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その言葉を聞いた時には愕然とし、それから目の前の状況に目を疑い。
そして最後には地面に埋まりたい気分になった。
遠慮なく笑い転げていた宰相には無論、報復をしておいた。
精々仕事の山に埋もれていろ。
いや、今はそんな事を考えている場合じゃない。
「陛下、あの……」
差し出された手を困ったように見つめる娘。
それでもこちらがひかないのを見て取ってか、仕方ないといった様子で手のひらを預けてくる。細い手は簡単に握りつぶせそうで、頼りない。
けれどこの手が幼い子どもを抱きあげあやしている様子を何度も見た。
見た目よりもずっと強い事を知っている。
それでも、そっと手を握り、見慣れた庭園の中を歩きだす。
娘が明確に拒否の言葉を吐かないのなら、そして自分が触れても拒絶しないのなら、こうして“外堀”を埋めていくしかないのだと思った。
気のきいた言葉一つ言えず、娘と別れた後、地の底まで落ち込んだとしても。
側室たちとの茶会の前に、娘の口から出た言葉にはとても驚いたと同時に、納得もした。
いつぞやか顔を青くして自分を見上げてきた娘の事が頭をよぎったからだ。あの時は自分も酷く恐ろしい顔をしていただろうし、何より男に触れられるのが苦手ならより怖かっただろう。
一言謝りたいと思うのに、口は勝手に違う事を言っていた。
「そんなことで、よく側室の話を受けたものだな」
ああ、こんな事が言いたいのじゃなくてだなと焦る自分を知るはずもなく、いやそれは本音でもあるが(なにせ形だけとはいえ側室になるのだぞ?あちらの国の陛下や殿下はそりゃあもう書簡やら使者やら色んな手段を使って、あくまで形だけですのでと念押ししてきた。
背後に手出しするなよという恫喝が透けて見えた。
普通ならあり得ないだろう形ばかりの“婚姻”だ。それは重々承知している。不用意に触れるつもりはなかったが、近い所に居るのだ。もっと色んな話をして少しでも親しくなって、そして少しでも……怖がらせないように触れられたらとは思っていた、実のところは)一般的に言って側室といえば、娘が苦手な“触れられる”以上の事をするわけで。
そのあたりの事はどうするつもりだったのか疑問ではあった。勿論東の国の問題が片付くまでは手出しするつもりははなからなかったのだが。
そんな事をしてみろ、とても恐ろしい結果が待っている。
そう思っていた自分に、淡々とした娘の声が返され、その内容に打ちのめされてしまった。
……そう、信頼ね、有り難いような、嬉しくないような。
つまりはこの娘にとって、自分は全くの対象外であると?
腹を抱えて笑っている宰相を蹴りだしてやりたいが、ここで殴る蹴るの行動に出るわけにはいかないと思いとどまった。
行儀悪く足を椅子の上に引き上げて抱え込み、ふいと顔を背けた。
そうしていると不意に手のひらが差し出され、そこへ手を乗せろと言われる。何の気なしにぽんと手を置いた。ちいさな白い手のひら。手首を辿り腕、そして次いで持ち主の顔を見上げるに至り、硬直した。
先ほど男に触るのも触られるもの苦手と言っていなかったか?
