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目を開けたとき、ヴァニスの視界に映っていたのは屋敷の部屋だった。
「実は先日、隣のB世界で家長の暴走を感知してね」
パルテが同じ言葉を発する。二周目と始まりは変わっていないようだった。ループの始点はここと決まっているらしい。何故かは定かでないが、おそらく無意識に時間を戻している瑠璃が自殺する日だからだろう。ヴァニスの介入がなければ瑠璃は十六日に死ぬことになっている。それより前に戻らないのは、もしかすると時を戻せるのは最大で三日までなのかもしれない。あとは、観測者の役割を肩代わりしたヴァニスが瑠璃の存在を初めて知った日だからか。
色々と仮説は立てられるが、畢竟そんなことはどうでもいい。今はとにかく、この新たなループ――三周目を、一切の無駄がないようにスタートさせなければならない。
「パルテ様。お話がございます」
ヴァニスは主人の言葉を遮って、今までに起きたことを伝えた。ループの回数を重ねるたび説明に割く時間は多くなる。勿論、瑠璃を無駄に死なせないためにも、今回こそ時間の輪廻を断ち切らなければ。死んだ娘と同じくらいの歳の少女を、既に二度もこの腕で殺したのだ。もう繰り返したくはない。ヴァニスはパルテに話しながら、頭の中で考えをまとめようとした。
一周目と二周目で瑠璃を刺激させるとわかったのは、十七日の夜にアルバイト先で会う絹の取り巻き、十八日の煙草の男、不良、十九日の殴った取り巻き、そして、蛹也黄。しかし二周目のようにヴァニスが余計な介入をすると、瑠璃に対する当たりが逆に強くなってしまう。それも要らぬ刺激になりかねない。ただ放っておけば瑠璃の精神が乱されるのも事実だった。十八日はおそらく対処できる。警官は二人いた。煙草の男と不良、それぞれに向かわせればいい。そして最もわからないのが十九日だ。一周目では瑠璃が生徒を殴り、二周目では一周目より早く蛹也黄が現れた。何故なのか。瑠璃が生徒を殴らないと、蛹也黄が早く現れるのか。いや、そこに因果関係はあるのか、ただの偶然か……。
「詰まっているね」
考えすぎて難しい顔をしていたのだろう、パルテが言った。
「聞いても無駄だろうけど、瑠璃を家から出さないようにする気はないのかい」
「私も考えました。確かに、その方法が最も安全かもしれない。でも、」
普通に生きたい。一周目で瑠璃が言っていたことが、頭から離れていなかった。
パルテは思い詰めた様子のヴァニスを見て、ふうと息を吐いた。
「聞いても無駄だったね。悪かった。ターシャと、重ねているんだろう」
「……そもそも、家に軟禁することが適切かと言えば、そうではない可能性もあります。長い期間、誰とも関わらずに過ごすというのは、年頃の子供にとって相応のストレスとなる」
ふむ、とパルテが顎に手を当てる。確か前回も同じ仕草をしていた。
「……色々な方法で試してみよう。何か、変わるかもしれない」
ヴァニスは再びB世界へと旅立った。もはや見慣れてきた始まりの景色をさっさと後にして、彼は瑠璃が住むアパートへ向かう。そして瑠璃が帰ったあとに、彼女の部屋の扉を開けた。
……本当に、これは何度見たって慣れる気配がない。制服を着た女子高生が首を吊って苦しんでいる姿なんて。ヴァニスがまたロープを切ると、瑠璃はやはり彼を見上げて、
「あり、がとう」
お人好しというか、礼儀正しいとでも言えばいいのか。ヴァニスが何度やり直したって、彼女は自分が苦しいことを差し置いて、まず礼を言う。何としてでもそれだけは伝えなければ、というふうに。その必死そうな姿に、ヴァニスは心がちくりと痛むような気がした。なぜなら、
「私はヴァニス・ペギーナだ」
ヴァニスは床に尻餅をついた瑠璃にそれだけ言って、家から出て行ったのだから。とはいえ何も今回は瑠璃に対して冷たく接しようだとか、そういうことを考えているのではない。真面目に熟考した結果このほうがいいと判断したまでだ。二周目の経験を踏まえて、瑠璃とは必要以上に接触しないほうがいいと結論を出した。無論、家産世界のことも今回は話さない。
ヴァニスはアパートを去ったあと、駅前にあるビジネスホテルに向かった。元々B世界滞在の際に使用する予定だったホテルだ。フロントでチェックインを済ませる。ヴァニスはA世界の人間だが、戸籍や銀行口座などはパルテが手回ししてくれていた。こちらに来る際にB世界で好き勝手やって大丈夫なのかとヴァニスは質問したのだが、パルテは、
「いや、思いっきり家産世界条項違反だけど、まあ非常時だからね。それに知っているかい、ヴァニス。日本には立つ鳥跡を濁さずなんて言葉があるらしい。なんとも美しい言い回しだと思わないか。だから大丈夫。すべて解決したあとの始末はきちんとやるさ」
