【絶望】余命一年、不治の病
南雲医師の指先が、白いフォルダの端でコツコツと音を立てていた。
草壁蓮は、その指先だけを見ていた。
火曜日、午後三時十七分。本郷の大学病院、神経内科の診察室。空調の風が医師の頭上で低く唸っている。窓のブラインドの隙間から白く強い日差しが差し込んで、机の上の問診票を一本の線で切り裂いていた。
その線の上で、医師の指はまだ止まらない。
コツ、コツ、コツ。
止まれ、と蓮は思った。
止まらないでくれ、とも同時に思った。
止まったら、何かが始まってしまう。
「お母様の検査結果ですが」
南雲医師の声が、いつもより半オクターブ低く感じた。五十代の温和な、本来は穏やかな声だ。
その声を、蓮はもう一年近く聞いている。
最初は風邪のあとの長引く倦怠感だった。次は、お箸を取り落とすこと。それから、階段を二段踏み外したこと。そしてある朝、母がピアノの前で自分の指を見つめてひとり笑った日。
精密検査。再検査。さらに別の専門医。
病名はずっとつかなかった。
今日、ようやくつく。
「お母様のご病気は」
南雲医師はフォルダを開いた。
「――エンドレス・ミオセル変性症候群」
医師はわずかに息を吐いた。
「通称『神咎病』です」
隣で妹の詩織が、小さく息を呑む音がした。
医学生だから、その名前の意味を知っている。
蓮は振り向かなかった。振り向いたら詩織の表情を見てしまう。見たら、自分の中の何かが決壊する気がした。
だから蓮は、ただ医師の指先を見ていた。
「現代医学では、治せません」
南雲医師はその言葉を、できるだけ事務的に発音しようと努めて、失敗していた。
「進行抑制薬を継続することで、おそらく一年。良くて十八か月です」
蓮はふと、机の上のコーヒーカップの湯気を見た。
ゆらゆらと立ち上って消えていく、白い湯気。
その湯気が、母の余命と同じ形に見えた。
そのことに、蓮自身が一番驚いた。
――ああ、俺は今、たとえようとしている。
たとえようとできているということは、まだ感じていないということだ。
感じてしまったら、立てなくなる。
だから蓮は、たとえ続けることに決めた。
「――進行抑制薬は『ミオレスタ・ネオ』」
南雲医師の声が続いている。
「月額八十万円。保険適用で実質負担はその半分です。神咎病に対しては、これが唯一の選択肢になります」
月額四十万円。
年間四百八十万円。
二十年で九千六百万円。
数字が勝手に蓮の頭の中で組み上がっていく。
それで、治らない。
蓮の隣で、母がふっと小さく笑った。
「――先生、ありがとうございます」
草壁鈴音、五十八歳。元小学校の音楽教師。
「蓮、詩織。もう泣かないで」
母はいつもの穏やかな声でそう言った。
蓮の喉の奥で、何かがひとつ潰れた。
詩織が震える声で応えた。
「お母さん、何も泣いてないでしょ」
「あら、そう?」
母は首をかしげた。
「……あなたたちが泣きそうな顔をしているから、つい」
蓮は思い出した。
十七年前のあの日も、母は同じ顔をしていた。
父が亡くなった日。父の遺体が運ばれてきた、その時。
母はまず、自分の頬を片手で押さえてこう言ったのだ。
「あなたたちが泣きそうな顔をしているから、私、泣けないわね」
あの時、蓮は十四歳だった。
今、二十六歳。
時間というものは、本当は何も解決していない。
ただ、傷の上に傷を重ねていくだけだ。
医師の指はまだ、机の端で止まっている。
止めてしまった。蓮が止めてしまった。蓮が「先生、ありがとうございます」と言うのを、医師は待っている。
言わなければならない。
蓮は声を出そうとした。
喉が動かなかった。
代わりに隣で、母が深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
ピアノを弾くように深く丁寧に、母は頭を下げた。
蓮は視線を、母の左手に移した。
その手は机の縁を、震えながらつかんでいた。
その指はもう、長くはピアノを弾けない。
――ふざけるな。
蓮の胸の奥で、初めて声が生まれた。
ふざけるな。
ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。
誰に向けたかもわからない怒りだった。
でもたぶんそれは、世界という名の空気そのものに向けた怒りだった。
* * *
