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蛇の目/美食家  作者: ふゆはる


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第三話/司法解剖

 吉羽恵美は、被害者の硬直した指先をもう一度確かめてから、片岡へ視線を戻した。

「司法解剖の手配は? 一刻も早く内部の変化を確認したい。」

 片岡は防護マスク越しに眉を寄せ、わずかに肩をすくめる。

「深夜帯だ。通常なら最速で依頼しても、解剖開始は明朝になる。……ただ、今回のケースは“通常”の枠に入るかどうかすら怪しいがな。」

 周囲には、夜気と土の匂いに混じって、遺体から発する淡い腐臭とも薬品臭ともつかぬ気配が漂っていた。

 胞子状物質が増殖している可能性を考えれば、時間的猶予はほとんどない。

 吉羽は一度だけ短く息を吐き、決断を固める。

「……群馬大学の法医学教室に当てる。夜間でも対応できるはず。緊急性を伝えて、すぐに受け入れ態勢を取ってもらう。」

 片岡が驚いたように目を見開く。

「大学か? たしかに判断は正しいが……そんなに急を要するわけか。」

 吉羽はスマートフォンの画面を片手で操作しながら答えた。

 蛇の目から届いた最新の解析案が、淡く光る文字列となって彼女の思考を後押しする。

「遺体の進行速度が常軌を逸している。これ以上、組織が“何か”に侵される前に内部状態を確認しないと、判断材料が消える。」

 片岡は短い沈黙の後、深く頷いた。

「分かった。こっちは現場保全を最優先に回す。あんたは大学へ急いでくれ。」

 吉羽は防護服を外しながら、ブルーシート越しに再び遺体へ目を落とした。

 さっき見た顕微鏡像が脳裏を離れない。

 脈動する胞子。

 

 ――時間がない。

 ――遺体が語れることは、刻一刻と失われていく。

 タクシーを再び呼び寄せながら、吉羽は秋山へ状況を報告し、同時に群馬大学へ電話を繋いだ。

 深夜の大学構内に灯るわずかな常夜灯の下、当直のスタッフがまだ事情を把握しきれない様子で対応してくる。それでも「科警研第二課」「緊急解剖」「未知の侵食」という単語を並べると、電話口の空気が一変した。

「……分かりました。準備に入ります。到着次第、すぐに解剖に取りかかります。」

 通話を切り、タクシーの後部座席に乗り込む。

 車が静かに発進すると、現場の赤い回転灯が遠ざかり、闇の中へ沈んでいった。

 群馬大学まで約十五分。

 その短い移動の間にも、蛇の目は追加推定を送り続けてくる。

 細胞活動の異常な破壊パターン。

 胞子膜の異様な耐性。

 