そう普段のお気楽さで言ってのけた。まあ彼はああ見えて優秀だから、心配無用だろう。
ヴァニスはホテルの自室を確認したあと、またすぐに外へ出た。宿泊先は確保したが今日中に済ませておきたいことがある。十九日までのタイムリミットは刻々と迫っているのだから、スピード勝負だ。足を休ませることもなく彼は次なる目的地、瑠璃の通う高校へ向かった。
ヴァニスが足を運んだのは体育館だった。ちょうど夕方で部活動の時間帯だったため、中ではバスケ部が練習をしている。都合がいい。彼は部員の一人を手招いて、率直に尋ねた。
「絹さんを探しているのですが」
三周目の作戦、それが絹を頼ることだった。瑠璃を刺激させる要因の中で、どうしてもヴァニス一人では対処しきれない問題が蛹也黄以外にもある。それが絹の取り巻きだ。ヴァニスが瑠璃と関わり過ぎることを避けた主な原因でもある。だからこそ、絹の協力は必須だと考えた。
しかし今まで十六日の間は行動していなかったから、この時間に絹がどこで何をしているのか知らない。観測者的に言えば、見ることが出来ていないから絹の行動が確定していない。そのためヴァニスは可能性の高そうな体育館を訪れたのだが、部員によると彼女は不在らしい。
「トイレに行ったまま帰ってこないということだが……何をしているのだ」
部員から話を聞いて、ヴァニスは絹が向かったという校舎の中を歩いた。関係者以外が立ち入っていいのか怪しいところだが、大切な生徒の命がかかっているのだ、細かいことには目を瞑ってもらうしかない。階段を昇って、絹のクラスがあるらしい階に向かう。
昇った先には廊下が真っ直ぐ伸びていた。そこに絹がいるとは限らないが、とりあえずヴァニスは彼女が所属するクラスの教室へと歩く。そういえば瑠璃も同じクラスなのだろうか。
確かな足取りが、人気のない放課後の廊下を踏み締めていく。名称こそ異なるものの、A世界にも同じような教育施設は存在する。自分にも学生時代があった、そんなことをわずかに思い出していると、絹のクラスの教室から、女の声のようなものが聞こえてきた。
「んっ。あっ。んん……んぅ、あんっ」
ヴァニスは思わず足を止めてしまった。教室の中から漏れ出ていた声があまりにも色っぽいというか、もはや女の嬌声に近かったので驚いたのだ。一体中には誰が――そう気になって、扉を静かに開けた。すると、教室の窓際に一人の女子生徒が立っているのが目に入って、
――絹が、体操服を顔面に押し付けて、匂いを嗅いでいた。
「……は?」
「あっ。ん、んぅっ。いい匂い……いい匂いだよ、瑠璃ちゃん……すき……すきぃ」
……そういえば。一周目も二周目も、十六日の夕方、体操服がないと瑠璃が言っていた。てっきり瑠璃が世界をやり直しても変わらない筋金入りのうっかりものなのだと思っていたが、
――お前か、絹。
「汗が染み込んでて少しツンとする……今日体育あったもんね……でもいい匂い。柔軟剤なに使ってるんだろ……すー……、はあ…………ああむり、たまんないこれ……やば…………」
「おい、絹」
「ひいえあああああああああ⁉」
「うるさい、黙れ」
「いやっ、あなた誰……ってか見た⁉ 見たよね⁉ ねえ⁉」
「見た。しっかりと。だから席について私の話を聞け」
正直なところ、仮に絹と今日のうちに会えたとして、助力を取り付けられるか自信がなかった。彼女は彼女が有する能力の割に能動的なわけではないようだったし、何より一周目でヴァニスと邂逅したときの印象が最悪だった。あれは瑠璃と一緒にいたからというのが大きかったのだろうが、とにかく、ヴァニスは絹と協力できるかがこの三周目における肝だと考えていた。
だがこの瞬間、その心配は完全な杞憂と化した。もはや協力も何もない。交渉の主導権、それも圧倒的に有利なものが、特にこれといった苦労もないままこちらに譲られたのだから。
「なに話って、今の誰にも言わないでよ、いや本当に、ねえ、というかあなた誰なの、ねえ」
「煩わしいな……」
これまでにないほど狼狽える絹を見て、先に適当な席に腰掛けていたヴァニスは鬱陶しそうに眉をひそめた。彼女が落ち着くまで待っている余裕もないので、先に切り出すことにする。
「絹。瑠璃を守りたいか」
「……は?」
「瑠璃が危ない。力を貸せ」
「何を言って……だから、あなたは何者なのって」
「絹」
その力強い呼名に気圧されたように、絹は立ったまま唾をごくりと飲み込んだ。
ヴァニスは、顔に困惑の色を浮かべた彼女をじっと見つめて、言った。
「私は――タイムリープしてきた」
