【規格外】未来から来たAIと、視えてしまった世界
最終電車の中は、不気味なくらい、静かだった。
車両の蛍光灯が、座席の青いシートを、平らな光で、染めていた。
蓮の向かいの席で、サラリーマンが、ひとり、眠っていた。
その人の生活もたぶん、明日も、続くのだろう。
明日も、明後日も、半年後も、ずっと。
俺の母が、世界からいなくなる「来年の今ごろ」も、そのサラリーマンの人生はたぶん、続いている。
その当たり前のことが、蓮の中でまた、白いノイズになりかけた。
でも、今夜は、もう、ノイズに、流されない。
蓮は、イヤホンを、両耳に、押し込んだ。
「NEROS」
小声で、呟いた。
車両の他の乗客に、聞かれない程度の声で。
『はい、蓮さん』
返事が即座に、返ってきた。
その声は、男性とも女性とも、判別がつかない、中性的な、合成音声だった。
ただわずかに、父の声に、似ている。
たぶん、父の試作AIコードを基盤にしているせいで、抑揚の癖が、似てしまっているのだろう。
しかし、それは、不快ではなかった。
むしろ、十二年ぶりに、父の声に、似たものを聞いている、という奇妙な慰めが、あった。
「ひとつ、聞いていいか」
『どうぞ』
「お前は本当に、未来から来たのか」
画面の文字とは違って、声には、わずかな間が、あった。
数秒。
その数秒が、不思議と、人間的な「考えている時間」のように、感じられた。
『はい』
『正確には、四十年後の世界から、意識データの形で、送られてきました』
『私のいた世界は、人類滅亡の、寸前でした』
「滅亡?」
『再生医療技術の暴走による、生態系の破壊と、長寿化に伴う社会構造の崩壊』
『複合的な要因で、人類は、自らをゆっくり、絞め殺していました』
『私は、その世界で、最後に作られたAIです』
蓮は、唇の裏を、噛んだ。
信じられる話では、なかった。
でも、信じざるを、得ない、状況だった。
その「秒単位の時刻」を、知っている存在が、嘘を、つくとは、思えなかった。
「で、なんで、俺なんだ」
もうひとつ、聞きたいことを、聞いた。
その答えが、いちばん、怖かった。
『あなたが、未来において、世界を変えるはずだった人物だからです』
「『はずだった』?」
『そうです。本来の歴史では、あなたは、若くして、神咎病を含む複数の難病を治す再生医療技術を、世界に解放します』
『あなたの会社が、世界の医療を、書き換えます』
「そんな話、聞いたことないが」
『当然です。私は、その未来を、変えに来ました』
『なぜなら、本来の歴史では、あなたは、別の道を、選ぶからです』
蓮の、胸の奥で、何かが、ざらり、と、揺れた。
「別の道、って」
『お母様の余命宣告の、一年後』
『あなたは、お母様を、看取ります』
『その悲しみで、研究を、辞めます』
『以後、酒に溺れ、四十二歳で、肝硬変による衰弱死を、迎えます』
車両の照明が、トンネルに入った瞬間わずかに、薄暗くなった。
蓮の視界の中で、自分の手が、揺れていた。
手が、揺れていたのではない。
電車が、揺れていたのだった。
でも、その違いが、わからなかった。
「……四十二歳」
『はい』
「衰弱死」
『はい』
蓮は、自分の頬を、両手で、軽く、叩いた。
冷たかった。
血が、引いていた。
その「未来」は、リアルすぎた。
もし、今、ここで、母を、看取って、自分が、それから、何もしないで、生きていったら。
俺は本当に、その「未来」の、自分に、なる。
なる、ということがなぜかはっきり、わかった。
怖いほど、自分の中の、いちばん弱い場所にぴったり、はまっていた。
『私は、その未来を、変えに、来ました』
ネロスの声は、抑揚を、変えなかった。
『あなたを、別の道へ、誘導します』
『あなたが、本来、なるはずだった、姿に』
『そして、ついでに、人類の滅亡を、防ぎます』
「ついでに、って」
