選ばれなかった聖女は、何のために祈るのか
逃げなければならない。座り込んでいるロザリー様に声をかける。
「ロザリー様、ここにいては危険です。逃げましょう」
伸ばした手は届かなかった。
ロザリー様が私の手を払いのけたのだ。
「嫌よ。私は西に逃げるわ」
「ロザリー様……」
「だって夢の中で約束したのよ? あの方、魔王様は私をこの退屈な毎日から救い出してくれるって」
「お待ちください! ロザリー様!」
彼女が西に走り去り、それを大神官様が追っていくのを、私は黙って見送った。
かける言葉がみつからなかった。
私も早く逃げなければ。
私が死んだら、きっと優しいフィフィは悲しむ。
東へ向かって懸命に走った。
途中で会った魔族の人たちは、フィフィの言葉が伝わっているのか襲ってこなかった。
それどころか、街の人を東の森へと逃していたらしい。
森に着くと、たくさんの人が肩を寄せ合っていた。
そこに懐かしい顔を見つけた。
「シスター?」
「ミレーネですか?」
記憶の中よりも年を取り、幾分痩せた気がするが、世話になった孤児院のシスターに違いない。
「無事でよかった」
神よ、と彼女は声を震わせる。
「こんな時に聞くことでもないですが、聖女様は何方になったのです?」
「ロザリー様です。せっかくシスターに推薦してもらったのに申し訳ありません」
いいえ、いいえと彼女は首を振る。
「知っていますか? 古い忘れられた信仰があるのです。昔は、主神様の他にも多くの神がいらっしゃいました。ロザリー様は確かに聖女でいらっしゃるかもしれません。でも私はね、ミレーネ。今でも信じているのです」
——あなたは大地の女神の祝福を受けているのだと。
続けた言葉はシスターの優しさだろう。でも——
「私の大切な魔物が街で戦っているのです。絶対に失いたくない、一番大切な」
その言葉は自然と口をついて出た。
「私、祈ります。祈らなければならないのです。
今はそれしか出来ませんから」
私は森の中でもひときわ大きな木の前に跪いた。手を組み、あの光差し込む聖堂で祈っていた時と同じ格好だ。
違うのは、決して綺麗とは言えない格好であること、そして、主神様ではないものに祈りを捧げること。
私は初めて大地の女神様に祈りを捧げた。
ひたすらに、ひたすらに。
大地の女神様とは、命を司る神でもあるとフィフィに昔聞いたことがある。
フィフィを死なせないでください。
どうか、フィフィを連れて行かないでください。
どれくらい祈ったことだろう。もうすでに日は落ちて、けれど恐れていた獣はやってこなかった。代わりに雨が降った。稲光が鳴り響き、そして耳を擘ぐような音と衝撃に、私の意識は飲み込まれた。
誰かの手が柔らかく頭を撫でている。
遠くで名前を呼ばれた気がした。
微睡みが心地よくて手に頭をすり寄せると、困ったような心配そうな声が聞こえた。
「ミレーネ、大丈夫か?」
それを認識した瞬間、私の意識は完全に覚醒する。
「フィフィ?」
「ああ」
身体を起こすと、思ったよりずっと近くにフィフィがいる。
「無事だったのね」
良かった、と反射的に彼の身体に抱きついてしまう。
彼は私を抱き返しながら言う。
「ミレーネのおかげだ」
「どういうこと?」
「あいつには、肩から心臓まで切られた」
真顔で落とされた言葉に背筋が凍る。
「大、丈夫なの?」
「死んだと思った。いや、実際死んでいたんだろう。
だが、その瞬間雷が落ちて傷が跡形も無くなっていた」
フィフィの目線を追いかけると、そこには私の祈っていた大樹がある。
大樹には痛々しい傷跡がついていた。
それこそ人型であれば、まるで肩から心臓に向かって切られたような——
「大地の、女神様……」
フィフィを守ってくれたのだろうか。
私は、フィフィから離れ、静かに手を組んで感謝を捧げる。
フィフィはそんな私をじっと見つめていた。
「ミレーネ。ガレアの王は、表向きは魔物と内通していたとして、ロザリーとかいう女とお前を探しているようだ。おそらく、出て行けばただでは済まない」
そう、と一言返す。
「一緒に来い。俺は、死なせるためにお前を逃したわけじゃない」
「嬉しいわ。本当よ。でも——」
フィフィの言葉が嬉しかった。昨日から、フィフィのことばかり考えている気がする。
「もし、お前が死んだら俺は、ガレアの王を許せない」
絞り出すような声だった。
「聞け、俺は——お前が好きだ」
恋だとか、愛だとか、まだよくわからない私にも、フィフィの言葉が特別な意味を持っていることはよくわかった。
わかったからこそ、言葉に詰まってしまう。
