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 これでは生殺しだ。柔らかな体を腕に抱き、途方に暮れた。

 言葉が途切れたのを不審に思い、顔を覗きこんでみると、黒い目は閉ざされていた。一瞬慌てたものの、呼吸は穏やかで顔色も悪くはない。

 眠っているだけかと思えばなんとも力が抜けた。

 軽く体をゆすってみても、目を覚ます気配はない。

 温かな体はずっと腕の中に抱いていたかったが、そうすると些か自分にとってはよろしくない事態になりそうだった。

 幸いにして長椅子は大きい。娘の体を横たえてやろうとして、はたと気付く。娘は自分の衣装の裾を握りしめていた。眠っていても外れないほどの力で。

 仕方ないとため息をついて、娘の姿勢を変えてやる。

 己の膝に娘の上半身が凭れかかるような格好になった。

 余計にまずい事になったかもしれない。ますます理性が試されているようだ。何故なら娘のやわらかな膨らみが、膝に当たっているのだ。

 娘はこちらの気持ちも知らず、規則的な寝息をたてている。

 苦い思いで天井を仰いだ。

「……無体を強いた男の傍でよくも眠れるものだ……」

 東の国との問題はひとまず落ち着いた。そうかの国から連絡があり、またこちらでも情報を集めていたから、そろそろその時期かと思ってはいた。

 想像より遥かに早い。

 事態の収束は喜ばしいが、思わず本音を漏らすと宰相はそれでどうするつもりと尋ねてきた。

 初めの取り決め通りあの子をあちらに帰すのか、それとも。

 情けないことに、まだ何も言えていなかった。

 それを知っている宰相は人が悪そうな笑みを浮かべている。

 あちらに戻れる事を話す。そのうえでちゃんと話してみる。

 まあ頑張れよと宰相は肩を叩いてきた。

「……この顛末はあいつには話せんな。絶対に笑われる」

 それか莫迦にされるか憐れむような目を向けられるか。

 どちらにせよ自分にとっては面白くない事になる。

 まともに思いも告げられず実力行使に出た挙句、色よい返事も貰えず、さらには眠りこまれたと。

 思い返すとさらに落ち込んできた。

『わたしはあちらに戻ります』

 こちらの気持ちを受け取るでもなく、拒否するでもなく。

 それは拒絶ともとれるものだが。

 娘の顔を覗きこみ、涙でぬれた頬を拭ってやる。

「はっきり拒絶もせず身を任されては、諦められないではないか」



 しばらくして娘の侍女が部屋に戻って来た。

 自分に凭れて眠る娘の姿に慌てて駆け寄ってくる。

「キリさま?お加減でも悪いのですか?」

「いや、ただ眠っているだけだ、大事ない」

「そうでございますか……こちらに移ってからはきちんとお休みになられていたので、安心していたのですが」

 どういう意味だと問えば、侍女は静かに話し始めた。

「キリさまはもともと、眠りが浅い方でして。後宮では色々あったせいもあり、あまりきちんとお休みになれなかったようでございました。あちらの国でも慣れるまでは同じような感じでございましたが」