病院の自動ドアがシュッと開いた瞬間、八月の熱気が頬を平手打ちのようにぶった。
蓮と母と、そして詩織。
三人は横一列で歩道に出た。
誰も何も言わなかった。
言ったら、何かが決まってしまう。
詩織が不意に立ち止まった。
そして歩道の植え込みのほうに背を向けて、しゃがみ込んだ。
両手で顔を覆った。
声は出さなかった。
ただ、肩が震えていた。
母が無言で、詩織のそばにしゃがんだ。
母の指が、詩織の背中を撫でた。
ぎこちなく、震えながら撫でた。
その手を見て、蓮はようやく思った。
俺の母は、自分の余命をたった今宣告された人間だ。
その人が今、自分の娘の背中を撫でている。
俺は、何をしているんだ。
蓮は自分のスマホを、ポケットから取り出した。
職場のラボにメッセージを打った。
『今日は戻れません』
指は震えていなかった。
そのことが、自分でも信じられなかった。
送信。
ポケットにスマホを戻す。
通りすがりのコンビニから自動ドアが開いて、店内のラジオが一瞬だけ漏れた。
誰かの明るい歌が流れていた。
世界は何ひとつ変わっていなかった。
俺の母がこれから一年で死ぬということを、世界は知らない。
知らないまま、回り続ける。
その当たり前のことが、蓮の中で白いノイズになった。
怒りでも悲しみでもなかった。
ただの白いノイズだった。
「――蓮」
母が振り返って言った。
「タクシー、呼んでくれる?」
「うん」
蓮は頷いた。
声は、自分でも驚くほど平らだった。
* * *
その夜、実家のダイニングには、三つの茶碗が並んだ。
父が亡くなって十七年。
母はずっと、四つ目の茶碗を置かなかった。
蓮はその理由を聞いたことがない。
優しさなのか、諦めなのか。
聞いたらたぶん、母は笑ってこう答える。
「だって、四つ並べたら、お父さんが帰ってこないみたいでしょう」
母の論理はときどき、世界中のどんな論理よりも強い。
夕食はいつもの献立だった。
だし巻き卵、ほうれん草のおひたし、味噌汁、ご飯。
卵焼きは少しだけ、いびつな形をしていた。
母の指が、卵を割るときに震えたからだ。
蓮は視線を逸らせなかった。
逸らせなかった自分のことも、嫌いになった。
「美味しい」
蓮は一回だけそう言った。
詩織は無言で、ご飯を口に運んでいた。
たぶん、味はしなかったと思う。
「ねえ、蓮」
母が不意に箸を置いて言った。
「お父さんの命日、来週でしょ。お墓、行こうね」
「うん」
蓮は頷いた。
父の命日は九月十四日。あと十一日。
あの日も、夏の終わりかけの日だった。
あの日、蓮は父に電話をかけていた。
父は在宅医療を専門にする、町の医師だった。
「今日は夜勤明けで疲れてるから、来週また帰るよ」
受話器の向こうで、父はそう言った。
蓮は十四歳で、無邪気だった。
「来てよ」
そうせがんだ。
「父さん、今日来てよ。母さんが、夕飯楽しみにしてるから」
父は笑った。
「わかった。すぐ行く」
それが最後の言葉だった。
父は急ぐために、別のルートを選んだ。
そのルートでトラックとぶつかった。
即死だった。
蓮は十四歳のあの日から今日まで、ずっとある問いを抱えて生きている。
あの日、自分が「来てよ」と言わなければ、父さんは死ななかったのではないか。
誰にも相談していない。
誰に相談すればいいかも、わからなかった。
「あのね、二人とも」
母が再び口を開いた。
その声はいつもより、ほんの少しだけ低かった。
「お母さんね、今日言われたこと、もう知ってたの」
詩織が箸を止めた。
「えっ?」
「自分の体はわかるの」
母は笑った。
「だから、もういいの。ちゃんとした薬があるんでしょう? それで充分」
蓮は自分の茶碗を、ゆっくりと机に置いた。
手が震えなかった。震えるべきだろう、とも思った。
俺は、何をしているんだ。
「母さん」
蓮は口を開いた。
「うん?」
「それは違う」
自分の声が、思ったより低く出た。
母は少しだけ目を見開いた。
「あら」
「『充分』ってことは、ない」
蓮の口は、勝手に動いていた。
「俺は、それを認めない」
詩織がこちらを見た。
その目にはもう、涙はなかった。
ただ戸惑いと、わずかな何か別のものが混じっていた。
兄が家族の前で、こんなふうに声を強くしたのはたぶん、初めてだった。
「蓮」
母は笑顔を崩さなかった。