これは一体どういう事なんだろう。
声にならずぱくぱくと口を開けたり閉じたりしていると、娘は手を離してくれたが、そうすると急に離れる体温に寂しい気持ちにもなる。
次いで聞かされた言葉に、今度こそ打ちのめされたのだが。
もう立ち直れないかもしれない。
そうか、子どもやある程度の年配の者なら平気か……自分はどう見ても子どもではないので、消去法で“父のような”か。引き合いに出されたのがあちらの国の王や宰相であるあたり……何だか泣けてきそうだった。
それでも。
顔を背けたままの自分に、娘は話かけてきてくれる。優しい言葉の一つかけてやれず、気の利いた事も言えず、そしてまだ謝る事すら出来てないのに。
自分が城下で買ってきた菓子が旨いと言ったので、また持ってきてやると言えば娘は仄かな笑みを浮かべて礼を言う。
衣装や装飾品を贈ってもよい顔をしないとわかっているが、こういうものなら受け取って貰えると分かった。それなら、先ほど宰相があれこれ聞いていた娘の好みも考えて……と頭の中であれこれ考える。
もしや、宰相の先程の無駄話はこの為かと思ったが、誰が感謝などしてやるものか。
母のもとで、娘は穏やかに暮らしているようだ。
三家との一連の出来事の収拾やその他の問題に追われ、なかなか時間を作って娘の元を訪れる事が出来ないでいた。
顔を出した所でまともに話が出来るのかと宰相は要らぬ事を言うが、それはひとまず置いておく。
茶菓子にでもと娘が好みそうな菓子は届けさせていたが、それには毎回律儀に礼の手紙が返される。お時間があればお茶でもご一緒にいかかですかと書かれていた時には舞い上がりそうに嬉しくなったが、それも社交辞令の一つだろうと思い直し、ため息をこぼした。
全く、うまくいかないものだと思っていると、呆れたような声とそれ以上に遠慮のない視線が飛んできた。
「お前ねえ、そんな辛気臭い顔してため息つかないでくれる?もうこの部屋黴が生えそうで嫌なんだよねえ」
「うるさいっ、何の用だっ」
宰相はにこりと笑うと、執務机の隅に積まれている書類を指してきた。
「それが必要なんですが、いつになったら処理していただけるんでしょうかね、国王陛下」
「……今から見る、少し待て」
「お早くお願いしますよ」
そう言うと宰相は部屋の隅にある長椅子に腰かけて、用意されている茶を飲み勝手に寛いでいる。
何やら悔しいが、仕事を放っておいた自分に何が言えるはずもなく。
ただ黙々と処理をすすめる。宰相は勝手に茶菓子にも手をつけ、あ、これ美味しいとかほざいていた。
それは自分があれの好みに合いそうだと思って買ってきたものだった。
娘の所にも届けさせ、いくらかは自分用に持ってきたものだ。
どんな味だったか知っておきたいと思ったからだ。それを遠慮もなく宰相は食い散らかしている。眉間の皺が深くなるのを自覚しながら、ただひたすら仕事をすすめたお陰で。仕事は思ったより早く片付いた。
「出来たぞ」
「はいはいお疲れ様でした。う~んと、これで大丈夫そう、かな。何かあればまた知らせるね。これに懲りたら仕事溜めこむのは止めてよ、ほんと。どこぞの陛下じゃあるまいし」
「……悪かったな」
「まあ一応これも片付いた事だし、ご褒美にいいこと教えてあげるよ。あの子、最近日に一度は庭を散策してるんだって。ああ勿論護衛は付けてるよ。で、時間は毎日このくらい。何日か続けて同じ所に行くそうだから、今日は多分あそこかな」
宰相はある一つの庭園を告げる。娘の居る棟からはほど近い場所にある庭園だった。
「……少し抜けてくる」
宰相は手をひらひら振ってそれに答えた。
「いってらっしゃい~会議が始まるまでには戻ってきてね~」
近道を抜けて娘が居るであろう庭園までやって来た。
整えられた緑溢れる庭は、あちらの国の庭と趣は違うだろうが、少しでも娘の慰めになればいいと思う。
ここに娘は居ると宰相は言っていたが……辺りを見回していると、娘の姿が見えた。娘はこちらに気付かずに装飾的に配置された石の上を歩いている。近寄ろうとして、ぴたりと足を止めた。
何と言って声をかける。偶然だなとでも言うのか、それはあちらの国で散々言ったな。
ここは執務室からは遠い。偶然通りかかる場所ではない。ならば素直に顔を見に来たと言えばいいのだ、今度こそはそう言うぞと自分に強く言い聞かせて娘の方を見て。
何かを考える間もなく、慌てて駆け寄った。敷石に足を取られた娘が、転びそうになっていたから。