 声を潜めているとはいえ、すぐ近くで話しているのだ。眠りが浅いというなら気付くのではなかろうか。

 侍女はなんとも言えない表情で娘を見ると言葉を続けた。

「声をかけるとすぐに気付かれたものです。ですが今、私の声に起きる様子もございません。よほど陛下の傍で深く眠っておられるのでしょう」

「安心されるのは複雑だがな……」

 そう本音を零せば侍女は奇妙な頼みごとをしてきた。

「恐れながら陛下、今しばらくそのままでいていただけませんか」

 首を傾げれば侍女はさらりと言った。

「キリさまの睡眠不足解消のために、しばらく枕になって頂きたく」

 健やかな寝息を立てる娘を間に、しばし無言になる。

「……枕か」

「枕でございます」

 この侍女もなかなかに食えぬと思った。先ほどは少し無体な真似をしたが、眠っている娘相手に何か仕掛けるほど卑劣ではないつもりだ。

 それを見透かされているのだろう。

「……わかった」

 ニガムシを噛みつぶしたような声で答えるしかなかった。



 侍女は再び部屋を出て行き、自分と娘だけが部屋に残される。

 娘は目覚める気配はなく、おだやかな寝息が聞こえるのみだった。

 白い頬をそっと撫でれば、温かさが心地いいのか猫のように擦り寄って来る。

 口元にはうっすらと笑みまで浮かんでいるから、目が離せなくなった。

 普段はろくに笑顔も見せないくせに、こんな時だけ微笑まれては、心臓に悪い。

「……望まぬものばかり押し付けられて、お前は困るばかりか」

 囁いても娘から言葉は返らない。自分の気持ちも娘にとっては困惑の材料にしかならない。

 いま、娘が置かれた立場では何も答えられない事ではあったから。

 それでも立場を取り払った、娘の言葉が聞きたかった。

「どうしても諦めきれぬ。お前にとっては迷惑な事だろうがな」



 やがて目を覚ました娘は、しばらく声も出せないくらい動揺していた。

 長椅子の上に起きあがり、視線をさ迷わせている。

「目が覚めたか」

「あの、陛下、わたしは……」

「よく眠れたなら何よりだ」

 頬に触れて、そのままそっと額に唇をおとす。

「……明日も散策に付き合ってくれ」

 娘の返答も聞かず身を翻して部屋を出ていった。

 まだ明確な返事をされていない以上、そして時間がまだ残されている以上、このまま引き下がるつもりはなかった。

 少しでも望みがあるのなら。





 離れていく体温が寂しいと思った。


 長椅子の上でどれくらいぼんやりしていただろう。

「キリさま?どうかされましたか」

 トリシャに声をかけられて我に返り、居住まいを正した。

 眠っている間に乱れた髪を手ぐしで整える。

「いいえ、何でもありません。それより、陛下からお伺いしたのですが、わたしたちはあちらへ戻れるそうですよ。帰る準備をしなければなりませんね」

「ええ、私も宰相様からお聞きしました。どなたかが迎えに来て下さるそうです。ですが、キリさま、本当によろしいんですか」

 トリシャはじっとキリを見つめていた。心の奥を探るような目で。

「本当にって、もちろんいいに決まってます。それが初めからの約束ですから」

「キリさま。私はキリさまの本当のお心が知りたいだけです。もしキリさまが望まれるのでしたら、そのように致します。ですからお尋ねしているのです。本当にこのまま帰ってよろしいんですか」

 キリ自身が気付かない頃から、トリシャはキリの心に気付いていたのだろう。そしておそらくは王の気持ちにも。だからいまこうして……後悔しないのかと尋ねてくれている。

 自分の気持ちすら分からなかったキリとしては本当に居たたまれない。

 自分の鈍さには呆れ果てる。

 異性に対して触れられるのも触れるのも駄目だった。例外は子どもと親しい年配の人くらいだった。

 たとえばアラム陛下やカディージャは平気だけれど、それでも抱きしめられたりするのは落ち着かなかった。

 それが……抱きしめられて心臓が煩いくらいだったのに、何故かとても安心してしまったのだ。

 何が“父親みたいな”括りにはいる、だ。自分の勘違いに笑うしかない。 自分の心よりも体の反応の方が確かだったのだ。

 触れても触れられても平気だったのは……それどころか安心さえしていたのは、自分の気持ちのせい。

 それでも。キリはゆっくりと首を横に振り、答えた。

「わたしは何も望みません。ここに居る必要がないのなら、あちらに戻ります。それが初めからの取り決めですから」

 トリシャはその言葉を予想していたかのように、頷いた。

「……わかりました。では戻る準備を始めます」

 お願いしますねと言うと、トリシャは部屋をでてゆく。

 一人きりになり、キリは小さく呟いた。

「望みなんて、ね……望んだところで、どうにもなりません。このままなかったことにするのがいいでしょうに」

 気持ちを自覚すると同時に気付いてしまった。

 何かを望むには、あの人には色々複雑な立場が付いて回る。

 それらを受け入れる覚悟などキリにはなかった。

 


 もともと、こちらの国へ持ち込んだものは少ない。

 しかし贈られた衣装や装飾品がいつの間にか増えていて、それなりの嵩になってしまっていた。普段着るものと改まった衣装の数点を残し、トリシャはどんどん荷造りをしてゆく。