 車窓に流れる街の光景が、まるで別世界のように静かだった。

 ――この死は、見た目以上に深い。

 ――人間がまだ知らない領域から“何か”が来ている。

 吉羽はタクシーの揺れの中、冷たい指先でメモをまとめながら、法医学教室の解剖台に横たわることになる“未知の死”を想像した。

 そこから先に広がるのが、答えなのか、さらなる異常なのか。

 分かるのはただひとつ――

 時間との競争は、すでに始まっていた。


 深夜の法医学教室では、負圧装置の低い唸り声だけが響いていた。

 遺体が搬入されてから三十分。

 防護服をまとった法医と、急遽呼び出された菌類学者・砂原宗一、そして吉羽恵美が、ステンレスの解剖台を取り囲んでいる。

 担当法医が最初の切開を始めると、皮膚の裏側に広がる白い繊維質がライトに照らされて浮かび上がった。

 砂原が覗き込み、小さく息を呑む。

「……ニオウシメジだ。

 いや、厳密には“亜種”と言うべきかもしれない。胞子の形状も色も、既知の種に酷似している。

 だが――」

 砂原はそこで言葉を切り、眉を寄せた。

「――人間を菌床にした栽培なんて、あり得ない。

 理論上も、倫理上も、生理学的にも、そんな手法は存在しない。」

 吉羽は静かに頷く。

 砂原の声は科学者のものというより、目の前の事実を受け入れ切れていない研究者の震えに近かった。

 しかし、台上の光景は残酷なまでに“現実”だった。

 皮膚の一部には、直径数ミリの小さな穴が規則的に見つかる。

 その穴の奥には、白い菌糸が食い込んでいる。

 まるでそこが“植え付け口”であるかのように。

 担当法医がピンセットで表皮をめくると、砂原が低い声で呟いた。

「……誰かが、意図的に植え付けている。

 菌の性質から見て、人間の体内で自然に繁殖する可能性はゼロだ。

 培養環境が整いすぎている。まるで――」

 砂原は喉の奥で言葉を飲んだ。

 吉羽が代わりに言う。

「――“栽培”されていたように見える、ということですね。」

 砂原はゆっくりと頷いた。

「その通りだ。ただし、こんな手法はどの論文にも前例がない。

 医療目的ではなく、毒物として使うのとも違う。

 これだけの量を短時間で成長させるには……想像を絶する方法が必要だ。」

 法医が胸郭を開くと、内部の臓器にも点状の穴が散見され、そこから菌糸が広がっているのが確認できた。

 外傷ではなく、**“人工的な穴”**だった。

 吉羽は防護マスク越しに、冷たい息を吐く。

「つまり……この死は、“殺人”として扱うべき、という理解でいいですか?」

 砂原は重々しく頷いた。

「ええ。自然では説明できません。

 犯人が、被害者の体を“菌を育てるための器”として扱った……そうとしか思えません。」

 法医学教室の明かりが、遺体に食い込む白い菌糸を照らしていた。

 それは科学の領域に存在するものではあるが、人間が決して踏み込んではならない領域で使われた痕跡だった。

 吉羽は背筋を正し、メモを閉じた。

 ――これは事故や変異ではない。

 ――明確な手口を持った“殺人”だ。

 その静かな確信が、深夜の解剖室に重く落ちた。


 解剖は淡々と進んでいた。

 担当法医の手つきは揺らぎがなく、まるで“異常”を前にしても動じないよう訓練された機械のようだった。

 ステンレスの器具が小さく触れ合い、乾いた金属音だけが冷たい室内に響く。

 そのとき、隣室の分析室から検査結果が届いた。

 担当法医が受け取り、モニターに表示する。

 血液成分分析報告――

 そこに並ぶ数値に、法医は眉を寄せた。

「……ビタミンB群の値が異常に高いですね。通常の数倍以上。

 明らかに代謝が破綻している。」

 吉羽は結果を覗き込みながら、砂原の方へ視線を向けた。

 砂原は防護マスク越しに、すぐに反応した。

「ビタミンB群は、菌類の培養過程で非常に重要です。

 特にB1、B2、ナイアシンあたりは、“菌の生育を促進する補因子”として使われます。」

 砂原はさらに資料をスクロールし、別の項目を指さした。

「カリウムの値はどうですか?」

 担当法医が確認する。

「……これも異常値です。

 細胞外液の濃度上昇としては説明がつかないレベル。

 内部から流出していると考えるべきですね。」

 砂原は深く息を吐いた。

「カリウムも菌糸の伸長に強く影響します。

 つまり……体内環境が、まるで“菌類にとって理想的な培養環境”になっている。」

 吉羽は無意識に手帳を握る力を強めた。

「……人間の体内が培養槽になっていた、ということですか?」

 砂原は即答しなかった。

 数秒の沈黙の後、慎重に言葉を選んだ。

「自然ではあり得ません。

 ただ、結果としては――そのように“調整されている”としか説明できない。」

 担当法医は手を止めないまま、低く補足する。

「穴の加工、菌糸の侵入角度、体内の栄養組成……

 解剖所見だけでは説明しきれません。

 もっと分子レベルの分析、化学的評価が必要です。」

 吉羽は喉の奥に冷たいものを感じながら、その言葉を飲み込んだ。

 ――これは単なる奇怪な死ではない。

 ――“計画された生育”の痕跡だ。

 そう理解した瞬間、胸の内に重い圧力がかかった。

 分析が追いつかない。

 この現場でできることは限られている。

 そして時間も限られている。

 吉羽はメスの音が続く解剖台から少し離れ、無菌室の隅で端末を取り出した。

 秋山慎一郎――科警研第二課 室長。

 深夜にも関わらず、呼び出すしかなかった。

 彼女は短く息を整え、通話ボタンを押した。

「秋山室長。

 ……重大な異常が見つかりました。

 法医学的にも、菌類学的にも、自然発生では説明できません。

 “特異的な加工によって菌が植え付けられた形跡”が明確です。

 これ以上は、科警研の本格介入が必要です。」

 静かに、しかし確実に、事件が“通常の領域”から逸脱し始めていた。

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