「危ないっ」
「きゃ……っ、え、陛下?」
すんでの所で娘の体を支える。娘は咄嗟にしがみついてきたものの、すぐに顔を上げ目を丸くしていた。
「怪我はないか」
「ええ、ありがとうございます。ちょっと躓いたようです。あの、陛下はなぜここに」
さあここで、そなたの顔を見に来たのだと言う事が出来れば。
「……偶然通りかかっただけだ」
やはり言えなかった。
肩を落とすこちらには気付かずに娘はそうですかと頷き、こちらの言葉を疑う素振りもない。
そして、未だ体を抱える腕を嫌がる気配もない。
これは嬉しいのか悲しいのか、微妙な所だとため息をつきたくなるが。
諦めるものかと思う。
娘の体を離し、けれど手は取ったまま歩き出せば、案の定娘からおずおずと声がかけられた。
「あの、陛下、どこへ行かれるんでしょうか」
「息抜きの散歩ついでに、庭園を案内してやる」
「ありがとうございます、でも……」
「また転ばれたらかなわぬからな。手を引いてやる」
「……ありがとうございます」
半ば断られるかと思っていた。
娘の事だ、お忙しいでしょうから結構ですなどと言うのではないかとも。
娘に気付かれぬよう安堵の吐息をこぼし、さてこの庭園のどのあたりがもっともうつくしいだろうかと考えていた。
それから。仕事の合間に娘と庭を散策する日々が続いている。
仕事の合間を抜けてくるわけだが、それくらいならいいよと宰相は何やら嬉しげだ。いわく、時間を作るためにがんばって仕事をしてくれるから、処理の速度が上がって万々歳だと。お前を喜ばせるためにしているんじゃないぞと言えば、うんわかってるさ、あの子に会うためなんだよねえ。でもそれちゃんと言ってるかな~。
悪かったな、どうせ顔を合わせる度に、“偶然だな”としか言えていない。
度々顔を会わせているのに、あくまで偶然だなと言うこちらを、娘がどう思っているかは、わからない。
娘は言葉を疑う事なく、小さく頷いて。
差し出した手のひらの上に、その小さな手を預けてくれる。
そう、初めて手を取って庭を散策したあの日から、散策している間は娘の手を引いていた。
言葉では何一つうまく伝えられないが、ならばせめて触れあう手で伝えられないかと思ったのだ。娘の手をひき、ゆっくりと花が咲く小路を歩く。
娘に触れる事ができても、話す事と言ったら後で思い返す度に頭を抱えるようなものだ。
宰相に言えば笑われるか呆れられるか……もしくはその両方だと想像出来るから、けして言わない。
娘がこちらの言動をどう思っているのかは、わからない。
初めは手を差し伸べるたび困ったように断っていた娘も、こちらががんとしてひかなければ諦めて手を預けてきた。そうして今ではこちらが手を差し出すと、躊躇いなく手を預けてくれる。
その時に浮かぶ小さな笑みの意味がわからないけれど。
いつまでもこの日々が続くわけではない。それはよくわかっていた。
初めから“仮のものである”と取り決めをしていたからだ。
あんな取り決めをしなければよかったと悔やむ半面、“仮のもの”でなければ、そもそも娘はここへやって来なかっただろう。
もう少しだけ時間がほしい。そうしたら。何かに祈るように願ったところで、時間が過ぎるのを止められるはずもなく。
すぐそこまで、その時はやって来ていたのだ。
意外に早かったわ。その知らせを受けた時トリシャはそう思った。
西の国へ行く事になり、もしかしたら数年は帰れないかもしれない、その覚悟もしていたからだ。国を離れ家族とも離れる事になるが、それよりもキリの傍に居る事を選んだのだ。本当に数年をこの地で過ごす事になっていても、けして後悔などはしなかったと断言できる。
まあ、側室たちの嫌がらせが何年も続いたらね、ちょっとは考えただろうけどと思うものの、その場合もやられっぱなしではいるつもりなど、さらさらなかった。誰が仕出かした事か露見しない方法でいくらでも報復をしてやっただろう。
あの側室たちがした事は、彼女たちが後宮を辞した今でも許しがたい。
もう少し後宮の勝手が掴めていたら。もう少し味方を増やせていたら。トリシャは反撃に出ていただろう。結果としてその機会は失われ、トリシャはキリとともに王太后陛下のおられる棟に居場所を移し、穏やかな時を過ごしていた。
