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蛇の目/美食家  作者: ふゆはる


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第二話/栽培

 通報者(川口明)は初期の重要証言者であるが、精神的ショックと感染防止の観点から、その供述は保全措置と医療評価の下で行われた。

 現場の事象は通常の腐敗・菌類繁殖では説明がつかない挙動を示しており、空気サンプルおよび表面サンプルは外部専門家の迅速な解析を要する。

 以後の報告は、鑑識の顕微鏡解析、遺体の病理検査、環境バイオアセスメントの結果を踏まえて更新される。


 科警研第二課オペレーションルームには、深夜の静けさとは裏腹に硬質な電子音が断続的に響いていた。

 壁一面に並ぶ大型モニターには蛇の目の観測ログが脈動のように流れ続け、その一つが赤色に変わった瞬間、秋山慎一郎は椅子を蹴るように立ち上がった。彼が赤タグを見間違えるはずがない。蛇の目が“深刻度4”を即時判定したケースは、ここ数年でも片手に満たない――そして、そのいくつもが未だ完全解決とは言い難い。

 秋山はモニターの光を反射する自分の眼鏡越しに、観測ログの最初の文を読み上げた。

 《群馬県●●市・旧製鉄工場跡にて、通報者が“人体からの異常な菌類繁茂”を報告》

 《通報者の映像データ:ショック状態の中、人体五体・異常子実体の繁茂・接触時の不随意運動を記録》

「……まずいな」

 秋山はすぐさま吉羽恵美の携帯を呼び出した。

 数回のコールのあと、少し掠れた声が応答する。

『秋山室長、どうかしました?』

「吉羽! 夜分にすまないが、群馬に飛んでくれ。警察本部からも連絡が来る。現場が異常だ。」

『異常って……どんな?』

「詳細はすべてメールで送った。蛇の目が“深刻度4・危険予測”を出している。見れば理解できるはずだ。」

 吉羽がわずかに息を呑む気配が、電話越しに伝わる。

『……了解しました。今すぐ向かいます』

 通話が切れた後、秋山は蛇の目のパネルに手を伸ばした。

 画面には順次アップロードされる現場映像があり、そこにはすでに現地の警官がライトで照らし出したシャワールームの内部が映っていた。白灰色のキノコが床を埋め尽くし、その中心には、五つの異形の“山”――人間だったものが横たわっている。

 蛇の目は感情を持たない。

 だからこそ、赤色警告の重みは、余計に不気味だった。

 吉羽恵美はタクシーに乗り込むと同時に、秋山から送られてきた一連のメールを開いた。

 車内の薄暗い灯りの中、端末の画面だけが冷たく彼女の顔を照らす。

 最初に送られてきたのは、通報者「川口 明」のプロフィールだった。

 ・27歳

 ・動画配信者(廃墟系チャンネル)

 ・現場で人体を発見、ショックで転倒

 ・救急搬送時“繰り返し錯乱状態”と記録

 ・肺から微量の胞子反応

「胞子……肺まで?」

 つぶやきが自然と漏れた。

 続いて、蛇の目が解析した現場映像のデータを再生する。

 ハンディカムが床に転がる瞬間、ぶれた映像の中に“それ”が映った。

 白いキノコが密集し、何かの表層を突き破って生えている。

 光が安定した後、五体の遺体がシャワールームの床に整列するように横たわっていた。

 だが――吉羽の目が止まったのは別の瞬間だ。

 川口が絶叫した直後。

 映像の端で、人間の腕が一瞬、指を伸ばすように動いた。

 蛇の目の補足記録が自動的に表示される。

 《遺体A:通報者接触時に“一度のみ”筋収縮パターンを検出。

 可能性1:死後硬直直前の反射性痙攣

 可能性2:遺体内部の菌糸塊の膨張による組織可動

 可能性3:不明》

「……可能性3、て何よ」

 蛇の目は一切の感情を交えず、ただ“言語化不能”な現象をそう呼ぶ。

 次に、県警鑑識の一次報告が送られていた。

 ・遺体表面および筋層内に菌糸侵入

 ・腐敗度と菌糸繁殖速度が一致せず“急成長の痕跡”

 ・胞子構造は多層型で、人間に寄生する型としては前例なし

 ・死亡推定は極めて困難(組織破壊が均一ではない)

