呆れたような、虚しいような、やるせない思いが胸の中に広がる。
アンジェラがこんなふうに反抗したことを、グレゴワールの影響だと思っている。
彼が「口答えするな」「部屋から出るな」と命じたとき、こんな境遇をアンジェラが嫌がっていたことなんて、気づきもしなかったのだろう。
今だって、威圧すればおとなくし戻ってくると思っているに違いない。
(殿下はきっとこの先も、わたしの気持ちを汲み取ろうなんてことは思わないのでしょうね。……こんなに傲慢で、こんなに自分が正しいと思い込んでいる人なんだもの)
アンジェラにとって、彼は初恋の相手。
初めて、人に期待した。この人はわたしを愛してくれるんじゃないだろうか、と。
最初は冷たくても、無感情でもいい。一緒に過ごしていれば、何かが変わるのではないか。ほんの僅かでもいい。いつか、彼が情を向けてくれるようになるのではないかと、心の底で希望を抱いていた。
それが全部、自分が思い描いた空想だったことを思い知った。
不意に、後ろでカランと音がする。
振り向くと、グレゴワールが長剣を取り落として膝をついていた。
籠手から指先まで鮮血が伝っている。
(もう戦うのは無理だわ──)
どうにか、この場を切り抜けなければ。
アンジェラはさりげなく辺りを見回して、利用できそうなものを探す。
騎士団員は騎乗したまま、アンジェラとグレゴワールの動向を注意深く監視している。ここで下手に動いたら、後ろにいるグレゴワールが危ない。
どうすればいい?
(──そうだ)
周りには、騎士団員がいる。
彼らが見ている。
アンジェラはひそかに息を吸い、一歩、前に踏み出た。
悲痛な表情を浮かべて、エミリアンの上着を震わせた両手で力強く掴む。
「殿下、お願いです。グレゴワールを見逃してください……!」
周りに聞こえるように、喉を開いて声を張り上げた。
「わたしが我儘を言って、外に連れ出してもらった。それだけなんです。彼は何も悪くないんです!」
彼が口を挟めないように、一気に畳みかける。
「彼は、わたしの護衛です。実家から連れてきた、大切な騎士なんです。だから、どうか、許してください……」
今度は両手を握り、体を震わせて、今にも泣き出しそうな声で訴える。
周囲が思っているであろう「気弱な第二皇子妃」を演じて。
そして、使用人の前ですら「優しい夫」の仮面を被っている彼なら、アンジェラのお願いを部下の前で無下にするなんて、出来ないはずだ。
「でも、どうしても見逃せないと仰るのなら……彼の代わりに、わたしに罰を与えてください!」
騎士団員は剣を下ろし、隣にいる者同士顔を見合わせては、困惑したようにちらちらと主人の反応を伺う。
エミリアンは上着を掴まれても微動だにせず、ただじっとアンジェラを見下ろしていた。
その目は無感情だった。
何を考えているのか全く分からず、両手に汗がにじみ出す。
エミリアンは静かに口を開いた。
「……君を罰するなんてことはできない」
「それなら、見逃してくれますか?」
「……」
重ねるように言うと、彼は沈黙した。その沈黙が、かえって不気味だった。
背中にじっとり汗がにじむ。息を呑むたびに、喉が張り付きそうだった。
それでもアンジェラは辛抱強く返答を待った。
(お願い、見逃すと言って)
祈るように願う。
(お願い──)
──ふと、異変を感じた。
彼の目が、いつの間にかアンジェラではなく、別の方向を見ている。彼の意識がアンジェラに向いていないことは見て取れた。
嫌な予感がする。
おそるおそる彼の視線の先を辿る。
その先には、剣を構えてグレゴワールに近づくあの金髪の騎士がいた。
「おい……!」
他の騎士が止めようとするが、金髪の騎士はまるで独断で動いているとでもいうように聞く耳を持たず、止まろうとしなかった。
グレゴワールは血の気の引いた顔で右腕を抑えたまま、俯いている。
横から忍び寄ってくる影に、気づいていない。
金髪の騎士の腕が動く。
鋭い軌道を描きながら、剣が振り上げられる。
切っ先が落ちようとしている。鋼の冷たい光が、グレゴワールの首元を狙っていた。
(──殺される)
グレゴワールが、殺されてしまう。
今まで離宮での生活に耐えることができたのは、彼が傍にいてくれたからだ。
エミリアンの配下でもなく、グリート家の騎士でもない。
たったひとりの、自分だけの味方。
気がつけば彼の存在は、アンジェラにとってなくてはならないものになっていた。
エミリアンや離宮にいる侍女、騎士たちよりも──父や、姉よりも。
彼がいなくなったら、自分はひとりでどうやって生きていけばいいのだろう。
(このままグレゴを失うくらいなら、いっそ──)
そう思った瞬間、足が動いていた。
剣を振り上げた騎士の合間に入り、グレゴワールの腕を掴んで、力いっぱい引っ張り上げる。アンジェラの勢いに引かれて、グレゴワールは戸惑いながらも足を踏み出すしかなかった。
そうしてエミリアンに背を向けて駆け出す。
無我夢中で走った。
──崖の淵に向かって。
エミリアンが声を詰まらせる気配がした。
淵まで来たアンジェラは、エミリアンを振り向いた。
「エミリアン……あなたの所にいるくらいなら、死んだほうがずっといいわ!」
彼の手に落ちるくらいなら、自分のほうから全部捨ててやる。
エミリアンがはっとして駆け出す頃には、アンジェラはグレゴワールの手をしっかり握ったまま、思い切り地面を蹴っていた。
崖から飛び降りる。
三階の窓とは比にならないくらい、高い場所から。
足が地面から離れ、からだ全体が宙に浮き上がり──そして、あっという間に、吸い込まれるように落下する。
下には木々が隙間なく広がっていて、地上なんて見えなかった。
ただただ、落ちるしかない。
死んだって構わない。
彼から逃れる方法が、これしかないのなら。
「アンジェラ!!」
頭上で聞こえる彼の声は、徐々に遠ざかっていった。