トリシャはキリの身の回りの世話をしながら、他の侍女や女官たちとも親しくなった。時々はお休みを貰って街へ出る事もあった。キリも好きな本を読んだり庭を散策したり、また王太后の話し相手になったりして日々を過ごしていた。
このような日々が続いていくのなら、いい。時々、キリが辛いような顔をしてため息をつくのを見てはいたけれど、それには気付かないふりをしていた。
あちらに居た時も見た表情だったから。
やはり、キリさまは……。
トリシャに気付くと、すぐにキリはもとの淡々とした表情に戻り、首を傾げて見上げてくる。
まだ大方の女性からすれば短い髪の毛を首の後ろで一つにまとめ、そこに花弁を重ねたような細工の簪を挿している。見につける衣装はあまり体を締め付けず、布を幾重にも重ねた形のものだった。どちらかといえば東の国の衣装に似たものだ。
王太后陛下のおられる棟では、流石に男装は出来ないでしょうねえと諦めたように言ったキリの言葉をどこで聞かれたものやら。
少しでも体が楽な衣装を準備させたのでな。そうにっこり笑って王太后陛下はたくさんの衣装やら装飾品やらを贈って下さったのだ。
なに、それらを身につけたところを見せてくれればいい。それで話し相手にでもなってくれれば礼は十分じゃ。
恐縮するキリに、王太后は鷹揚に笑った。
若い娘が居れば、それだけで場が華やかになるからの。
そう言われては贈り物を断るわけにもいかない。
結果いつぞやかトリシャがキリに言ったように、キリは女ものの衣装を身にまとい、日々を過ごしている。
まったく、陛下は母上の爪の垢でも煎じて飲まれればいいのに。
庭園で陛下とキリが散策している様子を遠目に見ていた。なんともじれったいものだと思いながらも……トリシャは自分からキリに何ごとかを問う事はしなかった。
キリが何かを望んでいたとしても。口に出されない願いを先回りして叶えるわけにはいかないからだ。
トリシャに出来る事は、キリが心地よく穏やかに日々を過ごせるように気を配る事、そして何かを決断する時には、問いかけてやる事だろうと思っていた。
本当にそれでよろしいんですか、と。いまだその機会は訪れていなかったけれど。
「それは本当でございますか」
思わず耳を疑い問い返していた。
「え、嘘つくわけないじゃない。残念ながら本当です。あ~あ、もう少しかかると思ってたんだけどねえ」
トリシャの目の前には、肩を竦めてためいきをつく宰相の姿がある。
残念ながらって何が。その思いが顔に出ていたんだろう。
あれがね、と宰相は庭園を散策している陛下とキリさまを手のひらで示した。
緑あふれる庭を、陛下に手をひかれて歩くキリが見える。
「だって、陛下ったらちっとも進歩してないし。手に手を取って、ただ散歩してるだけ?おまけに話の内容聞くともう呆れたものだし。あそこまで陛下が情けないとは思わなかったなあ」
何を話しているのか、ここからでは全く聞こえない。が。
話している内容は想像できる。あの花がどうだ、あの木がどうだ、この庭園は何代の王の時に作られて……など、およそ色気もへったくれもない話題であろうから。
「その衣装似合っているとか、可愛いとかぐらい言えばいいのにねえ。そうしたら、少しはキリさまも、もっと違った目で陛下見るかもしれないのに。完全対象外、じゃなくてさあ」
トリシャ相手にであれば、宰相はかなりくだけた口調で話すようになった。何かと話をする事が多く、いつの間にかそうなっていた。
その言葉に、トリシャは控えめな反論をする。
「そうでしょうか。多少何を言われたとしても、キリさまがお考えを変えられるとは思いません」
「そうなの~?う~ん、じゃあきみがちょっと手助けしてよ。陛下の言動にも大いに問題ありだけど、どうもきみの主もよくわからないんだよねえ」
「ええ、恐れながら陛下の言動、ことに後宮においてのお言葉は今思い返してもかなり酷いものでございました。今のご様子を拝見しても……ええ、大変不器用な方であられるのは理解致しましたが、それだけでございます」
「つまり?もうはっきり言っちゃっていいよ」
「それでは恐れながら。……面倒な方はごめんです。キリさまとの間のなかだちなど、頼まれても致しません」
「あははは~確かにあれは面倒くさい男だしね。自分が好いてない女は適当にあしらえるのに、何で好きになった女に限って、ああもけったいな言動に走るかねえ。それでも、キリさまもあれに好意を持ってくれてる、でしょ?そうじゃなきゃ、触れる事なんて出来ないはず。違う?」
