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蛇の目/美食家  作者: ふゆはる


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第五話/謎

 解剖室の空気は、すでに張り詰めきっていた。

 五基の解剖台の上に横たわる遺体は、同じ場所で発見され、同じ菌類に侵されていながら、まるで別の“結果”を示しているように見えた。

 渡辺は、四体の途中段階の遺体と、奥に置かれたミイラ化した一体とを、交互に見比べていた。

 やがて、その視線が止まる。

「……これ、どっちが完成形なんですか?」

 何気ない疑問のようでいて、その場の全員の思考を正面から突き崩す問いだった。

 一瞬、解剖室が静まり返る。

 法医の手が止まり、片瀬が腕を組み、吉羽は言葉を失ったまま遺体を見つめる。

 生きたまま侵食され、菌を“育てられていた”可能性のある個体。

 一方で、完全に水分を失い、枯れ木のように乾燥し、内部が菌床として固定化されたミイラ。

 どちらが“失敗”で、どちらが“成功”なのか。

 判断する基準が、どこにも存在しなかった。

「……分からない。」

 片瀬が低く言った。

「存命中に育てていたなら、あの四体は“途中”とも考えられる。

 だが、あのミイラは明らかに完成しているようにも見える。」

 吉羽は視線を伏せ、ゆっくりと言葉を絞り出す。

「逆に、ミイラ化は“行き過ぎ”で、

 生体のまま菌と共存させる状態が完成形……という可能性もある。」

 そのどちらにも、確たる証拠はない。

 科学的な指標が存在しないからだ。

 沈黙を破ったのは、砂原宗一だった。

 彼は一歩前に出て、五体すべてを見渡す。

「……おそらく、全部が完成形です。」

 全員の視線が、砂原に集まった。

「全部……?」

 渡辺が聞き返す。

 砂原は頷き、淡々と続けた。

「この現象を“通常の菌類栽培”として考えるから、完成形が一つだと思ってしまう。

 ですが、これは農学でも、菌類学でも、前例がない。」

 彼はミイラ化した遺体を指し、次に四体の遺体へと視線を移した。

「人間の体内で菌類を栽培すること自体が、そもそも不可能です。

 水分、免疫反応、温度、栄養、どれを取っても、菌類には不向きすぎる。」

 砂原の声には、研究者としての断定があった。

「にもかかわらず、目の前では――

 “生きた状態で侵食された例”と、

 “死後、完全に菌床として固定化された例”が同時に存在している。」

 彼はゆっくりと息を吸う。

「つまり、犯人は一つの完成形を目指していない。

 不可能な条件下で、複数の成立例を作り上げている。」

 吉羽の背筋に、冷たいものが走った。

「……論文にするなら、どう書きますか?」

 その問いに、砂原は一瞬だけ苦笑した。

「“人間を基材とした菌類生育の複数成立例”――

 少なくとも、論文レベルの異常事態です。

 ただし、掲載される学術誌は存在しないでしょう。」

 片瀬が低く呟く。

「そんなもの、誰も再現できない……いや、すべきじゃない。」

 砂原は静かに首を振った。

「本来は、できないんです。

 人体内で菌類をここまで制御する方法は、理論上存在しない。」

 そして、ゆっくりと結論を述べた。

「……ですが、犯人はそれを達成している。」

 その言葉は、解剖室の中に重く沈んだ。

 五体の遺体は、もはや“被害者”という括りだけでは説明できない。

 それぞれが、犯人の試行錯誤の結果であり、

 同時に“成立してしまった不可能”の証明だった。

 吉羽は端末を取り出し、震えない指で報告をまとめる。

 蛇の目に送られる情報が、また一つ増えた。

 ――完成形:単一ではない

 ――犯行目的:結果の比較・成立条件の探索

 ――犯人行動:実験的・反復的

 誰もが理解していた。

 これは殺人事件であると同時に、

 人間が決して踏み込むべきでない領域に踏み込んだ“実験”の痕跡だ。

 そして、その実験は――

 まだ終わっていない。


 解剖室に集まった全員が、同じ感覚を共有していた。

 それは恐怖でも混乱でもない。

「判断できない」という事実そのものが、重くのしかかっていた。

 五体の遺体は解剖台の上に並び、もはやそれ以上の答えを語ろうとしない。

 途中段階の四体。

 完全に菌床化した一体。

 どれもが成立しており、どれもが異常で、そしてどれもが比較不能だった。

 科学は分類を求める。

 だが、この場には分類のための軸が存在しない。

 片瀬は、壁際に立ち、端末に映る蛇の目のフィードバックを無言で見つめていた。

 解析結果の表示は簡潔だった。

 ――該当症例:なし

 ――類似事象:検出不能

 ――推定分類:連続異常事件

 それ以上、画面は何も語らない。

 片瀬は小さく息を吐き、誰に言うでもなく呟いた。

「……前例なし。」

 その言葉は、解剖室の空気をわずかに震わせた。

 誰も否定しなかった。

 否定できる材料が、どこにもなかったからだ。

 蛇の目は、過去の膨大な事件記録、医学論文、犯罪データベースを横断しても、

 この状況を説明できる“型”を見出せていなかった。

 合理的に分解し、再構成し、確率を与える――

 その役割を担う存在でさえ、これ以上踏み込めない地点に来ている。

 吉羽恵美は、解剖台に目を向けたまま、低く呟いた。

「……蛇の目でさえ、対応に読みあぐねている。」

 それは敗北宣言ではない。

 だが、警告だった。

 人間の直感が追いつかない領域において、

 人工知能の演算ですら判断を保留する――

 その事実が、この事件の異常性を何より雄弁に物語っていた。

 解剖医は、手袋を外しながら静かに口を開いた。

「現時点で言えるのは、ここまでです。

 詳細な生物学的解析――

 菌糸の遺伝子解析、代謝経路の追跡、組織変性の時系列推定……

 どれも、数日単位の時間が必要になります。」

 彼は視線を上げ、全員を見回した。

「今夜の解剖所見だけで結論を出すことはできません。

 正直に言えば……

 “何が起きたか”ではなく、“何が可能になってしまったか”を調べる段階です。」

 沈黙が落ちた。

 誰も反論しなかった。

 ここにいる全員が理解していたからだ。

 この事件は、

 犯行手口を特定する段階にも、

 動機を推測する段階にも、

 まだ到達していない。

 ただ一つ確かなのは――

 人間の体を用いた、前例のない犯罪が成立してしまったという事実だけだった。

 吉羽は端末を閉じ、ゆっくりと息を整えた。

 連続事件として扱うしかない。

 それは暫定的な分類であり、逃げでもある。

 だが、今はそれ以上の言葉を持たない。

 解剖室の白い光の下、

 五体の遺体は、静かに横たわっている。

 答えを拒むように。

 あるいは――

 まだ続きがあることを、知っているかのように。

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― 新着の感想 ―
xから読ませていただきました。 時間軸から細かく実際を思わせる雰囲気で よも続けたくなりますね! 感想書かせていただきます。 科学警察研究所第二課の捜査官吉羽恵美を中心に、室長の秋山慎一郎や技術員片瀬…
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