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 ヤズルカは努力して無表情を保っていた。

 もともと、なんら意識しなくても十分無表情なのだが、この時は嫌でもうんざりした顔つきになってしまいそうだったのだ。

 ヤズルカは王弟であるが、成人と同時に臣籍に下っている。

 母の身分が低かった事に加え、兄が既に即位していたため、王族として残る必要はないと考えたのだ。

 兄も兄の母である王太后も、好きにしろと言ってくれたおかげで、多少周りからは煩く言われたものの、無事自分の意思を貫く事が出来たのである。

 王位継承権も放棄してしまいたかったのだが、それは流石に無理だった。 その時点でヤズルカの継承権は第一位。兄に何かあればヤズルカが玉座に座る事になる。

 他に継承権を持つ者と言えば、前王の兄弟であったり降嫁した王女の子や孫であったり、などで血筋や縁が些か遠くなる者たちばかりだった。

 ヤズルカとしては、兄が早々に結婚して子をもうけ、自分の継承権の順位が下がる事を期待していたのだが。

 上手くはいかないものだと、目の前の光景を見てひそかにため息をつく。

 ヤズルカが今居る場所、それは後宮だった。

 もちろん普段は、男性は王以外入る事は許されない。

 けれど今回、王と側室方とでお茶会が開かれることになり、王の警護として幾人かの男の護衛も入る事を許可された。

 ヤズルカは王宮の……この後宮を含む一帯の責任者としてここにいる、のだが。

 既に兄や宰相から、今回の茶会がまったくの茶番である事は知らされていた。紫の方を名乗る娘に、何が起ころうとしていたかも知っている。

 まったく、あの兄は意外な所で夢見がちだと思う。己の娘たちを側室にと、無理矢理すすめてきたあの三家はまあ論外だろうが、他に適当な縁組がないわけじゃ、なかった。国内でも、国外でも。

 それが、あの兄は自分の妃は自分で選ぶと言い張り、王太后もそれを許したものだから……兄にはいまだ妃がおらずそして子もいない。

 いい年であるにもかかわらず、だ。

 そのせいでヤズルカも多少なりと迷惑を被っている。

 臣籍に下ってからは、鬱陶しい縁談も減りこれ幸いと思っていたのだが、 兄に子がないためヤズルカの継承権はまだ一位のまま。そしてヤズルカが結婚し子をなしたとして……その時兄に子がなければ、その子が王位を継ぐ可能性もある。そのような思惑からか、ヤズルカの元へは再び多くの縁談が舞い込んでいた。