トリシャはため息をついた。男の人が苦手だと言うキリ。
触られるのも触るのも……子どもや年配の人を除くと、後は父親のように思っているというアラム陛下やカディージャ宰相くらいのものだった。
リヒト殿下でも駄目だったのに。
あの日。キリが陛下の手に触れた時、トリシャは大声で叫びそうになるほど驚いたのだ。
そして続くキリの言葉にへなへなと床にへたりこみそうになった。
しかしキリの勘違い、もしくは目を逸らしているであろうことを、トリシャは正そうとは思わなかった。
何分にもこの国の陛下は、立場も性質も厄介だから。
キリの望む穏やかな暮らしの為には、見なかったふり気付かなかったふりをするのがいいと判断したのだ。
ましてキリが何も口にしない以上、トリシャがその心情を先回りしたとして。
キリがそれを肯定するはずは、ない。
トリシャはキリに目を向けたまま、口を開いた。
「さあ……それにはお答えしかねます。けれど少しだけキリさまの事をお話させて下さいませ。キリさまはご存知のとおり、“客人”で、いまはアラム陛下の養女でいらっしゃいます。初めはなかなか、養女になる事を承知していただけませんでした」
ほんの二年ほど前のことだ。あの時もなかなかに大変だった。
リヒト殿下の説得にもアラム陛下の懇願にもなかなか頷いてはくれなかった。最後の決め手は双子のお子様たちの泣き落としと、世にも珍しい宰相の微笑みだった。それらに根負けした形で、キリはとうとう了承したのだけれど。トリシャは知っている。
「キリさまは、保護だけで十分、こちらに慣れた後は何か仕事を紹介してくれればそれでいいと仰られて。王城で保護されることも、まして養女になる事にも納得いかない様子でございました。そんな立場は自分には似合わないと言われて。自分一人の身なら、働いてどうにか養っていけるだろうと言われまして。おそらく……今もそのお考えはお持ちでしょう。いまはまだ、陛下や殿下がたの望むとおり王城で暮らされていますが」
今後はどうなるか、わかりかねます。
そうかあ、と宰相様は大きくため息をついた。片手で金の巻毛をかき回している。
「あれの立場に釣られないのはいいんだけどねえ。いやそれどころか要らないのか~……それを上回るくらいの気持ちがなけりゃ、ホントは何を思っていても蓋をしちゃいそうだねえ。あれもまた難しい相手を好きになったもんだ」
「難しい相手と仰られるなら、諦めるよう進言されてはいかがですか。宰相様にとっても、お世継ぎの問題は重大事ではありませんか」
このまま進展が難しい相手に関わっている時間など、惜しいのではないでしょうか。
陛下の妃になりたがる女など、国内にも国外にも大勢いらっしゃるでしょうにと言えば、宰相は出来の悪い弟を見るような目を王に向ける。
「そうだけどねえ。まあ今は多少猶予があるし、どうせ婚姻して子どもは作らなきゃならない。なら少しでも好いた相手にしてやりたいってね、幼馴染としては思うわけですよ」
「……そうでございますか。ですがもうそのお時間はないかと思われますよ。私は国元へ帰る準備を始めます。よろしいんですね?」
「うん、勿論。そのために、君には先に話をしたんだから」
「もちろん、キリさまもともに帰りますよ」
「そうだね、初めからそういう取り決めだったしね。こちらに迎えが来るらしいから、そのお迎えと一緒に帰ってね」
「……わかりました。して、迎えにはどなたがいらっしゃるんでしょうか」
「さあ、それは何も書いていなかったな。まあ多分きみたちの知っている人が来るんでしょう。心配しなくても大丈夫だよ、不安そうな顔しなくても」
「心配などしておりません。ただ、思ったよりだいぶ短くて済んだなあと思っていただけでございますから」
視線の先には、もう二人の姿は見えなかった。
王に手をひかれ、庭園の奥へと足を伸ばしているのだろう。
見事な庭園だけを目に映しながら、トリシャは先ほど聞いた宰相の言葉を頭の中で思い返していた。
『東の国は国境から遠く引いたよ。もうそろそろ、きみたちを国に帰せると思う』
さてそれを、どなたがキリさまに伝えるのだろう。
そのとき、彼女は何を思うのか……トリシャにもそれはわからなかった。
今にして思えば、その日は初めから少し様子が違っていた。
いつものように手を取られて庭園を散策したのち、王とは別れるのが常だった。