 吉羽は奥歯を噛んだ。

 これは単なる怪奇事件でも、自然発生の異常でもない。

 誰かが意図した。

 あるいは――人間の理解外の“何か”が起きている。

 タクシーは高速道路に差し掛かり、白い街灯が流れていく。

 深夜の移動はいつも静かだが、今日は違った。胸の奥の鼓動が妙に強く、耳の奥に残響する。

 端末の画面には、蛇の目が表示している“危険予測モデル”が示されていた。

 《二次感染の可能性:低

 ただし“感染源の特定不能”として継続観測

 事件性:極めて高い

 異常性:通常の犯罪データベース外

 科警研第二課の現場指揮が推奨される》

「蛇の目、あなたはもう事件の性質を知ってるんでしょ。

 私たちが追うべき“連続事件”のどこに接続するのか……」

 返答は当然ない。

 AIは観測者であって、語り手ではない。

 しかし、吉羽は直感していた。

 この工場で発見された五体は――


 異質な“何か”が混じり始めている。

 彼女は深く息を吸い、端末を閉じた。

 タクシーはすでに群馬県の入り口を示す標識を通過しようとしている。

「秋山室長、片瀬、渡辺……合流したらすぐ初動に入るわ。

 蛇の目が見た“異常の核心”を、現場で確かめる」

 窓の外は闇のままだったが、その奥には、鉄粉と腐敗臭と白い胞子で満たされた旧工場が待っていた。

 そしてその闇のさらに奥で――

 蛇の目の観測にも映らない“獣の気配”が、静かに蠢き始めているように思えてならなかった。

 吉羽は視線を前へ戻し、微かに震える指先で拳を握った。

「行くわよ。

 この“異形の事件”の、本当の始まりに」

 タクシーは夜の闇を裂くように加速し、彼女を現場へと運んだ。


 深夜一時三十八分。

 吉羽恵美の乗ったタクシーは、県道沿いにぽつりと灯る回転灯の赤を反射させながら、緩やかに減速していった。山あいの夜気は濃く、街灯までの距離が遠い。人の気配が薄い。封鎖線の向こうで、警察官たちが黙々と動いているのが見える。タクシーを降りた瞬間、吉羽の頬をひやりと撫でたのは、夜の寒さよりも、そこに“異常な死”が横たわっている気配だった。

 すでに第一通報から三十分以上が経過している。現場の雑踏は落ち着き、隊員たちが互いに短く言葉を交わす声だけが、湿った空気の中に薄く溶け込んでいた。

 封鎖線をくぐる前、警備担当の警官が名乗りを上げながら声を掛けてくる。

「科警研第二課の吉羽さんですね。現場責任者から指示が出ています。直接ご案内します。」

 吉羽は軽く頷き、呼気を整えた。蛇の目から連続して送られてくる解析案とリスク評価が、スマートフォンの画面に青白く光を落としている。

 ――死体に付着していた“胞子状物質”

 ――衣服の繊維にみられる“繊維の溶解痕”

 ――通報者の訴える“掴まれた感触と異常な圧迫”

 どれも既存の犯罪像に当てはまらず、室長・秋山が「ただちに群馬へ飛べ」と告げた理由が、吉羽の背筋にじわじわと染み込んでくる。

 封鎖線の内側に入ると、ランタンライトで照らされた農地の縁が見え、その中心にブルーシートと鑑識車両が配置されていた。夜露に濡れた地面には立ち入りルートがマーキングされ、踏み荒らされることのないよう慎重に足場板が敷かれている。

「こちらです。鑑識の片岡主任が待っています。」

 案内役の警官が手を伸ばしたその先、白い防護服を着た人物が、ライトの光を受けて振り返った。

 片岡は四十代半ば、科捜研と行き来することの多いベテラン鑑識官で、その表情には緊張と困惑が入り混じっていた。

「吉羽さん、遠いところすまない。……今回は、かなり“変だ”。」

 彼は言葉を選ぶように告げ、ブルーシートの隙間を指し示す。

 その向こうに、通報者の足を掴んでいたという被害者が、姿勢を固定されたまま横たわっている。死後硬直と矛盾する奇妙な関節角度。指先に付着した黒褐色の粒状物。衣服の裂け目から滲む不自然な腐食。

「死後経過は短い。通報者が逃げた時間と一致する。ただ……腐敗の速度が説明できん。温度条件も湿度も、通常の分解速度とはまるで合わん。」

 吉羽は防護手袋をつけ、片岡が差し出したライトを受け取る。

 被害者の手のひらに照射すると、肉眼でもはっきりわかる異様な光景があった。

 皮膚の表面に、微細な孔。

 孔の縁には、粒状物――胞子のようなものが、まるで呼吸をするかのように微かに膨張と収縮を繰り返していた。

「……これ、顕微鏡に?」

 片岡は苦い顔をしながら頷いた。

「見たほうが早い。俺も信じたくなかったからな。」

 鑑識車両の中に案内され、吉羽は簡易顕微鏡のモニターを覗き込んだ。

 その瞬間、背中を冷たいものが這い上がる。

 画面には、胞子を思わせる構造物が映っている。

 だが胞子にしては形が整いすぎ、膜の表面で複雑な折り畳みが繰り返されている。

 何より――胞子の内部に、糸状の構造が脈動していた。

 脈を打っている。

 細胞活動の停止した遺体の上で、別の“生”が動いている。

 片岡が低く漏らす。

「植物学でも、微生物学でも説明がつかん。外来性の菌類とも違う。だが“何かが働いている”のは確かだ。」

 吉羽は顎に手を当てた。

 蛇の目が示した推測が脳裏に蘇る。

 ――これは単なる腐敗ではない

 ――未知の外因による組織侵食

 ――通報者の訴えた“掴まれた感触”との関連可能性あり

 外の空気が揺れ、救急隊が通報者・明の搬送先から病状の更新情報を無線で伝えてくる。

「意識混濁。皮膚の圧迫痕が不自然に広がっています。筋線維の局所壊死を確認――」

 その報告に、車内の空気が一瞬止まった。

 被害者とまったく同じ“広がる壊死”。

 単なる怪我や圧迫では説明できない。

 吉羽はスマホを開き、秋山へ即座に状況を送信した。

 蛇の目が次にどんな解析案を提示してくるのかを想像しながら、彼女は深く息を吸う。

 この死は、事件である。

 前例のない、理解不能な“外因”によって引き起こされた何かだ。

 夜の農地が、静かに見つめ返してくる。

 未知の脅威の入口が、ようやく姿を露わにしつつあった。


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