 手出ししようにも、これは私の仕事ですからと微笑まれて拒否された。

 この棟に来てからは、以前と同じようにトリシャが身の回りの事をすべてしてしまうため、キリは手持ち無沙汰になってしまった。

 ぱたぱたと忙しなく動き回るトリシャの傍で、一人のんびりと本を読む気にもなれない。

 キリの私物などたかが知れているので、その整理はとうに終わっている。 お世話になった礼と出立の挨拶もかねて王太后陛下にお会いしなければと思っていたが、あいにく数日出かけているとのこと。

 するとトリシャは不意に提案してきた。

「そうそう、庭師が今丁度薔薇が見頃の庭園があると言っておりました。この王宮に居るのもあと少しなんですから、行かれてはどうですか。いいお天気ですしね」

「そうですね……」

 窓の外は晴れ渡った青空が覗いている。ここから見える庭園もうつくしく、何度散策しても飽きる事はなかった。散策ならここで十分だと思ったが、トリシャの言葉に心をひかれた。

 庭師も今まで薦めてくれていたことだし、行ってみましょうか。 

 キリが頷くと、トリシャは早速護衛を呼んできてくれたのだった。


 長い回廊や廊下を抜け、その場所に近づくと仄かに薔薇の香りが漂ってきた。護衛に連れられ歩きながら、キリは途中で何度も後悔したのだ。

 すれ違う人々の目が、あれは誰だと言っているようで居心地がわるい。

 キリは側室としてここへあがったものの、ごく限られた人の前にしか姿を見せていない。

 もともと東の国との件が落ち着けばこの関係も解消される、そんな一時的なものだったからだ。キリはあえて他の人と関わるのを避けていた。どこまでの人が、嫁いできた側室の事を知っているのかわからない。

 こぼれそうになるため息を押し殺し、背はまっすぐにのばしたまま歩き続け。

 ようやく庭園が見えてきた時には心底ほっとしたのだ。

 幾つも回廊を通りぬけたせいで、ここがどこだかキリにはわからない。

 戻る時にはまた同じような視線に晒されるかと思えば憂鬱になったが、頭を振って気分を変えようとした。

 目の前には濃い緑と咲き乱れる薔薇の対照もうつくしい庭園が広がっている。これを楽しまなくては、ここまで来た意味がない。

 さて、護衛の彼にはどこで待ってもらおうかと考えていた時、不意に彼が居住まいをただす。

 怪訝に思い視線を巡らし、目を見開いてしまった。ゆったりとした足取りでこちらに近づいてくるのは。

「務め御苦労。呼ぶまで下がっておれ」

 護衛は頭を下げ、姿を消した。

「……陛下、なぜここに」

 彼は答えず、手を差し出してきた。いつも庭園を散策する時と同じように。その手と彼の顔とを交互に見つめた挙句、キリは身を翻し駈け出そうとした。どうしてそんな行動に出たのか自分でもわからない。