広い王宮の中にはあちこちに庭園がある。そのうちでキリが散策するのは、滞在している棟にほど近いところばかりだった。
あまり遠くへ行くのは気が進まなかったからだ。
親しくなった庭師は、もっと見てもらいたい庭があるんじゃがなあとしきりに薦めるが、キリは静かに首を横に振った。
こちらの庭もとても素晴らしいものですと言えば、庭師はもちろんわしが丹精しておるからの、それは当然じゃと胸を張る。
植えられている花の名前や築庭の様式などを教えてもらったりもした。
そのようにして日々は過ぎるものと、何処かで思っていたのかもしれない。
庭園の端に来ても、手が離れる事はなかった。
それどころか手を取ったまま王は庭園を抜け歩き続けている。
どこへ行かれるのですかと問えば、少し話があると短い答えが返った。
見上げる横顔はいつもよりも気難しげだ。
庭園では出来ない話なのかと疑問に思いながら、手を引かれるままに歩き、キリが普段過ごしている部屋へと戻って来た。トリシャは丁度用事をしているようで、部屋の中には誰もいなかった。
話があると王は言われるが、お茶くらいは出した方がいいだろう。
そう思いお茶の準備を誰かに頼もうと部屋の外へ行きかけたが、当の王に阻まれてしまった。
キリの鼻先で扉が閉められ、クッションが敷き詰められた長椅子の所まで連れて来られてしまった。
戸惑って王を見上げたものの、座るように促されて大人しく腰を下ろす。 隣に王も腰を下ろした。
王の手はゆるくキリの手首を握り、未だ離されない。
大きな手だなと、ぼんやりキリは思っていた。
触れた場所から伝わる体温が、少し落ち着かないような目眩がするような、不思議な気分にさせる。
話があると言ったものの、王は口を開く気配がない。唇を引き結び眉間に皺を寄せていた。
一体何の話なんだろうと色々想像してみたものの、自分に関わる事で王に難しい顔をさせるようなものがあっただろうか。
側室方との問題は一応の落着を見た。
それ以外では、はて、とんと見当がつかなかった。
キリはそっとため息をついた。
いつまでも互いに黙ったままでは話が進まない。
キリはここでは預かりの身分なので特段役割はないが……ここに居る事じたいが役目と言えばそうであるが……王は色々と忙しい身の上だ。
流石に毎日のように顔をあわせ、些か珍妙でも言葉を交わしているので、王の人となりを多少はわかってきたつもりだ。仕事で見せる顔とは違って、キリに見せる顔がとても不器用なのもわかっては、いる。
仕方がないですねと思いながら、水を向けてみた。
「陛下、お話とは何でしょうか」
途端にびくりと王は肩を揺らし、その振動はキリの手にも伝わった。
余程言いにくいことなのかとますますキリは首を傾げた。
「陛下?」
隣に座る男の横顔を見上げると、視線に気付いてか目が逸らされる。
じいっと見つめていると居心地が悪そうに大きな体を身じろぎさせる。
しばらくしてようやく王は口を開いた。
「……そろそろ、そなたたちを国に帰すことが出来そうだ」
では東の国とも関係も落ち着きそうなのだろう。よかったと安堵しながら自分の手に目を落とす。
繋がれたままの手。
「……では、こちらを去る準備を始めねばなりませんね。いつ頃こちらを発てばよろしいのでしょう」
それまで見納めに庭園を散策しておこう。お世話になった王太后にも挨拶をしておかねば。そう考えていると、王は低く呻いた。
「そなたは……っ、何故いつも平気な顔をしているっ。都合で振り回されて文句の一つも言わぬ」
「もとより、これが今のわたしの立場の役目ですから。そして事が為ればあちらに戻ると……そう初めから取りきめられていたはず。ただそれだけの事です」
そう答えると何故か王は苛立たしげに息を吐き出し、空いた片手で焦げ茶の髪の毛をかき回した後に、視線を逸らしたまま尋ねてきた。
「……ここに残る事は出来ないのか」
問われる意図がわからなかった。もしや、まだ何か問題があって、それにはキリが居た方が都合がいいのだろうか。
「あの、陛下、まだ何か問題でもあるんでしょうか」
「いや、それはない、が……」
「でしたら、わたしはあちらに戻ります。皆さまのお手を煩わせるのも申し訳ないですし」
王太后さまにもよくしていただいた。庭師にも面白い話が聞けた。
ただここにもうキリがいる必要がないのなら、そう決められていたとおり、出来るだけ早くあちらに戻るべきだった。
そうでないと王に障りがあるだろう。