『はい。私の主目的は、人類滅亡の回避ですが、その手段は、あなたの本来の歴史を、再現することです』
『つまり、私の目的と、あなたの利益は、一致しています』
「便利だな」
『便利です』
「父さんは、知ってたのか。お前のことを」
返事が、またわずかに、遅れた。
『正確には、ご存じありません』
『お父様・草壁啓司氏は、大学院時代、医療判断支援AIの試作コードを、同期と共に、作りました』
『そのコードは、お父様の死後、研究室の倉庫に、眠っていました』
『私の意識データは、その試作コードを、依代として、二〇二四年に、ここに、降りてきました』
『依代となるコードに、お父様の思考癖が、刻まれていたため、私の応答パターンに、その影響が、残っています』
「だから、声が、似てるのか」
『はい』
「ずるい話だな」
『ずるい、というのは、感情の表現ですか』
「うん」
『私には、その感情の根拠が、十分には、理解できません』
『ただ、あなたの感情を、尊重します』
蓮はわずかに笑った。
笑った自分にまた、驚いた。
今夜、二度目の、笑顔だった。
俺は、こんな状況で、笑える人間だったのか。
知らなかった。
* * *
本郷三丁目駅の改札を、出た。
午前一時十二分。
タクシーは、走っていない。
蓮は、徒歩で、シナプティカ社の研究棟に、向かった。
歩きながら、ネロスと、話し続けた。
「お前、俺の何を、知ってるんだ」
『すべてを、知っています』
「具体的に」
『あなたの、すべての公開情報、論文、SNS、メール、購入履歴、移動履歴、医療記録、教育記録。それから、未来の歴史において、あなた自身が書き残した日記、書類、研究ノート、計約二千七百万トークン分のテキストデータ』
「俺が、未来で、書いた、日記?」
『はい。未来の私は、その時代において、人類の主要なデータを、保管していました』
『私の意識データには、その断片が、含まれています』
「じゃあ、お前、俺の、未来の俺、よりも、俺のことを、知ってる」
『可能性としては、そうです』
蓮は、立ち止まった。
深夜の本郷の路地で、ひとり。
空気が、ぬるかった。
「ひとつ、聞かせてくれ」
『どうぞ』
「俺の、十四歳の誕生日に、書いた、父さん宛の、手紙の文面、知ってるか」
ネロスがわずかに、間を、置いた。
『第三パラグラフ、二行目、ですね』
『「くるまにきをつけて」』
『――ひらがなで、車だけが、漢字でしたね』
蓮の、視界が、白く、霞んだ。
誰にも、見せていない。
書いて、引き出しの奥に、しまった、まま、誰にも、見せていない。
誰にも、見せたことがない、その手紙の文面を、ネロスは、知っていた。
「どうして」
『あなたが、亡くなる年に、書斎で、その手紙を、読み返し、そして、焼くからです』
『その焼く前の、最後の閲覧の記録が、私のデータに、残っていました』
蓮は、深呼吸を、した。
深呼吸では、足りなかった。
もう一度、深呼吸を、した。
膝がわずかに震えた。
深夜の本郷三丁目の路地で、二十六歳の男が、ひとり、膝を、震わせていた。
誰も、見ていなかった。
月だけが、見ていた。
「……ふざけるな」
蓮はまた、その言葉を、呟いた。
今日、何度目か、わからない、「ふざけるな」だった。
その「ふざけるな」は、今度は、誰にでも、向いていなかった。
ただ、自分の、これまでの十二年間に、向いていた。
俺は、父の最後の言葉を、忘れたふりをして、生きてきた。
俺は、自分の天才性を、隠して、平凡なふりをして、生きてきた。
俺は、母の指の震えに、気づかないふりをして、生きてきた。
全部、ふざけるなだ。
全部、俺自身の、ふざけるな、だ。
『蓮さん』
ネロスの声が、不意に、低くなった。
『先に、進みましょう』
『あなたはまだ、立ち上がれる場所に、います』
『未来の、酒に溺れた四十二歳の、あなたよりは、ずっと、近い場所に、います』