 けれどそれより早く王の腕が伸びてきて、体を抱きこまれてしまった。

「っ、陛下、お離しください」

 腕の力は緩まず、王は低い声で囁く。

「何故ここ数日庭に出ていない?俺の顔を見るのも嫌なのか」

「そんなことはありません」

 反射的に答えて、キリは己の愚かさを呪った。

 嘘でも嫌と答えておけばよかったのだ。

 案の定返答を聞いた王は喉の奥から笑い声をこぼす。

「それなら問題はなかろう。さあ」

 体は離されたが、腕は取られたままだ。キリは観念して頷いた。

 そして手を引かれながら庭園を散策することになったのだった。



 初めは落ち着かない気分だったものの、咲き誇る薔薇と庭の見事さにすぐに忘れてしまった。キリの手を引きながら歩く王は、薔薇の名前や庭園の造営時期などを話してくれる。

 それを聞きながら、珍しい色の薔薇を見つけ近寄ろうとした時だった。

 敷石の段差に躓いて転びそうになってしまう。目の前には棘がある薔薇の茂み。目を瞑って腕で顔を庇おうとした。

「きゃ、っ、えええっ」

 転ぶ前に腰を引き寄せられて、薔薇の茂みに頭から突っ込む事は避けられたものの、がっちりと抱き抱えられて身動きが取れなかった。

 頭の上から呆れたような声が降ってくる。

「お前は時々危なっかしいな」

 吐息が耳元をくすぐる。

「……助けていただいて、ありがとうございます。あのもう離して下さい」

 身を捩っても腕の力は緩まない。

「陛下っ」

「そう暴れるな、そこで動かれるとこちらも色々とまずいことになる……いや、ほら」

 何ごとか意味不明な事を呟いた後、王はキリの体を離してくれた。

 赤く染まった顔を隠したくてキリは顔を背ける。腕が取られたままなので、それ以上離れる事は出来なかった。

「そんな顔をしていると、ますます離せなくなりそうだ」

 え、とキリが王を見上げると今度は王の方が顔を背けた。キリからは顔は見えないが、耳元や首の辺りが薄赤く染まっている。

 何だかますますのぼせそうな気がして、息を吐き出しながら頭を振った。

 視線を薔薇の方へ向ける。赤や黄、白の薔薇に隠れるように、淡い紫の薔薇が咲いていた。

 珍しい色に心惹かれ、もっと側で見ようとしたのが間違いだったか。キリの視線に気付いた王が、赤い顔を手で覆いながら答える。

「その薔薇が珍しいか?それは品種改良をして咲かせたものだと聞いている。それを作った男は、その薔薇に妻の名前をつけていたな。さて何と言う名前だったか……そういえばお前は後宮で紫と名乗っていたが、紫が好きなのか?」

 名乗りにのっとり、王は紫の衣装をキリに贈ってくれたのが、今では遠い昔の事に思える。同じ紫でも濃いものでなく、薄紫の衣装で良かったと今更ながらに思った。色じたいは好きでも、濃い紫は似合わないと知っているから。

「そうですね、より好きなのは薄い紫ですけれど……」

 薄紫の花が脳裏に浮かぶ。ここにはない木に咲く花。

 それを思い出しながら、言うつもりのなかった言葉をいつの間にか口にしていた。

「あちらの世界に、わたしの名と同じ木があるのです。もっぱら家具などに使われる木ですが。その木に咲く花の色が淡い紫なんです。だから……色にちなんだ名乗りと言われた時、すぐに紫が浮かんでしまいました」