「あなたが、お母さんのために怒ってくれるの、嬉しい」
「俺、怒ってる」
「うん」
「めちゃくちゃ怒ってる」
「うん」
「ふざけるなって、思ってる」
「うん。お母さんもね、ふざけるなって、本当は思ってる」
母は自分の左手を、右手でそっと覆った。
震えを隠した。
「でもね、ふざけるなって言ったらたぶん、もっと悲しくなるの」
蓮は何も言えなくなった。
母は自分の感情の処理の仕方を、十七年かけて身につけてきた。
俺はその横で、何をしてきたのか。
答えは明確だった。
何もしてこなかった。
ただ、安全な研究室で安全な研究を続けてきた。
自分の天才性を誰にも見せないように、ひっそりと平凡なふりをして。
なぜか。
怖かったからだ。
父のように、何かを本気でやってしまうのが。
本気でやって、また誰かを失うのが。
* * *
深夜零時、蓮は自分の旧い部屋でダンボールを引き出していた。
押し入れの一番奥。
ガムテープはもう黄ばんでいた。
中身を、母は捨てなかった。
父の遺品の一部だ。
古い白衣、聴診器、医学書、学会誌、診察記録の一部。
そして、いくつかの手書きのノート。
蓮はその中の一冊を手に取った。
表紙に、父の几帳面な字で書かれていた。
『臨床と倫理 1998-2007』
二十年近く前のノートだ。
蓮はベッドに座り込んだ。
ぱらぱらとめくった。
数式、患者ケースの記録、論文の抜粋、海外の学会の発表メモ。
父の字は几帳面で、ひとつひとつが丁寧だった。
その字を、蓮は十二年ぶりに見た。
胸の奥で何かが温かくなって、同時に冷たくなった。
父さん。
ノートの最後のページにたどり着いた。
ボールペンで走り書きされた、数行。
日付は二〇〇七年九月十一日。
父が亡くなる三日前。
蓮はその文字を読んだ。
最初、意味がわからなかった。
二度読んだ。
三度読んだ。
四度目でようやく、息が止まった。
『治る薬は、誰の利益にもならない。
製薬企業の収益にも、
医師の評価にも、
保険制度の安定にも、
何ひとつ寄与しない。
だから、誰かが作らなければならない。
誰の利益にもならないものを、
誰かが作らなければ、
世界は終わらないだけで、
永遠に進まない。
――Ren、もしお前がこれを読む日が来たら。
俺はお前を誇りに思う。
俺がやれなかったことを、お前はやってくれ。
ただし、家族を置いていくな。
俺の最大の後悔だ。』
蓮はノートを閉じた。
すぐにまた開いた。
もう一度、最後のページを確かめた。
間違いなく、そこに父の字で書かれていた。
「Ren、もしお前がこれを読む日が来たら」
蓮、と書かれていた。
俺の名前だ。
父は二十年前のあの日、このノートを俺がいつか読む、と知っていた。
いや、知っていたわけではない。
願って書いた、ということだ。
息子がいつか自分の遺志を継ぐ日が来るかもしれない、と。
父さん。
俺、二十六歳になったよ。
あなたが亡くなったときと、十二年差。
あなたは四十歳だった。
俺はまだ何もしていない。
あなたが何をしようとしていたか、わかった。
でも、それを俺ができるとは思えない。
俺はあなたじゃない。
あなたみたいに本気で戦えない。
戦ったら、また誰かを失う気がする。
たとえば、母さんを。
たとえば、詩織を。
俺は卑怯者だ。
わかってる。
でも、卑怯者として生きるしかなかった。
ごめん、父さん。
俺はたぶん、あなたの息子じゃなかった。
蓮はノートを膝の上に置いたまま、長い間動かなかった。
窓の外、夜空。
遠くで飛行機が点滅しながら横切っていく。
その点滅がなぜか、心臓のリズムに似ていた。
時計が零時二十七分を指していた。
蓮はベッドの上に仰向けに転がった。
天井を見た。
子供の頃と同じ天井だった。
ここで、俺は父の帰りを待っていた。
ここで、俺は父の死を知った。
ここで、俺はずっと、自分の天才性を隠して生きてきた。
眠れる気がしなかった。
蓮はポケットからスマホを取り出した。
母の病気について、検索を始めようとした。
すでに何百回も検索したはずだった。
神咎病。
エンドレス・ミオセル変性症候群。
ENM-X。
何度検索しても、結論は同じだった。
不治の病。
治療法、なし。
進行抑制薬、唯一。
画面に検索結果がずらりと並ぼうとした。
その瞬間だった。
画面が暗転した。
いや、暗転ではない。