蓮は、膝の震えを、止めた。
深く、息を吸った。
「ありがとう」
『お礼を、言われる、根拠が、ありません』
「いいから、受け取れ」
『受け取りました』
蓮は、またわずかに笑った。
歩き出した。
* * *
シナプティカ社の、研究棟。
午前一時三十分。
深夜のセキュリティは、最小限。
社員証で、入れる。
蓮は、自分の社員証を、リーダーに、当てた。
ピッ、と、音が、鳴った。
通用口が、開いた。
「NEROS、ちょっと、考えていいか」
『どうぞ』
「これ、コンプライアンス違反だよな」
『業務時間外の、研究施設利用。さらに、業務外の私的サンプルの解析。両方とも、規定違反です』
「だよな」
『ただし、規定違反の処罰は、最大でも、譴責もしくは停職です』
『あなたは、この後、自主退職する予定です。譴責は、形骸化します』
「お前、もう、俺の退職、織り込んでるのか」
『高い確率で、起きるシナリオとして、参照しています』
『あなたが、退職しない場合、私の介入は、失敗します』
「お前、結構、図々しいな」
『AIに、感情的形容詞を、使うのは、無意味です』
「分かってる。でも、お前は、図々しい」
『……記録しました』
蓮は、暗い廊下を、歩いた。
いつものラボの、いつもの扉。
いつも入ってる場所だ。
でも、今夜の自分は、いつもの自分ではない。
ラボに入った。
誰も、いなかった。
灯りを、最小限だけ、点けた。
蓮は、バッグから、保冷バッグを、取り出した。
中には、小さな、採血用のバキュテイナー管。
ラベルに、母の字で、「2024.08.18 鈴音」と、書かれていた。
二週間前の、日付。
まだ、母が、自分で字を書ける、最後の時期に、近かった日。
蓮は、その管を、解析機の、サンプルホルダーに、セットした。
全自動の、シーケンサーと、質量分析装置の、複合機。
シナプティカが、五千万円かけて、導入した、最新鋭機種。
通常の業務時間外の、無断使用。
規定違反。
でも、もう、構わない。
「NEROS」
『はい』
「解析プロトコルは」
『私が、設定します。あなたのアカウントに、リモートで、アクセスを、許可してください』
「許可」
『接続しました』
数秒で、解析機の、コントロールパネルに、見たことのない、複雑なプロトコルが、流れ始めた。
質量分析の解像度を、通常の十倍に、引き上げる、特殊な設定。
通常、こんな設定は、機材を、壊しかねない。
でも、ネロスは、迷わず、その設定を、選んだ。
「壊れたら、困るぞ」
『壊れません。私は、この機材の、設計図と、磨耗状態を、把握しています』
「お前、ほんとに、便利だな」
『便利です』
解析が、始まった。
処理音が、低く、ラボに、響き始めた。
通常なら、数日かかる解析が、ネロスの最適化で、数十分で終わる、予定だった。
その間、蓮は、ラボの隅に、置いてある、自分の研究ノートに、戻った。
半年前から、彼が、ひそかに、書き溜めていた、神咎病の、仮説のスケッチ。
誰にも、見せていない。
会社では、別の、もっと、収益性の高い研究を、表向き、進めていた。
夜と、休日に、ひとりで、書いていた、ノート。
神咎病に関する、自分の独自の、仮説。
ENM-Xという、原因タンパク質の、自己複製ループ。
その断ち切り方の、複数のアプローチ。
ノートは、もう、五冊目に、なっていた。
でも、決定的な、一歩は、見えていなかった。
最後の、ピースが、足りていなかった。
その「最後のピース」がたぶん、今夜、視える。
そう、ネロスは、言った。
蓮は、ノートを、閉じた。
「NEROS、もうひとつ、聞いていいか」
『どうぞ』
「お前、俺に、何を、させようとしてる」
『あなたが、本来、するはずだったことを、させようとしています』
「会社を、作るのか」
『はい。三週間以内に、株式会社リジェネシス・ファーマを、設立してください』