 そうか、と王は頷いた。

 あちらに戻りたいかと聞かれずにすんで、キリは安堵していた。

 聞かれたとして答えようがない。

「こちらに似た花があれば教えてくれ。どのような花か見てみたい」

 はい、と頷きながら、さてそんな機会はあるまいとキリは思っていた。



 それから。

 以前と同じように手をひかれ庭園を散策する日々が続いている。以前と違うのは、別れ際に必ず王が口づけてくる事だった。

 額に、頬に、それから唇に。軽く押し当てるだけの、優しいものだった。

 また明日と言い残して王は去ってゆく。

 キリはあちらの国に戻ると言ったにも関わらず触れてくるのだ。

 自分の立場を考えれば、言える言葉は決まっていた。気持ちは受け入れられなと言えばいい。そうわかっていて、でも言いたくはなかった。

 このまま早く時間が過ぎて、あちらの国へ戻ってしまえば。

 そうすれば場所と時間を隔ててしまえば、きっと忘れられる。

 忘れてくれるだろうと思うよりなかった。

 あちらの国からの迎えも、あと数日で来るという。荷造りはとうに終えてあるから、後は世話になった侍女や女官たちにも礼を言って、宰相や王太后にも挨拶をして帰るだけだ。

 最後に城下町を楽しんできなさいと、トリシャには朝から暇を出している。

 散策から戻ったあと、お茶を飲みながらぼんやりとキリは本を開いていた。文字はちっとも頭に入っては来なかったが。

 そこへ、外から扉を叩く音が聞こえ、キリは顔をあげて返事をする。

「お客様がお見えです。お通ししてよろしいでしょうか」

 誰だろうかと首を傾げる。ここへは王太后の許可なくば誰も訪れることが出来ないのだ。キリが余計な事で煩わされないようにという配慮からだった。

 大臣や貴族たちからの面会の申し込みはあったものの、それらは全て断ってきた。

「どなたでしょうか」

「ヤズルカ様でございます」

 一度だけ顔を合わせた、王の弟だった。ますます困惑したものの、断れる相手ではないし後宮での警護の礼も満足に言っていない事に気がついた。

 礼と別れの挨拶を言ういい機会だと思った。

「お通しして下さい」

 そう言った後、扉が開かれ、がっしりした背の高い人物が室内へと入って来た。

「急にお邪魔して申し訳ありません」

「いいえ、わたしの方こそ、色々お世話になったのに碌にお礼も言わず申し訳ありません。お聞きおよびでしょうが、あちらの国に戻る事になりました。短い間でしたがありがとうございました」

 窓際のテーブルに彼を案内し、椅子に座るようすすめた。

 その向かいにキリも腰を下ろす。お茶の準備を頼む前に、よく心得た女官が茶器と茶菓子を運んできた。二人の前にお茶を注いだ茶碗を置き、すぐに下がる。

 その時にさっきまでキリが飲んでいた茶器も綺麗に片づけてくれた。

 香るお茶を一口飲んだ後、キリはそっと目の前に座る人物に目を走らせる。

 警護につく関係からか、逞しい体格の背の高い人だ。腰には飾りのない剣を佩いている。黒い髪に焦げ茶の目の、彫りのふかい端正な顔立ちながら、陛下とはあまり似ていないように思えた。

 同じようにお茶を飲んだ後、ヤズルカは切り出してきた。

「この間はこちらこそ、碌にお話も出来ず残念でした。その後もお会いしたかったのですが、何分色々ありまして。このような帰国前の折りにお尋ねするのはとても心苦しいのですが、お聞かせいただけますか」

「なんでしょうか」

「不躾で申し訳ありません。……キリさまは兄の事をどう思っておられるのですか。兄に明確な返答をしていないと聞きました。どうなさるおつもりですか」

 思わぬ人物から意外な事を尋ねられ、息が止まるかと思った。

 眉を潜めてヤズルカの顔を凝視していると、彼は苦笑を滲ませて声を和らげる。そうすると厳めしい印象が消えて親しみやすさを感じた。

「他人の恋路に嘴を突っ込むほど野暮ではないのですがね、兄の立場が立場ですから……そのうえ、兄にまだ子がいないときている。兄が望んだ方が子をもうけて下さるとこちらとしては有り難いのですが……」

 ヤズルカがそう言葉を切ったあと、キリは尋ねた。

「ここへヤズルカさまがおいでになること、陛下はご存知ですか」

「いえ、兄は何も知りません。私が勝手にやって来ただけです」

「それならばお答えする事はありません。陛下にお答えしていないものを、あなたさまに告げるわけにはいきません」

「そう言われると思っていましたがね……」

 ならば何故彼はここへ来たのだろうかと、その疑問が顔に出ていたのだろう。

 ヤズルカはキリをじっと見つめて言った。

「先日の茶会での振る舞いはお見事でした。あなたが兄の傍に居てくれれば嬉しいと、その気持ちをお伝えしたかったのですよ。何分兄は時々変なふうに不器用ですからね」

 キリは何も答えられない。

 ヤズルカが自分を好ましく思ってくれたらしい事は嬉しいが、それはまた別だった。

 答えられないかわりに、キリは口を開いた。

「ご存知のとおりわたしは“客人”ですから、あちらに居る時がそうであったように、ひとの立場には一時目を瞑って、そしてごく普通にお付き合いする事は出来ます。互いの立場がどうであれ、親しくお話をする分には、煩わしい立場は不要ですから。けれど、わたしがそんな立場に立てるかと言われると別問題です」

 キリは考えをまとめるように言葉を切った。

 けして急かさずに、ヤズルカは視線で先を促してくる。

 王の養女になった時もそうだった。

 また王の娘の立場で側室になったときもそう。

 ここは自分が居るべき立場じゃないと思った。それでも……今までは受け入れてきた。それしか方法がなかったし、強く拒絶するほど嫌でなかったり、側に居て欲しいと言われて嬉しかったりもしたから。