 勘弁してくれと言いたい。自分は出来るだけ気楽な身分でいたいのだ、と。

 斬って捨てる勢いで断っているが、相手はなかなか減らなかった。

 兄へ恨み事を言いたくもなるというものだ。


 そして、いま。

 ヤズルカの視線の先には、諸悪の元凶たちが声高にしゃべっていた。

「ねえ、最近女官が減ったと思わなくて?すぐに用が言いつけられなくて不自由してるのよ」

「そうねえ。それより、陛下はまだお越しにならないのかしら。見て、今日の為に衣装を新調したのよ」

「あら、そうなの、実はわたくしもよ。どう、似合っているかしら」

「ええ、とてもお似合いだわ。ねえ……それより、陛下はあの娘にもお声をかけたのかしら」

「まさか!だってねえ、あの娘は今頃は……」

「ほほ、そうね、お声をかけたとして、来られるはずは、ないわねえ。そうでなくとも、あんな貧相な小娘、わたくしたちと同じに扱われるだけでも我慢ならなかったわ!」

「本当にねえ。でももう邪魔者は居りません事よ。ね、この三人のうち、誰が陛下の心を射止めても、恨みっこなしよ?」

「ええ、勿論ですわ!」

 ほほほ、とうつくしく装った姿で笑い合う、女たち。

 いくら容姿がうつくしくともその中身といえば、あまりにも醜い。

 ヤズルカと同じくこの場にいる護衛たちは、皆苦いものを呑みこんだような顔をしている。

 もちろん、側室たちに気付かれるようなヘマはしないが。

 様々な問題には、的確に時には冷酷にさえ処理してきた兄だったが、ことこの問題に関してだけは対応が後手に回っていた。

 その挙句が今の状態だ。

 いずれは婚姻だの後継だのを煩く言われると分かっているのだから、早めに妃を探しておけばよかったのにと兄に言った所、むっつりと口を引き結んで顔を背けていた。

 まあこの現状では、どんな縁組をした所で、あの三人がいびりたおしてお終いになっていた恐れが強いけれども。

 ヤズルカはほそく息を吐き出した。苦い思いを逃すように。

 それでも……それも今日で終わる。



「陛下がお越しです」

 その声とともに、扉が開かれる。

 側室たちは立ち上がり、それぞれに優雅な笑みを浮かべ王を迎えたが。

 たちまち、その笑みは凍りついた。

 王が薄紫の衣装を纏った娘を伴っていたからだ。

 薄紫の衣装は、こちらでよくある型ではなく、布が嵩張らない形のものだ。ほっそりした娘の姿をよく引き立てていて、まるで咲き初めの花のような印象を見る者に与えていた。

 手を取り合ってはいないものの、娘の歩みに合わせて王はゆったりとした足取りでやって来た。

 空いている椅子の一つに娘を座らせて、当然のようにその横に自分も腰を下ろし、それからようやく側室たちに視線を向けた。

「待たせたな」

「っ、いいえ、とんでもございません。お会いできて嬉しく思います。ところで、陛下、その……紫の方は」

 王は紫の方と呼ばれる娘と視線を交わし、事もなげに言った。

「ああ、ここしばらく母上のところにいたからな。そちらに寄って連れてきた。母上がどうやら気にいったらしくて、後宮になど返さずわたくしの棟に居ればいいと喧しかったぞ。それがどうかしたのか」

「いいえ、そうでございましたか。あの、陛下……」

 なんだ、と王は口元を笑みの形に歪めているが、けして笑ってはいない。 その表情に息を飲んで、側室はそれ以上言葉を発する事が出来なかった。

 ヤズルカには側室の葛藤が手に取るように分かる。

 姿を現さない……現わせないはずの娘が現れたのだ。それも陛下に伴われて。尋ねたくとも尋ねられまい。もしも尋ねれば咎められるのは側室たちの方だ。

 尋ねたい、尋ねられない。もしも計画が失敗していたのなら……一体何が起こっているのだろうか、と。

 不安や恐れでたまらないはずだ。そして側室たちの表情には、娘に対する妬みも含まれている。ここに至っても、我が身も省みず人を妬めるものかと呆れ果てる思いがする。

 それにしても、兄も人が悪い。いやもっとも人が悪いのは宰相だろうか。

“意趣返しにね、お茶会を開こうと思って”

 兄もこの側室たちには思う所があるだろう。

 そしてこの娘にも。大人しやかに見える娘が、さてどのように側室たちに“意趣返し”とやらをするのか、些か見ものだなと思っていた。


 めいめいに茶の入った茶碗が渡され、表面上はなごやかに茶会が始まった。

 兄から聞く限り、いつもかしましく王に話かける側室たちは、今日は不安のせいか勝手が違うせいか、先ほどまでの様子が嘘のように大人しく椅子に腰かけている。王はそれを気にした様子もなく、紫の方に話かけていた。

「ほう、そなたは本当に何でも読むのだな。今は我が国の歴史書を読んでいるのか」

「ええ、まだ全部は読めておりませんが」

「国元にも、我が国の歴史書はあったかと思うが、それは読まなかったのか」

「読みましたが、やはり国によって同じ出来事でもとらえ方が違いましょう?その違いを見つけるのが楽しいのです」

「そういうものか」

「陛下はどんなものがお好きですか」

「そうだな……」

 和やかに会話は続く。この場に王と紫の方しかいないのであれば、まこと穏やかな光景であったろう。

 しかしこの場には三人の側室がおり、彼女たちは全く顧みられなかった。王は意図的に紫の方とのみ言葉をかわし、他の側室たちが声をかける隙を与えなかった。

 紫の方も、その不自然さ或いは何らかの意図を知っているだろうに、あくまでも淡々とした声と表情で会話を続けていた。

 ヤズルカが紫の方を名乗る娘に会ったのは、これが初めてだ。

 兄の呆れ果てるような爆笑するような状況は、宰相を通じつぶさに把握していたが、一体どんな娘が現れるのかと興味津々でもあった。

 現れた娘は、ヤズルカのどんな想像よりも違っていて、面白かった。

 側室たちの棘だらけ、いや針のような視線もものともせずに、背筋をのばして優雅に振舞っている。欲を言えば笑顔が欲しいところだが、宰相の言によれば、あまり表情をあらわにする事が苦手な娘らしいので、それは仕方ない。