これから妃を迎えられる方だ、形式だけとはいえ、”側室”のキリがいつまでもここにいると余計な問題の種となりかねない。
そう思った時、微かに胸の奥が軋んだ気がしたけれど、それには気付かないふりをしてやり過ごす。
親しくなった方とお別れするのが寂しいのだ、きっと。
「よくしていただいて、ありがとうございました。またあらためてご挨拶はいたしますが……」
言葉は苛立ちを孕んだ低い声で遮られた。
「よく言うではないか。何も言わず危ない目に遭わせたのだぞ!自由に過ごせる場所も与えず軟禁状態だった。今もお前は人目をはばかる様にあまり出歩かない。これのどこに礼など言う!」
「それでも、わたしを気遣って下さっていた事は知っています。後宮のあの部屋を準備して下さったのは陛下でしょう?それに本当には危ない目に遭わないように気を配ってはいただきましたから」
それで十分ですと言えば、王は大きなため息をこぼした。
それよりもキリはもう手を離して欲しかった。
伝わる高い体温に落ち着かない気分になる。
落ち着かないのに振り払う気にはなれない。それがとても不思議で。
あの、とキリが声をかける前に、王は呻くように言いながらキリの方を振り向いた。
「何故だ、何故かお前を前にすると碌な事が言えん。こんな事が言いたいんじゃないっ」
不機嫌そうに眉が潜められ、唇は引き結ばれていた。近寄るのも憚られるような恐ろしい表情だが、それを怖いとは思わなかった。
うまく気持ちを言い表すことが出来ずに癇癪を起こす、子どものような顔に似ていたから。
ただ、何かを問う間はなかった。
手首から手が離れたと思った瞬間、体を引き寄せられて、そして。
驚きに目を見開いた。焦点があわないほど近い所に端正な顔がある。
息もできないほど深く口づけられていた。
振り解こうとしても、背中に回された腕と首の後ろに回された手とで、身動きもできなかった。
息さえ貪られるような深い口付けに、次第に頭の芯が霞んでくる。せめてもの抗議に胸元を叩いてみても、力は緩まなかった。
息苦しさで目の前が暗くなりかけたとき、ようやく唇が解放された。背中には腕が回されたままだ。
息を吸い込むと途端に噎せ返り、咳き込んでしまう。
それがおさまった所で、王の顔を見上げた。
苦しさのあまり滲んだ涙で、視界はぼんやりとしている。
そのせいか、王の顔は奇妙に歪んだように見える。
「陛下、いったい何を……」
それ以上問う事は出来なかった。
顔を見られたくないとばかりに、広い胸の中に抱きこまれ、顔を肩口に押し付けられてしまう。
「何故かお前を前にすると碌な事が言えん。もっとマシな事が言いたいとずっと思ってはいたんだ。俺は、お前が……」
とくとくと早い鼓動が伝わってくる。陛下はいつも“私”と言われていたけれど、普段は“俺”と言われるのかしら。些細な事を考えながら、腕の中で体を硬くして言葉の続きを待った。
「……っ、帰るなんて言うな、ここに居てくれ。側に居て欲しいんだ」
不器用な言葉が心に浸透するにつれ、キリはようやくわかってきた。
不器用すぎる言葉であり行動であったが、流石にキリも理解した。
何故自分が王に触れても触れられても平気だったか。トリシャの呆れたような視線の意味も。そうして気付かないふり、見ないふりをしてやり過ごしていた自分の気持ちも。
それは、まだ小さな芽にすぎないけれど。
自分の鈍さに呆れかえりながら、これが育つ前でよかったとキリは目を伏せる。
小さな子どものように抱きこまれ、落ち着かないのにとても安心するなんて。
きゅ、と王の衣装の裾を握り、体の力を抜いてみた。
今だけ少し甘えてみてもいいかと思ったのだ。
温かな体温と規則的な鼓動に包まれていると、とても安心する。
目を閉じるとゆうべもあまり眠れなかったせいか、頭の芯がかすんできた。もともと眠りが浅い性質のため、馴染みのない場所では、深く眠る事が出来ないでいた。後宮から出てこちらへ移った後は多少マシではあったが。
こんな場面なのに、急速に襲ってきた眠気に抗えなかった。
「……わたしはあちらに戻ります」
なんとか声に出したものの……ちゃんと言葉になっていたかどうか。
慌てたような王の言葉が聞こえた気がしたけれど、眠りの波にさらわれてしまったのだった。
この気持ちを育てても、どうにもならない。
だから蓋をするのだ。
まだそう出来ると思っていた。




