おばあちゃん、お茶を飲む
早馬が轍を鳴らす。
荒野を抜け、麦畑を駆け、村に到着したのは陽が傾いて少しの頃だった。
何事もなく着いた事に安堵して紫のローブの襟を伸ばす。
村に入ってすぐに、その光景に目を丸くした。駆け寄るハマーに、顔を引き攣らせる。
「兵士長も、何故ズボンをそんなに上げているのですか」
「腹が冷えないのですよ。ガミルズ殿も如何ですかな」
ガミルズは眉間を摘まみ無言を通すが、はっと気付きハマーの言葉を待つ。
「ええ。大賢者様のお姿を皆、真似ておるのです」
おばあちゃんが壺を覗く。
「梅酢が上がって来たねえ」
アイネは木匙で琥珀色の液体を掬うと、瞼を閉じて口に運ぶ。長い睫毛がぴくりと動いた。
「酸っぱい」
眉を顰め雀斑が痺れた様に震える。もぞもぞと舌を動かして息を吐き出した。
「蜜柑酢みたいに薄めて飲むの?」
「それも良いけど、あとひと月寝かせて実を日に干すんだよ」
ヨヒシコは木の板を組み、虫こぶのインクで黒く塗っていた。
畜舎の壁に使っていた古い板だが、使える部分を切って貰ったものだ。釘を使い箱を作り、隙間に蜜蝋を垂らして固める。蓋に錐で穴をあけ、革の切れ端を取り付けた。
不思議そうに見詰めるアイネ。
「何を作っているの?」
旨い事いったら良いんだけど、と返す。
大賢者様、と呼ぶ声が聞こえる。扉を開けると、懐かしい顔があった。
「お久し振りでございます、大賢者様」
ご機嫌麗しく、と丁寧に腰を折る。ヨヒシコは頭の中で賢そうな魔法使いと覚えていた。名前はガミルズだったか。ほんの四日前に会って以来なので懐かしむ程に何でもないが、この村に来て実際よりも長く暮らしている感覚を覚えた。
そのガミルズも王都で色々あったのだろうか。記憶よりも老けている気がする。
「先程、早馬で来られたのです」
ハマーが顔を出す。この二人が並びが、この世界にきて初めての人間との出会いだった。
「明日、王都より馬車が参ります」
ガミルズは淡々と続けた。
王都に戻り直ぐだった。王子はゴブリン大討伐の戦果を我が物の手柄にし、これは想定内だったが、大賢者の後継二人を捕らえてムッツ村に拘留した、と国王に報告したのだ。
偉大なる大賢者を検束した事に王は怒り、王子自ら謝罪し奉迎せよと王命が下ったのだと言う。
「つまりあの殿下が迎えに来ると」
アイネの淹れたお茶を囲み、居間に微妙な空気が漂う。
「失礼、問題はそこではありませんな」
ハマーが膝に目を落とす。
ガミルズは少し考えて口を漏らす。
「いえ、強ち間違いでもないかと」
言葉を選ぶようにおばあちゃんとヨヒシコを見据える。
「お二人は、王都へ行かれますかな」
おばあちゃんはお茶を啜った。
一同の耳が大賢者の返答を待つ。
「あたしは、難しい事は分からないけど」
おばあちゃんの眼が細くなる。
「この村が好きだよ」
アイネはおばあちゃんの手を握り、花の様に口元が綻んだ。
村長も同じ表情をしている。
「王都に行って、すぐに帰ってくる事は出来ないの?」
アイネの素朴な意見に、ガミルズとハマーは眉を伏せた。
「王都へ赴きますと陛下の指南係、若しくは王政の参謀役を任せられるかと」
「陛下は諭吉先生の教えに大変な翹望を寄せております」
「つまり、手元から逃さないと」
村長の的を射た所感に王国の二人は頷く。
「逆に殿下は先生の教えに、その、あまり関心がございません故」
「何が何でもお連れしようとするでしょうな」
おばあちゃんはただ黙ってお茶を啜っていた。
その日は寝付けなかった。
土壁を刳り貫いた窓から月が見える。
入ってくる風が少し暖かい。夏が来るのだろうか。
この村から出て行く。まるで想像もつかない。
おばあちゃんはどう思うのだろうか。
折角、おばあちゃんとの居場所を見つけた筈なのに。
この場所を無くしてはいけない。
ヨヒシコは、壁際の小机に置いた二つの箱を開けた。