 大きな声で笑うわけでもなく、大袈裟に相槌を打つわけでもない。それでも時には質問を差し挟み、言葉には耳を傾け、小さく頷いている。

 視線の先では、兄がとても嬉しそうに笑い声をあげていた。

 目的を忘れてはいないだろうな、とヤズルカは少し心配になった。紫の方と兄とでは、主に兄の不器用さが原因で上手く会話が出来ていなかったらしい。それが、この場面においては至極まともな会話が成り立っている。

 あの楽しげな様子は演技ではないな。

 しかし、この先どう転ぶか。側室たちも、二人の“仲睦まじい”様子を見せられて、このまま大人しく黙って引き下がるとは思えなかった。

 紫の方が茶に口をつけ、王も喉の渇きを潤すために茶を飲もうと茶碗を手に取ったとき。

 側室たちが堰を切ったように囀りはじめた。

「陛下、酷うございますわ。わたくしたちと全くお話もして下さらないなんて」

「そうでございますわ。いくら紫の方がこちらに慣れていないからと言って」

「わたくしたちの顔など見慣れていらっしゃるでしょうが、悲しゅうございますわ」

 悲しげな顔や、あるいは拗ねたような顔、あるいはつんと澄ました顔など、表し方はそれぞれであるが、根底は同じ。王の関心をひこうとし、そして新たな側室となった娘を忌避するものだ。

 王はそんな側室たちの内心をわかっているだろうに、鷹揚に笑う。

「まあそう言うでない。私も、あちらの陛下や殿下から、くれぐれもよろしくと言われた事であるしな」

 側室たちは顔を見合わせた。紫の方は、王の娘という立場ながら、もともとは“客人”である。対して自分たちはれっきとしたこの国の貴族であり、その父親は高い地位についている。

「まあ、そうですの。ねえ、紫の方」

 なんでしょうかと娘は静かに声のした方を見やる。口元を扇で覆い隠しながら、側室は嘲るように言った。

「わたくしたちは皆、この国の貴族でしてよ。父は高い地位についているわ。翻ってあなたはどうかしら?」

 娘はしばし考えるふうに首を傾げ、やはり淡々と言葉を返した。

「わたしは、こちらでは縁あって王の娘という身に余る立場をいただいてますが。もとの場所では、日々の糧の為に働いておりました。わたしの産まれた家は特別な地位を得てはいませんでしたし、父母のどちらも、何代先まで家系を遡っても、それは同じでしょう」

「あら、そうでしたの。ねえ、やはりわたくしたちとは随分住む世界が違いますのね。このような場に居るのもお辛いのではなくて?」

 暗に場違いだと嘲る側室の言葉にも動揺は見せず、娘は首を振る。

「いいえ、辛い事はありませんが、居たたまれないとは思います。身に余る立場をいただいてしまったのですから」

「まあ、私たちは自分たちの立場を居たたまれないなんて思った事はなくってよ!」

「そうですわ!この国の貴族である事が誇りなのですから!」

「そうですか。皆さまがたは貴族であられることに誇りをお持ちなんですね」

「そうよ。それが何?」

「わたしは、長年働いてきた両親と、そしてふつうに働き生活していたわたし自身に誇りを持っています。ですが、あなたがたは貴族である事に誇りを持つとおっしゃる。何に誇りをもち、何に価値を見出すかは人それぞれでしょうが……ひとつ、お尋ねしてよろしいでしょうか」

 娘は三人の側室たちを見渡して、言った。

「貴族である事が誇りだと仰る。それならば、あなたがたは“誇り”に対して責任を果たしていますか。その立場に見合う義務を負っていらっしゃるのでしょうか」

 側室たちは意味が分からないと言う顔をする。

「何を言ってるの。何でわたくしたちがそんなもの負う必要があるっていうのよ」

「責任も果たさず義務も負わないのであれば、それは誇りではなく驕りでしかないとわたしは思います」

 側室たちは一瞬言葉の意味が分からないというように目を丸くし、それから顔を真っ赤に染めた。

 ヤズルカは笑いださないように腹を引き締めるのに精一杯だった。

「あなたはわたくしたちを莫迦にしているの?この小娘が!」

 扇を掴む手が怒りの為か震えている。

 怒りで我を忘れた側室たちが、娘を傷付けたりしないように、注意を向けた。他の護衛たちもさりげなく立ち位置を変えている。

 娘は静かな目で側室たちを見ている。

「……いいえ、莫迦になどしておりません。ただ、呆れ果てるだけです。それからもう二度とお目にかかる事はないでしょうから、もう一つだけ。この世は案外公平に出来ておりましてね、自分が誰かにした事は、いずれ自分も誰からされるものですよ。わたしの言った事など皆さますぐに忘れてしまわれるでしょう。そうして二度と思い出されないといいですね」