答えらえないままの私の目尻から、熱い涙が一つ流れる。
「シスター、あとは任せる。また、来る」
フィフィの言葉で、私は、ようやくシスターがいることに気づいた。
全て見られていたのだと思うと頬が熱くなる。
彼が去って行った後、私は項垂れていた。
しばらくの沈黙。そこに、まるで水のような、シスターの静かな声が降る。
「ミレーネ、あなたは昨日、一番大切な方のために祈ると言っていましたね。もう答えは出ているのではありませんか?」
心の奥底を見透かされた気分だった。
「シスター、私どうしたらいいのでしょう」
「あなたは少し、聖堂の教えに染まりすぎたようです。私は、今はあなたを聖堂に預けたことを後悔しています。つらいことがあったのではないのですか? 素直な心が失われてしまうような何かがあったのではないですか?」
「……いいえ。少し我慢を覚えただけです」
強くあろうとしただけです。と続けて心の中で呟く。
シスターは悲しそうに目を伏せた。
「お行きなさい。彼と共に。まだ、あなたは死んではなりません。
祈る意味を、生きる意味を見つけるのです。
これは、幼かったあなたを育てた私の母としての願いです」
「はい」
その夜、私は人の街を離れた。
——もう二年が経つ。私は、その間に沢山のことを学んだ。自分の意見を持つこと、楽しい時は素直に笑うこと、そして悲しいときは涙を流すこと。何よりも、我慢することは、強いことではないこと。
フィフィは、いつも側にいてくれた。そして、時々私に好きだと言った。
あれは、人型のフィフィに慣れた頃だったと思う。彼は、もし魔王が私に危害を加えなかったら、ずっと猫のまま、私の友達でいただろう、と言った。
想像してみると、とても寂しかった。私は、ずっと彼の本当の姿も知らず、下働きとして働いて死んでいっただろうから。
そうして気づいたことがある、彼が——と言うことだ。
だから、仕方ないのだ。
彼の住んでいる邸宅の窓際で私の意識は微睡んでいた。
いつかと同じように優しい指が髪を撫でて、目を開いたら思ったよりずっと側にフィフィがいて——胸がいっぱいになって悲しくもないのにひとつ涙が溢れた。
「好き」
私の言葉にフィフィは驚いたように一瞬固まった。そしてどこか泣きそうな綺麗な笑みを作る。
私はどんな顔をしているのだろう。
「好きよ、フィフィ」
一度飛び出した言葉と感情は止まりそうにない。
私は彼に泣いて欲しくなくて、頬に手を伸ばした。
「その言葉は聞けないかと少し覚悟していた」
フィフィは私の手を大きな手で捕まえて、そっと唇を落とす。
重ねられた手はとても温かい。
「ガレアの国の新しい情報が入ったんだが、聞きたいか?」
迷わず頷く。
「ロザリーとかいう女、いままで魔物と通じた聖女として裁かれていたが、許されて貴族と結婚するらしい」
「そうなのね」
それはとてもめでたい事だ。
「なあ、ミレーネ」
なあに、と聞き返す。
「俺と——結婚してくれないか?」
至極自然なことでもあるかのようにフィフィは言った。
驚いたけれども、嬉しい。
もちろんよ、と返した私に、ありがとう、と彼は笑う。
「フィフィはなぜそんなに私を想ってくれるの?」
「……俺に争い以外のものを与えてくれたから。恐れ以外の感情を向けてくれたから。あとは……これ以上は秘密だな。さっきまで、たとえ俺のことを好きじゃなくても、嫌じゃなければ結婚してほしいと言うつもりだった」
許してくれるか? と続いた言葉に思わずフィフィを抱きしめた。
「当たり前じゃない」
そんな風に言われるとくすぐったい。
身体を離そうとしたけれども、フィフィはそれを制すように、長身を折り曲げてくる。額に彼の唇が触れた。
「お前に祝福があらんことを」
静かに微笑むフィフィの言葉は、かつての私が彼に贈ったもののよう。
胸が温かく満たされる。
シスターの問いに今なら答えられる気がする。
答えを探すのに、二年もかかってしまったけれど——
「フィフィ、ありがとう。私、幸せよ」
——私は何のために祈るのか。
それは、きっと——幸せのため。彼が私が、人間とか魔物とか関係なく、みんなが幸せであるために。
——私は、何のために生きるのか。
それはきっと、フィフィと幸せになるためなんじゃないかと、今なら思える。
微笑めば、引き寄せられる。私はそっと爪先立ちをした。
唇が重なる。
交わしたキスはどこか祈りにも似ていて、優しく甘かった。
ロザリーは、本当に魔王に恋をしていました。王様の監視下にある貴族と結婚しますが、その後、真実の愛を得ます。