 けれどこれはキリの許容範囲外だった。

「王の養女であったり、それゆえの陛下の側室と言う立場でさえ、わたしには似合いません。これ以上は何も要らないのです」

 そう答えるとヤズルカはほろ苦い顔笑みを零した。

「兄の立場ゆえに、その気持ちは受け入れられないというわけですか……」

 キリは何も答えない。それこそが答えだった。




 王太后が外出先から戻られた。それを知ってすぐ、キリは面会を申し込む。あちらの国に戻るまで日はあまり残されていなかった。

 面会を申し込んで間もなく、今からでも時間が取れるとの返事を貰った。

 気がかりは早く済ませた方がいい。キリはこれから窺う旨をやって来た王太后の侍女に伝えると、着替えを始めた。いくら寛いでいてくれと王太后から言われていても、衣装くらいはあらためておかなければ。

 トリシャに手伝ってもらいながら着替え、うすく化粧もする。布を幾重にも重ねた衣装は、腰の辺りから裾にかけて段々と色が濃くなっていた。上着のかわりに房飾りのついたストールを肩からかけて鏡の前でくるりと一回転する。

「おかしな所はないですか」

「キリさま、よくお似合いです。さ、そろそろお時間でしょう」

 ため息をついてトリシャは答える。身なりに可笑しな所がなければそれでいいのだとキリは思っている。

 護衛に連れられて、王太后のいる居間へと向かった。既に王太后は席についており、キリの顔を見ると笑顔を浮かべて立ち上がった。

「それはわたくしの贈った衣装じゃな。よく似合っておるぞ」

「ありがとうございます。着心地もよくて気にいっております」

 礼をとろうとすると、王太后は手を上げてそれを押しとどめた。

「堅苦しい作法は不要じゃ。まずは座られよ」

 キリは言葉に従い椅子に腰を下ろす。

 すかさずそこへお茶が運ばれる。テーブルには所狭しと様々な茶菓子が並べられていた。クリームがたっぷり乗ったケーキや、フルーツのタルト。

 どれも王宮に似つかわしい繊細な出来栄えのものだ。

 その中にとても素朴な焼き菓子があり、キリの目をひいた。

 よく王がくれた菓子だと気がついた。気取ったところがない素朴な味わいのそれが、キリはとても好きだった。

 お茶を一口飲んだ後、キリは王太后に頭を下げた。

「あちらの国に戻る事になりました。これまで大変お世話になり、ありがとうございました」

「なに、礼を言われる程のことはしておらん。それどころか不自由をさせてしまいこちらが心苦しく思っていたわ。それにしても、思ったより早かったのう……」

「そうでございますね。もう少し長くこちらでお世話になるかと思っておりました」

「あの狸が懸命に動いたのじゃろうて」

「王太后さま、あちらの陛下にそれを言ってもよろしいので?」

「なに構わぬさ。それより、ひとつ聞かせてくれぬか」

 王太后は扇をぱちりと閉ざし、藍色の目でキリを見つめる。

 同じ色の目を持つひとを思い出して、とくりと鼓動が跳ねた。

「野暮は承知で聞く。そなた、わたくしの息子は嫌いか」

「……嫌いではございません。尊敬に足る方だと思っております」

「そうか、不器用極まりないうえ、言葉足らずの仕方ない奴であるがな」

 それについてはキリは明言を避けた。王太后は尚も尋ねてくる。

「では、好いておるのか」

 王太后の声は穏やかで、それゆえに安易な嘘はつけない。

 それでもはっきりと答える事は出来なかった。

 誰に対しても芽生えてしまった気持ちを告げる事はしない。

 そう決めたから。

「……とてもよい方だと思っております。確かに不器用な方ではありますから、それを汲んで下さる方が側に居られればよいでしょう。なにより優しい方だと思っております」

「ならばそなたが側に居ればよい。それをあれも望んでいる。わたくしもそなたが来てくれれば嬉しいのじゃが」

 キリはゆるく首を横に振った。

「王太后さまのお言葉は有り難いのですが、わたしはあちらに戻ります。それが初めからの取り決めですし」

「そうか……ならば一つ答えてくれぬか。そなたを頑なにさせているのは何じゃ」

 キリは口を噤み俯いた。自分でも呆れ果てるほどなのだから、もしこれを口に出せば呆れられるだろう。すると王太后はキリの隣の椅子に腰掛け、膝の上で握りしめられていた手にそっと触れてきた。

