第1話 過労死したのに、また働けって言うんですか
俺の人生、最後の記憶は蛍光灯だった。
深夜三時のオフィス。
積み上がった書類。
三日ぶりに座った椅子。
「まだ終わってないのか」
上司の声が、やけに遠くで聞こえた。
キーボードに指を置いたまま、視界がぐらりと傾いた。
ああ、まずいな。
そう思ったのが最後だった。
*
次に目を開けたとき、天井が木だった。
蛍光灯じゃない。
染みのついた、古い木の梁。
俺はしばらく動けなかった。
(……ここ、どこだ)
体を起こす。
藁のベッド。
知らない部屋。
窓の外に、石畳の道が見えた。
馬車が通っていく。
本物の、馬の。
俺は自分の頬をつねった。
痛い。
夢じゃないらしい。
「あ、起きた!」
声のほうを向く。
女の子が立っていた。
茶色い髪を後ろで結んで、革の胸当てをつけている。
年は二十歳くらいか。
「よかったぁ。あんた、道端で倒れてたんだよね」
明るい声だった。
「あたしはアニカ。冒険者ギルドの受付やってるの。
あんた、名前は?」
「……三上、ハル」
「ミカミ? ハルでいい?」
「ハルで」
アニカはうなずいて、水の入った木のコップを差し出してきた。
俺は受け取って、飲む。
冷たい。
生きてる、と思った。
「あのさ」
俺は聞いた。
「ここ、どこ」
「ガレド王国のラーヴェンだよ。交易の街」
聞いたことのない名前だった。
日本じゃない。
たぶん、日本ですらない。
俺は自分の手を見た。
働きすぎて荒れていたはずの手が、少しきれいになっている気がした。
(過労死、したはずなんだけどな)
*
アニカは、この世界のことを少しずつ教えてくれた。
聞けば聞くほど、頭が痛くなった。
「この世界の人はさ、みんな『加護』を持ってるの」
「カゴ?」
「そう。生まれたときに神様がくれる力。
一人ひとつだけね」
アニカは自分の胸に手を当てた。
「あたしのは『健脚』。長く走っても疲れにくいの。
受付の仕事には地味に役立つんだ」
俺には、そんなものはない。
そう言おうとして、気づいた。
俺はこの世界で生まれていない。
「俺にも、あるのか。その加護」
「わかんない。でも、教会で調べられるよ。
気になるなら、行ってみる?」
正直、気にならないと言えば嘘になった。
異世界。
加護。
魔法みたいな力。
前世で漫画くらいは読んだ。
こういうとき、主人公はだいたいすごい力を持っている。
(俺も、何かあったりするのかな)
少しだけ、期待した。
このときの俺を、あとで殴ってやりたい。
*
教会は、石造りの静かな建物だった。
祭壇の前に、白い水晶が置いてある。
「これに手を当てるとね、加護が浮かび上がるの」
アニカが説明する。
俺は水晶に手を伸ばした。
冷たい。
すっと、指先から光が吸い込まれていく。
そして、水晶の表面に文字が浮かんだ。
読めた。
なぜか、読めてしまった。
そこにはこう書いてあった。
『残業無限』
俺は動きを止めた。
「……ざん、ぎょう?」
「ザンギョウ? 聞いたことない加護だなぁ」
アニカが首をかしげる。
俺は、聞いたことがあった。
いやというほど。
体に叩き込まれるほど。
祭壇の隅にいた、年老いた鑑定士がその文字を覗き込んだ。
「ほう……珍しい。効果はこう出ておる。
『疲労を感じず、眠気を感じず、空腹を感じず、休みなく活動を続けられる』」
鑑定士がのんびり続ける。
「加護は一人にひとつ。生涯、変わらぬものじゃ。
体力の消耗がないのじゃな。
まあ……戦う力ではなさそうじゃが」
俺は水晶を見つめたまま、動けなかった。
疲れない。
眠らなくていい。
腹も減らない。
いくらでも働ける。
しかも、生涯、変わらない。
(……は?)
頭の中で、上司の声が蘇った。
まだ終わってないのか。
あの声。
あの深夜。
あの椅子。
俺を殺したもの。
それが、力になって返ってきた。
「なあ、アニカ」
俺の声は、自分でも驚くほど低かった。
「この力、返品できたりする?」
「へ?」
アニカがぽかんとした。
できるわけがなかった。
*
教会を出て、俺は石段に座り込んだ。
日が傾いていた。
「元気ないね」
アニカが隣に座る。
「戦えない加護だから、がっかりした?