「……何を言っているのよ……」

 赤い顔を今度は青くして側室たちは声を震わせる。

 娘はふ、と口元に小さな笑みを浮かべて、側室たちをゆっくり見回した。 一人ひとりの顔をよく覚えておく、とでもいうように。

「さあ……けれど、わたしは忘れてはおりませんよ。わたしの大事な人たちを傷つけたことを」

 側室たちはあるいは顔を青くして息をのみ、あるいは席を立って王に縋りつこうとした。

「陛下、あの娘は頭がおかしいのですわ!とんでもない言いがかりを!」

 しかし、王はその手を払いのけ立ちあがった。さも愉快そうに笑いながら。

「これがそなたの“意趣返し”とやらか」

「お聞き苦しいものをお聞かせしました」

「よい見ものであったぞ。だが、いささか手ぬるいな」

「そうですか。では、あとは陛下のよいように」

 娘を促して自分の傍に立たせ、王は遣り取りに目を丸くする側室たちに向き直る。その顔には隠しきれない侮蔑の色が溢れていた。

「陛下、なぜその娘を庇われるのですか」

「なぜ、と言うか。では聞こう、何故そなたらの企みが知られぬと……たかをくくれるものかな」

 王の言葉に側室たちはますます顔色を悪くした。

「そなたらの家が何をしたか、私は全て知っている。そなたたちの家には相応の処分を下す。父親たちは今のところ謹慎させておるぞ。そしてそなたらも、この後宮を去ってもらう」

「陛下っ、何故っ」

 なおも縋ろうとする側室たちを阻むため、護衛がその前に立ちふさがった。

「邪魔よ、どきなさい」

「無礼者っ」

 王はその様子を見ながら、大きくため息をついた。

「そなたたちは他国の王の娘への、誘拐未遂及び傷害未遂に加担したのだぞ。これが公になればとんだ外交問題だ。それとも……本当に何もわからなかったのか?」

 王の視線に射竦められて、側室たちは声も出ないほど震えていた。

 その様子を気にもとめず、王は娘を促しこの場を去るべく側室たちに背を向ける。王の手が娘へと差しのべられた。

 その手と王の顔を交互に見やった後、娘は王の手のひらの上に、自分の手をそっと置いた。

 それから、側室たちを振り返り、一つだけ訂正させてくださいと告げる。

「小娘と呼んで頂きましたが、わたしは実のところ、皆さまよりも年長でございまして。そう、陛下よりいくらか年が下なだけでございますから」

 それではこれにてお別れ致しましょう。

 王に片手を預けたまま、娘は優雅に礼をする。

 そして王と娘はゆったりとした足取りで外へと出ていった。


 あとに残されたのは、体を震わせる女たちと、唖然とした様子の護衛たちだった。


 その顔は語っている。陛下と変わらない年って、まさか、嘘だろう、と。

 ヤズルカも思った。兄とは年がかなり離れているように思え、しかし年に似合わぬ落ち着いた様子であるから、釣り合いはとれるかもとも思った。

 まさに、ひとは見かけによらぬものだ。そして、側室たちを前に言いきった娘の言葉も。

 面白いと心底思う。あの娘が兄の傍にいてくれたらいいのに。先ほどの兄との遣り取りを見るに、兄に対して構えた様子もなく必要以上に謙る様子もなく、ごく淡々と振舞っていた。そして兄はそれが嬉しいらしい。

 これで、兄がとんでもない不器用さを発揮しなかったら、もう少し仲が進展していたかもしれないが。

 何はさておき、懸念であった側室問題はこれでけりがつきそうである。

 しかし。

 兄の一番の正念場は、もしかしなくとも、これから始まるようだった。

 さて、これからどうなるか楽しみだと、ヤズルカは心の中で呟いたのだった。


                            