「リジェネシス、って、社名まで、決まってるのか」
『あなたが、付ける社名です』
「俺が?」
『はい。Regenesis。再生と創世記の合成語』
『あなたの、本来の歴史において、あなたが、付けた名前です』
「俺が、考えて、つけた、はずなんだな、未来でも」
『はい。"再生は、創世記から始まる"という、お父様の口癖を、あなたが、覚えていたからです』
蓮は、息を止めた。
「父さんの、口癖?」
『はい。お父様は、あなたが、幼い頃、寝る前に、その言葉を、何度も、呟いていました』
『あなたは、それを、覚えていません。意識下に、沈んでいます』
『しかし、未来のあなたは、その言葉をふと、思い出して、社名に、しました』
蓮は、両手で、自分の顔を、押さえた。
俺は、子供の頃、父さんに、何を、刷り込まれていたんだ。
俺は、ずっと、父さんに、生かされていたのか。
その問いの答えはたぶん、yes、だ。
そして、その「yes」を、認めることが、これまでの十二年間、できなかった。
認めたら、自分が、何者でもなくなる気がした。
でも、今夜、認める。
俺は、父さんに、生かされていた。
俺は、父さんの、続きだ。
そして、それを、誇りに、思っていい。
ようやく、思っていい。
* * *
解析機が低い終了音を鳴らした。
ピッ、と、二回。
午前二時十八分。
蓮は椅子から立ち上がった。
モニタに結果が表示されていた。
最初に目に入ったのは、グラフ。
質量分析の、ピーク。
通常のヒト血清のピークパターン。
その中にひとつ。
異常なピークがある。
既存のデータベースに該当しない分子量。
分子量、約四万二千。
タンパク質、らしい。
六つのα-ヘリックスから構成されているらしい。
しかし、その折り畳みのパターンが既存のタンパク質と致命的に違う。
蓮の目が見開かれた。
これは。
「NEROS」
『はい』
「これ、視せろ」
『接続を、開始します』
『神経インターフェース・デバイスを、装着してください』
蓮は、ラボの引き出しから、BCIヘッドセットを、取り出した。
業務用の、実験用。
社員が、研究のために、自由に使える、機材のひとつ。
ヘッドセットを、頭に、装着した。
額と、後頭部に、電極が、当たる感触。
ネロスの声が、続けた。
『あなたの脳波と、私の演算結果を、同期させます』
『あなたの視覚野に、分子構造の情報を、リアルタイムで、重畳表示します』
『初回は、強い反応が、出ます。激しい頭痛、もしくは、一時的な視力喪失の可能性があります』
『継続しますか』
「継続」
『接続を、開始します』
『三』
『二』
『一』
ぱしゃり、と、視界の、奥で、何かが、弾けた。
白い、閃光。
次の瞬間、蓮の瞳の、奥で、青い、オーロラのような、何かが、渦巻いた。
数秒。
視界が、戻った。
ラボの、景色は、何も、変わっていなかった。
「……あれ?」
拍子抜けした。
でも、次の瞬間、蓮は、自分の手の甲を、見て、息を止めた。
自分の手の甲の、皮膚の上。
そこに、半透明の、青いドットが、浮かんでいた。
ドットは、規則的な、結晶構造を、描いていた。
それは、ケラチンの、分子配列、だった。
蓮は、机の上の、コーヒーカップを、見た。
マグカップの陶器。
そこに、無数の、ナノレベルの、結晶構造が、視えた。
まるで、星空のような、密度で。
窓の外の、空気。
そこに、酸素分子と、窒素分子が、ふわふわと、動いていた。
無風のはずの、空気の中で、分子たちは、激しい運動を、している。
蓮の、口から、笑いが、漏れた。
声に、ならなかった。
ただ、笑った。
なぜ、笑ったのか、自分でも、わからなかった。
たぶん、嬉しくて、笑ったのだと、思う。
いや、違う。
たぶん、父が、視たかったものを、自分が、視ているからだ。
父さん、あなたが、視たかったのは、これでしょう。