気にすることないよ。あたしだって戦闘系じゃないし」
違う。
そうじゃない。
俺は膝に肘をついて、顔を伏せた。
「俺さ、前にいたところで、働きすぎて死んだんだ」
言ってしまってから、変なことを口走ったと思った。
信じるわけがない。
でもアニカは、笑わなかった。
「……働きすぎて、死ぬの?」
「死ぬんだよ。人間は」
俺は空を見た。
見知らぬ星の位置。
知らない色の夕焼け。
「休めなくて、眠れなくて。
それで倒れて、そのまま」
隣で、アニカが静かになった。
しばらくして、ぽつりと言った。
「あたしね、昔、仲間を失くしたことがあるんだ」
俺は顔を上げた。
「無茶な依頼を、無理して受けさせちゃって。
休めば、って言えなかった。あたしが」
アニカは膝を抱えた。
「だからさ。あんたの話、笑えない」
俺たちはしばらく、黙って夕焼けを見ていた。
*
腹は減らない。
でも、金はない。
宿代もない。
現実は、感傷を待ってくれなかった。
「困ったな」
俺はつぶやいた。
過労死して、異世界に来て、また金の心配をしている。
笑えてきた。
「なあアニカ。俺、なにか稼げる仕事ないかな。
今日泊まるところもないんだ」
アニカが立ち上がった。
「あるよ。ちょうどギルドに、誰もやりたがらない雑用が溜まってて」
「雑用?」
「倉庫の整理と、荷物の仕分けと、書類の清書。
一週間分たまってるんだよね。みんな嫌がって」
一週間分。
普通なら、うんざりする量だ。
でも俺は、ふと思った。
疲れない。
眠らなくていい。
休みなく続けられる。
――いくらでも働ける。
呪いだと思った。
でも。
「それ、俺がやる」
「え、全部? 一週間分だよ?」
「うん」
俺は立ち上がった。
膝の埃を払う。
「まあ、やっとくか」
自分で言って、少し驚いた。
働くのは、あんなに嫌だったのに。
でも今は、宿代のためだ。
生きるためだ。
それに――
誰も、俺に「まだ終わってないのか」とは言わない。
*
ギルドの倉庫は、想像以上にひどかった。
木箱が山積み。
書類はぐちゃぐちゃ。
仕分け前の荷物が床を埋めている。
「うわ、これは……一週間じゃ終わらないよ、普通」
アニカが顔をしかめた。
「じゃあ、普通じゃない方法でやる」
俺は袖をまくった。
そして、動き出した。
日が落ちた。
ランプに火を入れる。
俺は手を止めなかった。
箱を運ぶ。
中身を分ける。
書類を並べ、清書する。
腕が痛くならない。
まぶたが重くならない。
腹も鳴らない。
前世なら、とっくに倒れていた時間。
でも、俺の体は動き続けた。
窓の外が、だんだん暗くなって。
そして――白んできた。
*
朝。
ギルドの扉が開いた。
アニカが入ってきて、そして固まった。
倉庫は、片づいていた。
木箱は整然と積まれ。
荷物は種類ごとに並び。
書類は、束ねられて机の上にあった。
一週間分が。
一晩で。
「……嘘」
アニカが口を押さえた。
「あんた、寝てないの?」
「寝てない。眠くないから」
俺は書類の最後の一枚を置いた。
「終わったよ」
アニカは倉庫を見回して、それから俺を見た。
「なにこれ……あんた、すごいよ!
こんなの見たことない!」
初めてだった。
働いたことを、こんなふうに言われたのは。
前世で俺が徹夜しても、返ってくるのは次の仕事だけだった。
胸の奥が、少しだけ、あたたかくなった。
(……悪くないな)
呪いだと思った力が。
誰かを、驚かせて。
喜ばせて。
俺は自分の手を見た。
荒れていない、この世界の手。
「なあアニカ」
「なに?」
「この仕事、もっとない?」
アニカは、ぷっと吹き出した。
「変なやつ! でも――助かる!」
朝の光が、倉庫に差し込んでいた。
過労死した俺の、二度目の人生。
その一日目が、終わった。
*
その日の昼。
アニカが真剣な顔で、俺のところに来た。
「ねえハル。あんたのその力さ」
彼女は少し言いにくそうに、続けた。
「困ってる知り合いがいるんだけど……
話、聞いてくれない?」
その名前を、俺はまだ知らない。
でもこの一言が、俺の二度目の人生を、
大きく動かすことになる。