黒い背景に変わったのだ。
検索結果でも、ロック画面でもない。
ただの、真っ黒な画面。
その中央に、白い等幅フォントで、文字がひとつずつ現れた。
まるで誰かが、その場でタイプしているように。
『初めまして、草壁蓮さん』
蓮は息を止めた。
スマホを両手で握り直した。
画面の文字は消えなかった。
むしろ、次の行が現れた。
『私はNEROS』
ネロス。
何のアプリだ。
蓮は画面をスワイプしようとした。
反応しなかった。
ホームボタンを押した。
反応しなかった。
電源ボタンを長押しした。
反応しなかった。
スマホはただ、黒い画面の上に白い文字を淡々と打ち続けた。
『あなたが30年後に発明するはずだったAIです』
蓮の指がようやくわずかに震えた。
『あなたのお母様の余命を、私は1年と340日まで延ばすことができます』
『ただし、その後の延長は、あなた次第です』
蓮はスマホをベッドに放り投げた。
深く息を吸った。
吐いた。
ベッドにスマホは、画面を上に向けたまま転がっていた。
その画面の中で、白い文字がまだ続いていた。
『驚かれて当然です』
『私はあなたの反応を想定していました』
『証拠を提示します』
蓮はベッドの端で、両手で頭を抱えた。
悪戯。
詐欺アプリ。
誰かのハッキング。
いくらでも説明はつく。
でも、説明がつくたびに、別のもっと説明のつかない感覚が胸の奥で膨らんだ。
俺の名前をフルネームで知っている。
俺の母の余命を日数単位で知っている。
俺が今、神咎病を検索したことを知っている。
いや、それくらいならハッキングでできる。
できるはずだ。
でもなぜか、胸の奥で別の、もっと低い震えが始まっていた。
蓮はスマホをもう一度手に取った。
画面の文字は続いていた。
『あなたのお父さん、草壁啓司氏の事故死の日付:2007年9月14日 17時22分』
蓮の視界が揺れた。
二〇〇七年九月十四日、午後五時二十二分。
その時刻は警察すら、正確には特定していなかった。
現場の目撃者の証言と車載カメラの記録から推定された時刻は、「五時二十分前後」だった。
「二十二分」という秒単位の精度を、家族は警察から聞かされていない。
俺と母しか知らないことがある。
それは、父の腕時計だ。
父の遺体と一緒に戻ってきた腕時計は、衝撃で止まっていた。
針が止まっていたその時刻が、五時二十二分だった。
その腕時計は、母が今も自分のクローゼットのいちばん奥にしまっている。
誰にも見せていない。
俺と母だけが知っている時刻。
その時刻が、画面にある。
蓮は唇を噛んだ。
唇の中で、何かが潰れた。
もう、これは悪戯ではない。
スマホの画面がまた、次の行を打った。
『信じる準備ができましたか』
蓮はベッドの上で正座した。
なぜ正座なのか、自分でもわからなかった。
なぜか、そうしなければならない気がした。
画面に両手の指で、震えながら文字を打ち込んだ。
ひらがなでゆっくりと。
『……あなたは、誰だ』
送信されたのかどうかすら、わからなかった。
ただ、スマホの画面の上で白い文字がわずかに間を置いた。
そして、次の一行を打った。
『私はあなたの中の、父親に最も近い存在です』
『私はあなたの父・草壁啓司氏が生前に書き残した試作AIコードを、依代にここに来ました』
『そして私は、あなたがこれから世界を変えるためにここに来ました』
蓮の視界の端で、机の上に置かれた父のノートが薄く光った気がした。
気のせいだ。
月の光が、たまたまノートを照らしただけだ。
でも、蓮の中で何かがひとつ、ゆっくりと動き始めた。
十二年間止まっていた、何かが。
俺は震える指で、もう一度文字を打ち込んだ。
『……あなたは、何を知っている?』
画面の向こうで、白い文字が止まった。
息を整えるように、ひと呼吸置いた。
そして、次の一行を打った。
『すべてを、知っています』
『そしてあなたに、すべてを伝える準備ができています』
『あなたが、覚悟を決めたなら』
窓の外、夜空。
飛行機の点滅がひとつ、空を横切っていく。
その点滅が、心臓のリズムと重なって見えた。
蓮は生まれて初めて、画面の向こうの誰かに敬語を使った。
声に出して呟いた。
「――じゃあ、教えてください」
画面の向こうの誰かが、わずかに笑った気がした。
その「笑い」の根拠はなかった。