              

 宰相曰くの“意趣返しのお茶会”の後。

 キリはトリシャともども王太后が滞在されている棟で過ごしている。

 他国からの預かりもの、という立場から一人で気軽に動き回る事は出来ないが、それでも後宮に居る時よりは格段と過ごしやすくなった。

 トリシャなどは、ああようやく深呼吸できる気分ですと言って大きく息をついていたものだ。

 キリの身の回りの世話については、今まで通りトリシャが行っている。

 ここで過ごすようになって、他の女官たちとも仲良くやっているようで、キリは少しほっとした。

 後宮では、トリシャはいつも神経を尖らせていたから。いつもいつも気を張り詰めていては、やがては体が参ってしまう。その前でよかった……と思ったのだ。

 せっかく西の国に来たんですもの、時々は侍女をお休みして、街にでも遊びに行かせてあげましょう。

 キリはそう考えて、この棟を取り仕切る女官にも相談した。

 キリから言いだしたのでは、おそらくトリシャは頷かないだろうから、トリシャと仲良くしている女官から誘ってもらえたらと思ったのだ。

 女官はそのように致しましょうと請け負ってくれた。

 この棟にやって来てからというもの、キリの“日常”はまったくの平穏である。

 ついこの間までの、神経を張り詰めていた日々が嘘のようだった。

 ここでキリがする事といえば、皇后陛下のお茶や話につきあったり、本を読んだり、うつくしい庭を散策したりすること、くらいである。

 そう、ここへ来てようやくキリは外に出られるようになった。

 王宮内の、それも奥まった場所が殆どであるが、それで十分だった。いくつもある庭はどれも見事で、それぞれに趣きが違っている。庭師によって丹精された庭は、何度歩いても飽きる事がなかった。

 自分の立場や、結局は籠の鳥である事、を忘れたわけではない。

 けれど、こうした日々を繰り返してゆけば、やがてはここを去る日が来るのを待つ事が出来るだろう、そう思っていた。

 だけど。こんな“日常”はまったくの予想外だ。

 キリは密かにため息をつく。

「ほら、あそこに白い花が咲いてるぞ」

「……ええ、そうでございますね」

 陛下、昨日も一昨日もそう言われませんでしたっけ。

 キリはその言葉は呑みこんで、ただ簡潔に頷いた。

 なぜ、この人がここに居るのだろう。

 キリが庭を散策していると、非常にしばしば陛下に出くわすのだ。

 初めは陛下の執務室にでも近いのかしらと思ったが、どうやら違うらしい。まさか、アラム陛下のように、仕事を抜けだして出来るだけ見つからないような場所で息抜きをされているとか。

 首をかしげつつも、そのまま一緒に散策を続けていた。

 息抜きであるなら、キリが詮索することではないし。

 ただ、陛下の言動が、相変わらず不思議というか。

 後宮での会話のような、奇妙にすれ違ったものではないのだが、ある意味では噛みあっていないかもしれない。

 ああ、あちらの国ではそうだったと思いだしだけれど。

 そして以前とは違うことがひとつ。これが自分にとっては最も大きいかもしれない。

 王は片手で咲いている花を示し、もう片手でキリの手を握っている。

 そう、キリは王と手を繋いで庭を歩いているのだった。



 あれは、“お茶会”について陛下と宰相も交えて打ち合わせをしていた時のことだった。

 王太后陛下の滞在される棟の、こぢんまりとした居間でお茶を飲んでいた。こちらの棟は全体的にすっきりとしたつくりで、あまり派手派手しくはない。こちらの国にしては珍しいと思っていると、それを察したのか宰相が教えてくれた。

「他国のお客様の中には、無駄にきらきらしいのが苦手な方もいらっしゃいますからね。こういうところも準備しているんですよ」

 そうですかと納得して頷いていると、少し不機嫌そうな声で陛下が口を開く。

「茶会とやらの打ち合わせはいいのか。さっきから無駄話ばかりじゃないか」

 そうなのだ、打ち合わせと言われたものの、本題にはちっとも入っていない。いま流行りのお菓子は食べたかとか何が好きかとか、他愛のない話題ばかりを宰相は振って来たからだ。