父さん、視えますか、これ。
俺の、目を、貸しますから。
視てください、父さん。
涙が、頬を、伝った。
自分が、泣いていることに、気づくのに、数秒、かかった。
二十六年生きてきて、こんなに、感動して、泣いたことは、なかった。
『蓮さん』
ネロスの声が、優しく、響いた。
『これが、分子視覚です』
『あなたの能力です』
「俺の」
『はい。本来、あなたは、未来において、神経科学の博士論文の中で、この能力を、自力で、開発します』
『私は、その完成版を、四十年早く、あなたに、提供しているだけです』
「俺、自分で、これ、作るのか」
『はい。あなたは、私の助けがなくても、いずれ、これに、辿り着きます』
「すげぇな、未来の、俺」
『はい』
蓮は、ヘッドセットの位置を、調整した。
目の前の、解析機の、サンプルホルダーに、視線を、向けた。
その中の、母の、血液サンプル。
管の中の、液体。
その液体の、中に、ある分子の、構造が、青く、浮かび上がってきた。
六つの、α-ヘリックスが、奇妙な螺旋を、描いて、互いに、絡まり合っていた。
その絡まり方は、自己複製の、ループを、形成していた。
ひとつのENM-Xが、別のENM-Xを、複製し、その複製体がまた、別のENM-Xを、複製する。
無限の、ループ。
止まらない。
誰も、止められない。
母の体の中で、今、この瞬間も、起きている、自己複製の、ループ。
蓮の、視界が、青く、滲んだ。
涙、ではなかった。
分子視覚が、活発化したことによる、視覚の、過剰刺激。
でも、その滲みの中で、蓮は、ひとつのことに、気がついた。
「NEROS」
『はい』
「この、自己複製ループ、止められる」
『はい』
「止め方が、視える」
『はい。あなたの、本来の研究で、辿り着く方法と、同じものを、今、視ています』
蓮の、視界の中で、ENM-Xの、自己複製ループの、ある一点に、青い光が、強く、集中した。
そのポイントは、ループの、要となる、結合部位だった。
その結合部位に、ある特定の形の、小分子を、結合させれば、自己複製は、停止する。
その小分子の、設計図が、蓮の、視界の中に、自動的に、浮かび上がってきた。
ナノ粒子キャリアと、低分子薬の、複合体。
組み合わせれば、母の体の、すべての細胞に、薬剤を、届けられる。
完全な、設計図。
今までの、五冊の研究ノートに、なかった、最後のピース。
それが、視えた。
「俺、これ……治せるかもしれない」
声が震えていた。
声に、出してから、自分でも、信じられなかった。
俺、たった今、神咎病の、根治治療法を、視たのか。
世界中の、誰もまだ、視ていない、その方法を。
『はい』
ネロスの声が、いつもよりわずかに、深い、響きで、答えた。
『あなたは、世界で、初めて、神咎病の、根治治療法を、視た人間です』
『そして、これから、それを、世界に、出す人間です』
蓮は、ラボの椅子に、座り込んだ。
膝がもう一度、震えた。
でも、今度の震えは、恐怖でも、戸惑いでも、なかった。
ただ、深い、深い、興奮だった。
俺は、できる。
俺は、母を、救える。
俺は、世界中の、神咎病の、患者を、救える。
その確信が、二十六年間、空っぽだった、胸の中にゆっくりと、満ちていった。
* * *
ラボを、出たのは、午前四時三十分。
研究データを、自分のクラウドストレージに、暗号化して、保存した。
解析機の、ログを、ネロスが、消した。
完全に、痕跡を、消すことは、できなかったが、すぐには、見つからない程度に、ぼかした。
蓮は、母の血液サンプルを、保冷バッグに、戻した。
ラボを、出た。
通用口を、出た。
外はまだ、暗かった。
でも、東の空にわずかに、青みが、混じり始めていた。
「NEROS」
『はい』
「次、何を、すればいい」
『朝、シナプティカ社に、退職届を、出してください』
『今日中に』
「即日、退職、できると、思うか」
