おやすみなさい、いい夢を
本編完結後、いつかあるかもしれない一場面です。
おそらくそうなるだろうなと思っていたら、案の定。
「……やはりこうなるか」
視線の先には、大きな寝台で小さく丸くなって眠っている妻の姿がある。 白いシーツの上に腰に届くほど伸びた黒髪が広がっていた。
寝台の上に腰を下ろし、艶やかなそれをひとすじ掬い上げ、顔を覗きこむ。
口元に薄く笑みさえ浮かべて、眠っていた。
「……反則だぞ、本当に」
穏やかな寝顔に小さく文句を言う。
起きている時には、いまだ表情が薄いのに、眠っている時だけやわらかな笑顔をふりまくなんて。
お帰りなさいませ、と自分を出迎えた時から半分夢の中に入っていたのだろう。夢と現のはざまにいる時、妻はよく笑みをみせる。
素直に嬉しいという感情を露わにした妻の様子から、今の状況は予想していた。
それでも出来るだけ早く湯を使って寝室に入ったのに、妻はとうに夢の中。
これでは自分は手出しできない。
話をしたかったし、それ以上のあれこれもしたかったのだが。
仕方ないとため息をひとつこぼして、妻の隣に滑り込み、細い体を抱き寄せた。
鼻にかかったような小さな声をあげるものの、やはり目は覚まさない。
温かさに気付いてか、猫が頭を擦り寄せるように、胸元に顔を埋めてくる。髪の毛が喉や胸元に流れ、些かくすぐったい。
しばらくごそごそしていたが、ようやく落ち着ける体勢になったのだろう、ふ、と満足げな息を零して大人しくなった。
その時に破壊力抜群の笑顔を残して。
落ち着け落ち着け、相手は眠っているんだ、叩き起こして付き合わせたら鬼畜だろう……っ。
ここが一番安全だと、疑ってもいないような笑顔は、心臓にわるい。
変なふうに鼓動は跳ねるし、よんどころない場所も反応するから。
「そう安心しきった顔で寝られると、悪い事は出来ないな」
苦笑いで呟いた。もちろん、この腕を離そうなどとは、微塵も思っていない。たとえこれが苦行であっても。
黒髪に鼻先を近づけると、ふわりと花の香りが広がった。
細い体を抱きしめながら、ふと昼間に交わした会話を思い出していた。
妻は自分の母に、こちらについてのあれこれを教わっている。
今日も朝から母のもとへ出向いていた。
昼過ぎに時間が空き、ひょこりと顔を覗かせると丁度お茶を飲んでいる所だった。休憩がてらに自分も加わり、母を交え他愛ない話をした。
その時は妻に変わった様子はなかった。
母が席を外したときにそれは起こった。
目を擦り、しきりに欠伸を噛み殺したかと思うと、ことり、と妻の頭が肩に触れる。「……少し眠らせて下さい」と言って眠りこんでしまったのだ。 長椅子に隣り合って腰掛けていてよかったと思った。それほど、すとんと眠りに落ちてしまったのだ。肩を揺すろうとして思い留まり、体をずらして妻の頭を膝にのせる。
姿勢を変えても、起きる気配はなく、穏やかな寝息をたてていた。
柔らかな笑みが口元に浮かんでいて、頬を撫でても擽ったそうに身を捩るばかりだった。
そこへ母が戻って来た。眠りこんだ妻を見て、心配そうに眉をひそめる。
「どうかしたのかえ、具合でも悪いのか?」
首を横に振り、低い声で答えた。
「いや、ただ眠っているだけだ。疲れているんだろう」
そこへ返されたのは、母の、呆れた!と言わんばかりの視線。
この場合、呆れられているのは妻ではなく、自分だった。
「わたくしも野暮な事は言いたくないが、お前もいい歳であろう?ようやく妻に出来て舞いあがっているのはわかるがな……よもや朝まで盛っているのではあるまいな」
無言を貫き通した。それこそが答えになってしまったが。
いや毎回ではないぞ、時々だと心の中で弁解をしていると、重いため息をつかれてしまった。
「あまり無体をするでないぞ。お前とでは体格も違うし、どうしても負担がかかるのだろ。目に余るようであれば、わたくしにも考えがある」
「……わかっている、自重しようとは、思っているんだ、が……」
いつもいつも、事の初めにはそう思う。
細い体は、思うまま貪ればすぐに音をあげてしまう。そう思っていても、体を腕の中に抱き込んで、頬や唇に口付けを落としているうちに、すぐに頭から抜け落ちてしまうのだ。
その結果。起きあがれない、と顔を赤くした妻に怒られたり拗ねられたりすることも、しばしばだ。
やれやれ、と母は扇をひらりと翻し、ひた、と自分の方へと突きつけてきた。
「わたくしは本気じゃからな。妻に逃げられたくなくば、少し行動を改めよ。よいな」
「……わかった」
そう答えるよりない。今のところ妻に嫌がる素振りも気配もないが、確かに妻を起きあがれないほど貪っていれば……いずれは、もしかしたら。
血の気がひく想像をするのも嫌で、ぶるぶると頭を振った。母は自分と同じ藍色の目をこちらに向け、呆れ果てて声も出んわ、と言い捨てた。
「箍が外れるのもわからんではないが……ほどほどにしておくのじゃな。ああいやだいやだ、何故いい年をした息子に、こんな事を言わねばならん」
心底嫌そうに顔を歪めた母は、自分の膝枕で眠る妻を覗きこんだ。
そして自分に向けたのとはまるで違う、柔らかい顔を向ける。
「ふふ、わたくしと話している時は、まったく疲れた様子も見せんかったと言うのに。お前が来て、二人だけになった途端、気が緩んだのだろうな。仲が良くてなによりじゃが」
起きる気配のない妻の頬を、母はそっと撫でる。
「あまりに無茶な事をされたらわたくしの所へおいで。効果的な仕返しも考えてやるゆえな」
妻に囁くと同時に、母はしっかりと釘を刺してくれたのだった。
妻が先に眠っていて、よかったと思う事にしよう。
母との会話を思い出してそう自分に言い聞かせる。
触れるやわらかな胸の感触や、絡みつく腕や足に、理性が崩されそうになっていても。
こちらの気も知らず、笑みさえ浮かべて眠っている、妻。
どんな夢を見ているのだろう。そこに自分が居ればいいのにと思う。
そしていつかは、眠りの淵だけでなく起きている時にも、もっと笑った顔を見せて欲しいと思った。
きゅ、と細い体を抱きしめれば、くふ、と喉の奥で声をあげ、安心したように笑うから。
自分のそばほど、安心できる場所はないと、言われているようで。
だから、抱きこんだ体を離す事が出来ないのだ。
どれほどの苦行だとて耐えて見せる、そんな気になってしまう。
仕方ない、惚れた弱みだと呟いて、額に口付けを落とした。
「おやすみ。……いい夢を」
END
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。