 キリは律儀にそれらに答えを返しつつも、いつ本題に戻ろうかと考えていた。あまり口のうまくない自分では、立て板に水とばかりに話す宰相にかなうわけもなかったけれど。

「はいはい、これから話します。おや陛下、怖い顔になってますねえ。そんなんじゃ怖がられますよ」

 煩いと陛下はそっぽを向いてしまう。宰相は気にせずに話しだした。

「ああ、お茶会の件ですが、側室方はあなたが後宮に戻って来ないものと思いこんでますからね。そこへあなたと陛下が仲睦まじく現れたら、騒ぎ立てて勝手に自滅してくれると思いますよ。そこで、彼女たちに言いたい事があればなんなりとどうぞ。陛下もそこで引導を渡すおつもりでしょうし」

 以上ですが、なにかと微笑まれ、キリはゆるゆるとため息をついた。

 その内容なら、わざわざここへ来られなくともと思ったのだ。

 それも、王と宰相の二人が揃って。

「わかりました。でもお話がそれだけなら、伝言でもよろしかったのでは?お仕事は大丈夫なんですか?」

「これも息抜きのひとつですから、お気づかいなく」

 にこりと微笑まれては、そうですかと答えるしかない。

 宰相は優雅な手つきで茶碗を持ち上げているし王も渋い顔のまま茶を飲んでいる。息抜きになっているのは宰相だけではなかろうか。

 そこでふと、キリは先ほどの宰相の言葉を反芻した。

 仲睦まじい様子で現れるのは、王と自分。

 具体的にはどんな様子で、なのだろうか。

「宰相さま、あのお茶会の事ですけど」

「はい、何でしょう。勿論警備は万全ですからご安心下さい。お茶会の場には警備責任者のヤズルカ殿下もおりますし、あなたに危険はありませんから」

「いえそうではなく、あの、陛下と……仲睦まじい様子でとか、具体的にはどのような」

「あ~それはですねえ~……」

 何故かそこで宰相は王に目配せをするも、王は顔を赤くし首を振るばかり。宰相は小さく何ごとかを呟いたあと、たとえばですねと指を折りはじめた。

「たとえば、陛下があなたの肩を抱いて現れるとか、こう腰を抱き寄せて登場するとか、もしくは……」

 その先はわからなかった

 何故なら王がいきなり宰相の頭をぺしりとはたいたからだった。

「お前は碌でもないことばかり言う」

「でもマジメな話、それくらいした方がはっきりしていいんじゃないかな~と、あれどうされました、顔色が……」

 どうしようとキリは思った。宰相の案はそれほど的外れなものではない、と思う。その場に立つのがキリでなければ、まあ妥当ではなかろうか。

 ただキリの方に事情があって、それをどう言えばいいのだろうと悩んでしまう。下手に言えば、それこそ“側室”として来ておきながら何を言うのだと呆れられそうだ。

 そこへ、部屋の隅から声があがる。

「恐れながら、よろしいでしょうか」

 キリの侍女として控えていたトリシャが口を開いた。

「うん、何かな~?」

「今までお話しておりませんでしたが、実はキリさまは……」

「え、ちょっとトリシャっ、待ってっ」

「待ちませんよっ、出来ない事は出来ないって初めに言っておいた方がいいに決まってますからっ!」

「ええ、だからどのように言おうかと思ってた所ですって!」

「あら、そうでしたかすみません、さしでがましいことを」

 途端にトリシャはぺこりと頭を下げて、また侍女の澄ました顔に戻って控えている。

 言おうと思ったのも事実だけど、言いだせそうになかったのもまた事実。 きっとトリシャはそれを見越してこんな事を言いだしたに違いない。

 宰相も王も、不思議そうにこちらの遣り取りを眺めていた。

「お見苦しい所をお見せしました……」

「それは構いませんが、出来ないとは何が?」

「実は……わたしは男の方が苦手でして、触れるのも触れられるのも駄目なんです。ほんの小さい子どもや、お年を召された方は平気なんですけれど。ですので、宰相さまが仰られたような登場の仕方は出来ないと思います」

「おや、それはそれは……」

 宰相さまは王と顔を見合わせた。そして何やら王の肩を何度も叩いている。その口元の辺りが奇妙に歪んでいるように見えるのは何故なんだろうか。

 それを尋ねる間もなく、王が低い声で呟いた。

「そんなことで、よく側室の話を受けたものだな」

「ええ、普通ならまずお受けしません。でも今回のお話は、違いますでしょう?陛下にしても、色とりどりの花がいらっしゃるのですから、名目上迎えた側室に手を触れる方ではないでしょうし。そう信頼もしておりましたが、それが何か」