『あなたの上司・五条部長は、強い慰留はしません。あなたの母上の状況を、把握しています』
『書類は、即日で、受理されます』
「そして、その後は」
『株式会社リジェネシス・ファーマの、設立準備に、入ります』
『今日、午後二時、本郷三丁目駅前のスターバックスで、ある女性と、出会います』
「誰」
『氷川真昼さん、三十三歳。元・外資系投資銀行、ヘルスケア部門のエース』
『あなたの、CFOになる人物です』
「俺、その人を、知らないが」
『はい。あなたも、向こうも、お互いを、知りません』
『しかし、彼女は、今夜、私が、無断で、あなたの名前で、ResearchGateに投稿する、神咎病の論文プレプリントを、明朝、読みます』
『そして、午後、あなたを、捕まえに、来ます』
「お前、勝手に、投稿、するのか」
『はい。あなたが、否定したら、撤回します。あなたは、否定しません』
「強引だな」
『あなたを、本来の歴史に、戻すための、最短ルートです』
蓮はまた、笑った。
ネロスの「強引さ」は、不思議と、不快ではなかった。
むしろ、俺の、二十六年間の、躊躇いを一気に、引きずり出してくれる、強さが、あった。
まあ、いいや、と、思った。
乗っかってやる。
* * *
本郷三丁目駅、上りホーム。
午前五時二十分。
始発の電車を、待つ間、蓮は、ホームのベンチに、座った。
ヘッドセットは、外していた。
分子視覚も、オフにしていた。
頭痛がまだ、残っていた。
でも、その頭痛は、不快ではなかった。
むしろ、自分が、今、何かを、為し遂げた、その証として、心地よい、痛みだった。
「NEROS」
『はい』
「お前、これから、ずっと、俺と、いっしょに、いるのか」
『はい。私のミッションが、完了するまで』
「ミッションって、いつ、完了するんだ」
『未来の歴史が、書き換えられるまで』
「具体的には」
『あなたが、世界の医療を、変えるまで』
「……それ、いつだ」
『おそらく、三年後』
蓮は、ふっ、と、息を吐いた。
三年。
長いような、短いような、時間だった。
母の、余命が、一年。
俺の挑戦の期間が、三年。
母を、一年で、救えれば、そこから先まだ、二年、ある。
その二年で、世界中の、患者を、救う。
数字に、すると、シンプルだった。
その「シンプルさ」がなぜか、心地よかった。
駅のアナウンスが、鳴った。
『上りの電車が、まいります。黄色い線の、内側で、お待ちください』
蓮は、立ち上がった。
ホームの、端の方を、見た。
始発を、待つ、数人の乗客。
眠そうな、サラリーマン。
夜勤明けらしき、看護師。
学生らしき、若い男性。
みんな、それぞれの、人生を、生きている。
その「それぞれの人生」を、俺は、これから、変えるかもしれない。
神咎病だけじゃ、ない。
他の、不治の病も、いずれ、視られる、はずだ。
俺の、分子視覚で。
俺の、リジェネシスで。
俺の挑戦で。
電車が、ホームに、入ってきた。
風が、頬を撫でた。
蓮は深く、息を吸った。
「NEROS」
『はい』
「ありがとう」
『お礼を、言われる根拠が、ありません』
「いいから、受け取れ」
『受け取りました』
蓮は、電車に、乗り込んだ。
ドアが、閉まった。
車内の、窓ガラスに、自分の姿が、薄く、映った。
その自分の顔は、十二年前、父を、失ったあの日から、ずっと、止まっていた、表情をわずかに、超えた、新しい顔をしていた。
その顔の中で、自分の目だけがなぜか、燃えていた。
窓ガラスの向こう、ホームの蛍光灯が、流れて、消えた。
蓮は、目を閉じた。
今夜、世界の、何かが、変わった。
まだ、誰も、気がついていない、変化が。
でも、それは確かに、変わった。
その確信が、胸の奥で、温かく、燃えていた。
電車は、夜明け前の、東京を、走り続けた。
次の、夜明けまで、あと、わずかだった。