パルテを除けば、ヴァニスがタイムリープの事実を告白するのはこれが初めてだった。瑠璃にも打ち明けたことがない最重要事項を聞かされて――絹は、ぷっと噴き出した。
「え、何言ってるの。おじさん……てかお兄さんか。タイムリープって時をかけるやつだよね」
「そうだ。私は未来に起こることを知っている。そして未来を変えるために絹の力を借りたい」
「へえ……とりあえず通報したほうがいいのかな、これ」
「おい、待て。お前、信じてないだろう」
「そりゃそうでしょ。変な人が不法侵入して意味わかんないこと言ってるんだから」
お前も大概だ。ヴァニスは背中の後ろに瑠璃の体操服を隠した絹を見て思ったが、口には出さないでおいた。彼女も彼女で余計な刺激をすると、鞄から取り出した携帯で警察を呼び出しかねない。ヴァニスとしても大事になるのは避けたかった。であれば、証拠を見せるしかない。
「……明日の朝は学校をサボるのだったか」
「えっ」
「駅前のバーガー店で仲間と集まって遅刻する。そうだな。明後日は部活の朝練前にランニングをしようと考えている。コースが瑠璃の新聞配達と被るから会うことがある。今度の日曜に練習試合があるから忙しいのだろう。それも相手は県大会一位の強豪だ」
「何で知って……シャーロックホームズ?」
「残念ながら私に観察の才はない。すべて、この目で見てきた事実だ」
絹は驚いたように押し黙った。これから先の自分の行動を当てられれば誰でもそうなるだろう。すると彼女は、表情を先ほどよりも真剣な面持ちに変えて、言った。
「瑠璃ちゃんに何が起きるの。話を聞かせて」
「無論そのつもりだ。何しろ既に拒否権はないようなものだからな」
「このことは今すぐ忘れてもらってもいい⁉」
ヴァニスが後ろの机に置かれた体操服をちらと見やると、絹はまた慌てたように長い両腕を振り回した。しかし本当に恵まれた肢体を持つ少女だ。手足が長く、顔も小さい。ファッション誌の表紙を飾れそうな抜群のスタイルをしている。少し茶色がかった髪はショートで清潔感があり、ぱっちりした目や大きめの口などからは、はっきりして活発な印象を受けた。ミステリアスな雰囲気を醸す薄幸の佳人タイプの瑠璃とは真逆だ。
と、ヴァニスは観察するのもその程度にしておいて、さっさと絹に説明することにした。
「私が今まで見てきた世界では、瑠璃は様々な要因から刺激を受け、彼女が本来その身に有している正義感を肥大化させていた。そして十九日の夜、瑠璃は完全に暴走してしまい、人々を見境なく襲い始めてしまった。それを防いで彼女を救うため、私はタイムリープしてきた」
「……私は何をすればいいの」
「これから詳しく説明する。よく聴いてくれ」
ヴァニスは絹に、これから先に起こることを話した。瑠璃の暴走に絹の取り巻きが関与していること。ヴァニスでは彼女たちを完全に抑えることができないため、絹に協力してほしいこと。自分が別世界の人間であることは言わないでおいた。家産世界のことも伏せておく。ここですべてを明かしきるメリットは特にないからだ。前回の瑠璃が蛹也黄の件でヴァニスが黒幕だと誤解したように、ヴァニスに対して要らぬ疑心を生じさせてしまう可能性もある。
絹はヴァニスの話を一通り聞いて、容易にとはいかなかったものの、小さく頷いた。
「このままじゃ瑠璃ちゃんが危ないってことはわかった。あの子たちが瑠璃ちゃんを刺激するっていうのも、正直あり得ると思うし。確かに抑えられるのは私しかいない。だから協力はするよ。でも、やっぱりこれだけは聞かせて。どうしても納得できない」
「……なんだ?」
「瑠璃ちゃんとは、どういう関係なの。なんで瑠璃ちゃんのために何度もやり直せるの」
「無関係だ」
「他人ってこと?」
「ああ」
「……や、やっぱり怪しいよ。なんで赤の他人が、そこまでして」
「おかしいか?」
「おかしいよ」
「私はそうは思わない。お前だって、瑠璃とは無関係の他人だろう」
「……私は、瑠璃ちゃんの友達だもん」
怒ったように頬を膨らませた絹を見て、ヴァニスは薄く微笑んだ。
――今のルリには、家族も、大きな夢も、お金も、友達も、何もなくて……普通じゃない。
一周目で瑠璃はああ言っていたが、ちゃんと瑠璃のことを友達だと思っている者は存在するのだ。今の絹の表情を瑠璃が見たら喜ぶだろう。ヴァニスは笑いながら目を閉じた。
「友達だろうと他人だろうと、どちらでも変わらない。私たちは相当、彼女に惚れ込んでいるらしい。私も、絹も、瑠璃のことを助けたくて仕方がない」
「そりゃそうだよ。だって、いい子だもん」
「そうだな。……本当に、その通りだ」
絹が後ろを振り返る。そこには瑠璃の体操服があった。窓から差し込んだ夕日の残光が、それを微かに照らしている。今回こそ彼女を助け出して、時間のループを終わらせるのだ。