 今度は王の顔が奇妙に歪んでいた。怒っているような泣きそうな複雑な顔だ。そして宰相は遠慮なく腹を抱えて大声で笑っていた。

「……ははははっ、うわ~信頼されてるじゃない陛下っ!良かったねえ……っ、駄目だ止まらないっ、ふふふ」

「うるさい、黙れ」

 地の底を這うような低い声で王が言っても、宰相は笑うのを止めなかった。本当の事を言っただけなのに、どうしましょうかと困っていると、横からそっとトリシャが囁いた。

「キリさま、放っておかれた方がいいですよ」

「でも」

「キリさまは分かられなくていいです。取りあえずお茶でも飲んでいて下さい」

 新しいお茶を渡されて、仕方なくそれに口をつけた。茶碗の中身が半分に減る頃、ようやく笑いをおさめた宰相が目じりの涙を拭いながら席に座りなおした。

「ああ、どうもすみません。けしてあなた様のことを笑ったわけではありませんので、それだけはご理解下さい。あ、あまりにもコレが不憫で……っ、いや失礼」

 コレ、と言うのは陛下の事だろうか。

 王と宰相は幼馴染であると聞いた事がある。

 人目のない所では堅苦しい言葉づかいではないのだろう。

 ……不憫?

 煩いと言わんばかりに王が宰相の肩を小突く。その顔はあらぬ方に向けられどんな表情をしているのかはわからなかった。

 ただ、こちらから見える耳は真っ赤に染まっていた。

 首を傾げる間もなく、宰相は言った。新しく淹れてもらったお茶を美味しそうに飲んでから。

「そういう事でしたら、出来るだけ側によって歩いて下さるだけで結構ですよ。何、仲よさそうに見せる方法は幾らでもありますから。そうですね、側室方に目もくれずあなた様とばかりお話頂くとか、ね」