「何を言っても驚かぬし、誰にも言わぬ。答えてはくれぬのか」

 ひとつ息を吐き出して、キリは考え考え言った。

「王太后さまは、ご結婚後妃殿下として様々なお役目を果たされましたよね。今では王太后としてのお役目を果たされておられる。それらを重圧だと思われた事はございませんか」

「まあの、時々投げ出したい程厄介な事はあったがの、それも仕方がないと覚悟はしておったよ。早くから世継ぎの王子に嫁ぐ事は決まっておったしの」

「そうでございますか……わたしは自分一人の身なら、どうとでも出来ましょう。その範囲内で何ごとかが起こっても責任を取る事ができます。けれどそれ以上の事はわたしには手に余る事でございます」

「つまり、あれの気持ちはその立場ゆえに受け取れないと言うのか」

「……たとえお慕いする気持ちがあったとしても、覚悟がなければ到底頷ける事ではありません。そしてわたしは、未だ自分の身すらままならない状態です」

「そうか……わかった」

 穏やかな声にキリは顔を上げられずにいた。宥めるように背中を撫でられ、肩を抱かれる。柔らかな体と体温は嫌でもある人を思い出させて……きつく目を閉じたのだった。



 昼下がりの庭を一人キリは歩いていた。

 あれから気を取り直し、何とか王太后に挨拶をしたあと庭に向かったのだ。ここも見納めになるだろうと思った。護衛には何も言っていなかったが、ここはキリの部屋と目と鼻の先だからいいだろうと思い直す。

 咲く花も緑の葉も、風を受けて揺れている。気儘にあるき、開けた場所に出た時思わず息をつめて立ち止まった。

 顔を会わせたくない人がそこに居た。

 キリが立ち去る前にこちらに気付いた人は、大股で近寄って来た。

「今日はこちらの庭を散策していたのだな」

 はい、と頷くキリの前には、手が差し伸べられた。

 手を伸ばしかけてキリは戸惑う。ここで手を取ったとしても、キリの答えは変わらなかった。ならばこの手も取るべきではないのでは、と。

 戸惑うキリを余所に、王はキリの手を取ると先に立って歩きはじめた。

「陛下、どこに行かれるんですか」

「今日は別の庭を案内しようと思っていたんだ。薔薇のように華やかではないが、今がちょうど見頃の花が咲いているのでな」

「陛下、お気持ちは嬉しいのですが、わたしは今日はここを歩くつもりでおります。陛下もお忙しいでしょうし、また後日お誘い下さい」

 手を引き抜こうとしても、逆に固く握られてしまった。

 歩みをとめて高い位置にある顔を見上げる。

 逆光になって表情はわからなかった。

「別の日だと見頃を過ぎよう。それとも俺と行くのは気がすすまないか」

「いいえ、そんなことは。ただ今日はもうこれで失礼させて下さいませ」

「行かせぬ、と言ったら?」

 え、と声を上げる間もなく大きな体に抱き込まれる。

 頤をとられ喉が仰け反る。そこへ息も出来ないほど深く口づけられた。何度も何度も唇が離れては再び塞がれる。合間に抗議の声を上げてみてもそれは切れ切れで言葉になってはいなかった。

 胸を叩いても拘束する腕は緩まない。

 息苦しさで目の端に涙が滲んできた。

 もう、心を揺らさないで欲しいと思ったのに。酷いと胸の内で詰る。

 

 そこへ。

 聞きなれた声が飛び込んできて、キリは飛び上るほど驚いたのだった。


「陛下、こちらに居られたんですね……と、そこに居るのはキリかい?」

 腕の力が緩んだ瞬間、キリは王の傍から離れた。

 そして声の方向……王の背後を見やる。

 そこには、にこやかな笑顔を浮かべたキリの“義兄”がいた。

 茫然と見上げるキリに、リヒトは笑顔のまま言った。


「迎えに来たよ。帰ろうか」

と。






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