おばあちゃん、足が痛い
「勿論、馬を遣る。この中で一番良い馬を」
「動けません」
「では手綱を牽いてもらい」
「あいたたた」
どっこいしょ、とおばあちゃんはその場に座り込んだ。こうなったらおばあちゃんは動かない。両膝を横に曲げ座ったおばあちゃんは足腰が粘り強く、また頑固な為に誰の言葉も耳に入れないのだ。ただ一人を除いて。
「おばあちゃん、ここに座ってると迷惑になるから立とう」
「ヨシヒコが言うなら立とうかねえ」
「もう一寸だけ頑張ろうか」
「お茶でも飲んで休みたいねえ」
そんな遣り取りを見てハマーは馬車でお連れしましょう、と提案する。亡き母親との姿が重なる思いからだった。
「王都から寄越して、それまでは近くの村で過ごして頂くというのは」
ガミルズも賛同する。ここから王都までは三日、途中の町までなら一日で着くが陽が落ち始めた今からでは野営を挿む事になる。若いヨヒシコ様は兎も角、シヅヱ様の老脚には決して楽ではない距離だろうと。
「ここからムッツ村なら徒歩でも日が暮れるまでには着くでしょう」
とすれば王都から馬車の到着まで村に五泊程か、と直感で導き出すハマーの頭には王国領土の地形は元より、ある程度の集落同士の距離までも入っている。ここから東、王都とは逆の方角の塊村が思い浮かんだ。
「小さな農村ですが、村長とは見知ってますので滞在には問題ないかと」
「ではハマー大隊長、そうしろ」
任せる任せる、と王子は面倒臭そうに頭を掻いた。大賢者とか言う者の事は報告さえすれば後の細かい事はどうにでもなりそうだ。それよりも勝利の褒美は何かと胸を躍らせる。
「では殿下を先頭に帰路に着け。青魔術班はゴブリン共を検べ次第、合流せよ」
ハマーは更に細かい指示を張り上げると先程連れていた三名の兵士を残す。
ガミルズは、あの王子の世話係が一人減ったことに肩を落としていた。
「何が起きているんだろうねえ」
「もう少し歩こうか、おばあちゃん」
「足が痛いけど、歩けるかねえ」
「休みながら行こう、おばあちゃん」
大隊長を先頭に、おばあちゃんの足に合わせた新たな部隊が荒野を踏み出した。
「何処に行くのね、お墓参りね」
違うよ、と言いながらヨヒシコは乳母車もこっちの世界に転移すれば良かったのにと思う。
おばあちゃんは棒を付きながら右の轍を摺足で進む。
「お墓参りもリウマチが痛いときは行けなくなったからねえ」
先程、何度目かの休憩で拾った棒切れがおばあちゃんの歩みを支えている事にヨヒシコは嬉しくなった。ハマーは夕方までに村に着くと言っていたが、それまで歩き続けるおばあちゃんを少しでも楽にしてあげたい。その思いがハマーや三名の兵士に言わずとも伝わったのか、それとも大賢者と呼ぶ者に対する尊崇なのかはまだ判らないが、周囲を警戒しつつも足先を見遣ったりおばあちゃんを気に掛けてくれている。
割と平坦な地形は幸いだが他に動く人の姿はない。自分達がどれ位ゆっくり歩いているのか分からなくなってくるが、おばあちゃんを急かすくらいなら野宿をしようと決めていた。
「済みませんねえ、あたしに合わせて貰って」
「いえいえ、中々の健脚でございますぞ」
大隊長のハマーは目を細めて返す。
太い声に立派な体躯の大男はそれに見合った馬を引きながら後ろを振り返った。他の兵士達よりも低く重い音を鳴らすプレートメイルの下には厚い筋肉を持っているのだろうと予想できる。この背にはおばあちゃんとは別の安心を感じる。
「この辺りから麦畑ですな」
言われて見ればそれまでに生えていた疎らな草木と違い、視界の左右から向かう先には青々しい植物が広がっている。全て高さが膝程に揃っており農業による物だと気付く。
風に煽られ傾いた陽光が文明を黄色に走った。
農民に於いても、とハマーが口を開く。
「諭吉先生は学問をすゝめられ、栽培や取引や法律に詳しくなった者が農村を治めたのです」
それまでは横暴な領主からは酷い搾取に合い、狡賢い商人には作物を法外な安値で買い叩かれ、土地が痩せると飢えるか盗むか、貧苦に耐える生活だった、と言う。
「今では栽培技術を工夫し、時期に合わせ多くの作物が作られています。手の空く時期は学塾で勉強会を開かれ、地主や商人とも交渉もします」
農村各地で民が知恵を出し合ったことで、農民の生活は豊かになり王国全体としても食糧供給が潤っている、とハマーは締め括った。
ヨヒシコは、今の話なら諭吉先生の偉業がもう一つ二つあるのではないかと予想した。
休耕期に学塾に通うなら、それが無かった頃は何をしていたのか。文化的な事ならまだ良いが、仕事も無く貧しく、悪さに走る者も居たので無いか。
「治安も良くなったんでしょうか」
と訊いてみる。
ハマーは一瞬だけ歩を止め振り返ると、まさに、と言い歩みを続ける。
「私は憲兵ではないので詳細は分かりませんが、当時の略奪や不正は目を覆う程であったと耳にします」
それに魔物、と続ける。
「不思議なことに、治世が及ぶと魔物も静かになるのです」
安全とは言い切れないので小まめな駆除の他、先程のような大きな部隊を出兵し定期的に討伐している、と慣れたように説明をする。
訓練を兼ねて、との言葉に違和感のような疑問を持ったが、隣を歩く兵士の愛嬌のある一言で直ぐに胸に落ちた。
「この辺りは国境から離れてますから安全ですよ」
ああ、人間同士の戦争もあるのか、と長くなった影が大隊長の膝の裏に架かる。
人間相手に剣を振るう時は、どういう気分なのだろうか。
「仲良しが一番」
おばあちゃんの呟きに夕陽からの風が村へと向かう。
「さあ、もう一踏ん張りですぞ」
ハマーは緩やかに続く上り坂、その道の先を指差した。