「そうですか……」

 キリは少し安心した。自分の言葉をすんなり信じてくれたのは嬉しいのだが、どうにも反応が予想していたものとは違うような気がする。ことに王の様子が。

 行儀悪く椅子の上で足を抱えそっぽを向いているさまは、まことに失礼ながら途方に暮れた大型犬のようだと思った。

 これが本当の犬なら背や頭を撫でてやるのだが。

 キリは自分の手のひらを見つめ、ふとある事を思いついた。

 確かめるにはいい機会かと思ったのだ。席を立ち、王の正面に回り込み、手のひらを上に向けて差し出した。

「陛下、ここに手を置いてみていただけますか」

「何だ……?あ、」

 おそらく王はその瞬間、何も考えていなかったに違いない。

 ぽん、と大きな手がキリのてのひらに載せられる。

 お手、をする犬のように。

 数瞬遅れて白い手のひらの主……キリの顔を確認して、ぴきりと硬直した。

「あっ」

「おや」

 トリシャは驚きに目を見開き、宰相は面白そうに目を眇めた。

 キリは王の体温を手のひらで感じながら、なおも首を傾げている。

 この前は咄嗟の事だったからと思ったのに、今こうしていても特段嫌な感じはしない。いつもだったらとっくに手を振り払っているのに。何故なんだろう。

 王は自分から手を振り払えないのか、手を差し出したままの姿勢でぱくぱくと口を開けたり閉じたりしていた。

「ああ、もうしわけございません。ありがとうございます」

 キリは王の手をそっと放し、元の席に戻る。トリシャが不思議そうに声をかけてきた。

「キリさま、これは一体……?もしかして、男の方が平気になったとか?」

「いえ、この前助けていただいた時、平気だったので、ちょっと確かめてみたのですけど……やはり平気ですよね……何故でしょうか」

「ええと、それはもしかして」

 言いかけて何故かトリシャは口を閉ざす。

 キリはそれに気付かず、思い当たった事を口にした。

「ああ、あちらの陛下や宰相様とも平気ですから……おそれながら陛下もその括りなんでしょうか……」

 それにしては年齢がと思いながら、視線を陛下に向ける。間違ってもキリの父親あたりには見えない。

「キリさま、お聞きしてよろしいですか?や~もしかしたら約一名をどん底に突き落としそうですが」

 なんでしょうと宰相に向き直る。青い目をきらりと光らせ、彼は楽しそうに尋ねた。

「“その括り”って何の事でしょう」

 非常に言いにくいが、ひいてくれそうにない気配だ。

 キリは王の方を見ないようにして答えた。

「……父のような年配の方、ということ、ですけれど」

 それを聞くなり何故か王の肩ががっくりと落ちた。

 それから、聞こえてきた呆れるような声。

「……キリさま……」

 後ろを振り返ると、トリシャが大きなため息をついている。

 何か変な事を言ったのだろうか。

 確かにまだまだお若い方を掴まえて父親扱いは変だろうが。

 宰相はそこでトリシャに話かける。

「まあ、おいおいわかっていただこうか」

「いえ、おわかりにならなくても結構かと思います。その方がよりキリさまの為かと」

「おや、君はこちらの味方ではないと」

「キリさまが望めば別ですけれど、そうでないなら味方ではありませんのでその旨ご承知下さいませ」

「外堀からは埋められないねえ……」

 二人とも何の話をしているのか、さっぱりわからなかった。それより何やら落ち込んだ様子の王が気にかかる。

「あの、陛下?」

 顔を覗きこもうとしたら、ふいと逸らされる。

 不貞腐れたトールやルーシャスのような様子に、思わず笑ってしまった。 こちらに来てから手紙の一つも書いていない。あちらからは何通も手紙をもらっていた。女官が手元に留め或いは処分したせいで、キリの元へは殆ど届かなかったのだ。幼い子どもの事だ、自分の事などすぐに忘れると思ったけれど、たどたどしい筆跡の手紙を読むとやはり嬉しいと思えた。

 あちらに居る人たちへ、少しでも何か手紙を書こうか。

 元気に過ごしています心配しないで下さいと。

「陛下?」

「……なんだ」

 顔は強情に背けたまま、ぶっきらぼうな返事が返る。

「お茶を淹れなおしますから、このお菓子も召しあがりませんか。とても美味しいです」

「……旨いか、それ」

「ええ、とても」

「それなら、また持ってきてやる」

 木の実やくるみがたくさん入った、あまり甘くない焼き菓子だった。王宮にあるにしては素朴なお菓子であるなとは思っていたのだが、あまり凝ったお菓子よりもこちらの方がキリは好きだった。

 王が持ってきたものとは知らなかった。

「ありがとうございます、是非、お願いしますね」

 綺麗な衣装や装飾品は受け取りがたいけれど、こういうものなら遠慮なく貰ってしまおう。

 何も要らないと言い続けるのも、考えてみれば失礼な話であるのだし、と。


 キリたちを眺めながら、トリシャが難しい顔をしてため息をつき、宰相が人が悪そうに微笑んでいた事など、全く気付かなかったのだ。



 “お茶会”は何とか終了し、側室方は皆家に戻された。

 彼女たちのその後を、キリは知りようがない。広い後宮は閉鎖され、働いていた女官たちは殆どが解雇されたらしいと聞いた。

 キリは唯一の側室という立場で、王太后の滞在する棟で過ごしている。

 王太后のお茶につきあったり話し相手になったり、本を読んだり散策をしたり。

 そういう日々を過ごして、やがてはあちらの国に戻るのだと思っていたのだが。


 この状態は一体何だろうか。

 王に手をひかれて整えられた庭園を散策している。

 やはり、初めに手をひかれて歩いたのがいけなかったのか。

 もしくは手を離せないほど危なっかしく見えるのか。

 どちらにせよ、散策の時に王は眉間に皺を寄せたまま手を差し出してくる。怒ったようにも不機嫌そうにも見えるその顔に、何度か断ったものの、そのたびに顔を泣きそうに歪めるものだから。

 仕方がないんですと何かに……誰かに言い訳しながらキリは手を差し出す。その手をそっと握られ、手をひかれながら緑あふれる見事な庭園を歩き回る。


 そして、今日も。


「ほら、そこには白い花が咲いているぞ」

「ええ、そうですね。とても綺麗です」

「……そ、そなたに……っ」

「はい、何でしょう」


「……なんでもないっ」

 はあ、と首をかしげつつも、手をひかれるまま庭園の中をあるく。

 ふと見上げた王の耳が、赤く染まっている事を不思議に思いながら。


 一番不思議なのは、この手を振り解こうと思わない自分なのだけど。




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