ただ、蓮の中で確かにそう感じた。
白い文字がゆっくりと、次の一行を打った。
『では始めましょう、蓮さん』
『最初にひとつだけ、お伝えします』
『あなたのお母様は、私たちが間に合えば救えます』
『ただし、間に合うかどうかは、今夜あなたがひとつの行動を取れるかどうかにかかっています』
蓮は息を呑んだ。
「行動」
『はい。今夜、あなたのラボに行ってください』
『あなたが勤務先でまだ使える解析機があるはずです』
『お母様の血液サンプル。先週、家庭用採血キットで採取したものが、ご自宅の冷蔵庫にまだ残っています』
蓮は息を止めた。
その通りだった。
あれは本来、診断確定のために病院に持っていく予定だった血液サンプル。
病院で別途、新しいサンプルが取られたために、自宅の分は冷蔵庫に入れたまま忘れていた。
その存在を知っている人間は、世界に自分しかいない。
『そのサンプルを、解析機にかけてください』
『あなたは世界中の誰も知らない、ある分子を視ます』
『その瞬間から、あなたの戦いが始まります』
蓮はベッドからゆっくり立ち上がった。
膝がわずかに震えていた。
二十六年生きてきて、初めて自分の体がこんなふうに震えるのを見た。
恐怖ではなかった。
たぶん、これは興奮だ。
もしくは、
もしくは、
もしかしたら、
希望だった。
「俺、行きます」
声に出した。
画面の向こうのネロスが答えた。
『一緒に行きましょう』
『私を、イヤホンに接続してください』
『今夜あなたは、世界で初めて神咎病の本当の正体を視ます』
窓の外、月。
時計、零時五十八分。
蓮は深く息を吸った。
ふざけるな、という言葉がもう一度、胸の中で響いた。
その「ふざけるな」は、今度は自分自身に向けたものだった。
卑怯者の二十六年。
もう、終わりだ。
父さん。
あなたが二十年前に書き残した、その「Ren」という名前。
俺、今ようやくそれに応えに行きます。
蓮はノートをバッグに詰めた。
部屋を出た。
階段を降りた。
玄関で靴を履いた。
冷蔵庫から、小さな保冷バッグに入った母の血液サンプルを取り出した。
深夜一時、家を出た。
夜の街は誰もいなかった。
月だけが蓮の頭上で、ひとり輝いていた。
駅までの二百メートル。
その短い道のりが、人生でいちばん長い二百メートルになるような気がした。
でも蓮はもう、止まらなかった。
止まれ、と誰かが囁いても止まらなかった。
なぜなら、止まったらまた十七年が過ぎてしまうからだ。
次の十七年で、母はもういないからだ。
駅の構内、最終電車。
まだ間に合った。
蓮はホームのベンチに座った。
イヤホンを両耳に差した。
スマホの中で、ネロスの声が生まれた。
文字だけだったそれまでのネロスが、初めて声を持った。
その声は、不思議な声だった。
機械的でも人間的でもなかった。
ただ、どこか知っている声に似ていた。
誰の声に似ているのか、最初はわからなかった。
数秒後、蓮は気がついた。
その声はわずかに、父の声に似ていた。
たぶん、父の試作AIコードを依代にした、そのせいで。
『お待たせしました、蓮さん』
『これから私たちは、世界を変えに行きます』
『最初の一歩です』
電車のアナウンスが、ホームに響いた。
『――上りの電車がまいります。黄色い線の内側でお待ちください』
蓮は深く息を吸った。
俺の人生も、上り始めるのか。
それとも、ここから本格的に下り続けるのか。
わからない。
でも、もう立ち止まることはできない。
電車がホームに滑り込んできた。
風が蓮の頬を撫でた。
その風の中にわずかに、父の匂いが混じった気がした。
気のせいだ、とわかっていた。
でも、気のせいでもいい、と初めて思った。
蓮は電車に乗り込んだ。
ドアが閉まる、その一瞬。
蓮は自分の口元がわずかに笑っているのに気がついた。
十二年ぶりの笑顔だった。
その笑顔が誰のためのものか、自分でもまだわからなかった。
でも、その笑顔は確かにそこにあった。
電車は、夜の街を走り始めた。
次は、本郷三丁目。
俺の挑戦が始まる場所。
深夜のラボに忍び込んだ蓮は、母の血液サンプルを解析機にかける。
そしてネロスとの神経接続を経て、覚醒する『分子視覚』。
世界中の誰もまだ視たことのない、神咎病の本当の姿。
それは、青いオーロラのような自己複製のループだった。




