第十二話 お互いの侵攻
夜の海は静かだった。
北海道・登別。
沖合に浮かぶ一隻の小さな漁船で、一人の男が釣り糸を垂らしている。
明日も朝は早い。
そろそろ帰ろうか。
そんなことを考えながら、ぼんやりと海を眺めていた。
その時だった。
ポケットのスマートフォンが突然光り始める。
画面に映し出されたのは、見慣れた白い空間。
そして、神だった。
『ああ。』
『一つ、説明を忘れていました。』
男は思わず眉をひそめる。
「またか……。」
神は構わず話を続けた。
『皆さんの手首には、ブレスレットが見えていると思います。』
『ですが、あれは実際には存在しません。』
『視認できる情報を映し出しているだけです。』
男は自分の手首を見る。
確かに、半透明のブレスレットが浮かんでいる。
『そして。』
神は小さく笑った。
『他県へ侵入した者は、赤く表示されます。』
『一般人。』
『BOOK所有者。』
『その区別はありません。』
『侵入者は、全員から赤く見えます。』
一拍置き、神はいつもの調子で締めくくる。
『以上です。』
『それでは――良いゲームを。』
映像は消えた。
男は首を傾げる。
「侵入者……?」
意味が分からないまま視線を海へ戻す。
その時だった。
沖合を、一隻の小型船がゆっくり進んでいるのが見えた。
「こんな時間に……?」
珍しい光景だった。
男は何気なく船へ目を向ける。
そして。
全身から血の気が引いた。
船に乗っている人間全員の手首が。
真っ赤に光っていた。
侵入者。
北海道の人間ではない。
「……まずい。」
震える手で釣り竿を置く。
逃げなければ。
そう思った瞬間だった。
「見られちゃったわね。」
女の声が背後から聞こえた。
男は勢いよく振り返る。
そこには、一人の女性が立っていた。
いつ乗り移ったのかも分からない。
船の上に。
まるで最初からそこにいたかのように立っている。
その手首には、赤いブレスレット。
青森のBOOK所有者だった。
「なっ……!」
言葉にならない。
女は小さく息を吐く。
「ばれちゃ困るの。」
ゆっくりと人差し指を向ける。
次の瞬間。
閃光が夜の海を切り裂いた。
乾いた破裂音。
男の胸を光が貫く。
何が起きたのか理解する間もなく、その身体は力を失い、船の上へ崩れ落ちた。
赤い血が、静かな海へ流れていく。
波だけが何事もなかったように揺れていた。
女はその場を動けなかった。
男の亡骸を、ただ見つめる。
これが初めてだった。
人を殺したのは。
作戦のため。
家族を守るため。
必要だった。
それは理解している。
それでも。
胸の奥が重かった。
「……最悪。」
思わず漏れた本音。
その言葉を聞き、一人の男が隣へ歩み寄る。
《GATE》のBOOKを持つ能力者だった。
「後悔してるか。」
女は少しだけ考えた。
そして静かに首を振る。
「分からない。」
「でも……気分は良くない。」
男は小さく頷く。
「それでいい。」
「良い気分で人を殺せる方が、よっぽど異常だ。」
女は返事をしなかった。
代わりに小型BOOKを開き、耳元へ当てる。
「こちら先発隊。」
「発見者を処理。」
「周辺の安全を確認。」
数秒後、小型BOOKから返事が届く。
『了解。』
『ゲートを開いてくれ。』
「了解。」
通信が切れる。
《GATE》の能力者が一歩前へ出た。
右手をゆっくりと前へかざす。
「――《GATE》。」
その瞬間。
何もない空間が静かに歪み始める。
岩場の上へ、直径二メートルほどの光の輪が現れた。
揺らめく円。
しかし、まだ通ることはできない。
光は不安定に揺れていた。
「出口設置、完了。」
男は再び小型BOOKを開く。
『接続時間は?』
「約八時間。」
『そんなにか。』
「青森と北海道を繋ぎますから。」
《GATE》は空間を繋ぐ能力。
だが、入口と出口を設置しただけでは完成しない。
距離が離れているほど、空間が安定するまで時間を必要とする。
青森と北海道。
海を越える長距離。
八時間という時間は、むしろ想定より短かった。
『侵攻開始は?』
「午前六時。」
「接続完了と同時に始められます。」
『了解。』
通信が切れる。
男は静かに北海道の大地を見つめた。
あと八時間。
その時。
青森は初めて、本格的に北海道へ牙を剥く。
一方、その頃。
北海道でもまた。
誰も知らないまま、同じ未来へ向かって動き始めていた。
同じ頃。
札幌市内。
とある倉庫には、百人近い人々が集まっていた。
誰一人として騒ぐ者はいない。
倉庫を包むのは、出陣前の静かな緊張感だった。
その場に集まった全員が、ガイの意思に賛同した者たち。
だが、その全員がBOOKを持っているわけではない。
半数近くは、ごく普通の一般人だった。
昨日まで会社で働いていた者。
学校へ通っていた学生。
漁師。
工場勤務。
飲食店のスタッフ。
それぞれが普通の人生を送っていた。
それなのに今は。
命を懸けて他県へ攻め込もうとしている。
不安そうに俯く者もいれば、握った武器を震わせる者もいた。
その最前列には五人の姿がある。
第一班隊長、るう。
第二班隊長、レオン。
双子の姉、メル。
双子の妹、ミル。
そして。
組織を率いる男――ガイ。
ガイは一歩前へ出ると、小型BOOKを閉じて静かに口を開いた。
「先発隊から連絡が入った。」
全員の視線が集まる。
「予定通り函館へ到着。」
「これから船で龍飛崎へ向かう。」
「到着後、《GATE》を設置。」
「開通予定は、明日の午前六時だ。」
倉庫に小さなどよめきが広がる。
いよいよ始まる。
誰もがそう感じていた。
その時、るうが腕を組んだまま口を開く。
「ガイ。」
「今回くらいは勝手に突っ込むなよ。」
ガイは小さく笑う。
「士気を上げるには、俺が先頭を走るのが一番だ。」
「援護は任せる。」
るうは呆れたように肩をすくめた。
「……最初からそのつもりだ。」
隣ではレオンがライフルを肩へ担ぐ。
「前だけ見て走れ。」
「後ろは全部、俺が守る。」
その言葉に、ミルが少しだけ笑う。
「みんな、怪我しないでね。」
「ちゃんと帰ってきて。」
穏やかな声だった。
だからこそ、その場の空気が少しだけ和らぐ。
その時だった。
一人の青年が、おずおずと手を挙げた。
年齢は二十歳前後。
握っているのは一本の金属バット。
BOOKは持っていない。
「本当に……勝てるんですか。」
静かな問いだった。
ガイは青年の目を真っ直ぐ見つめる。
「怖いか。」
少しの沈黙。
青年はゆっくり頷いた。
「怖いです。」
正直な答えだった。
しかし、誰も笑わない。
ここにいる全員が、同じ気持ちだったからだ。
ガイは静かに頷く。
「それでいい。」
一歩、前へ出る。
「怖くない奴なんていない。」
「俺だって怖い。」
倉庫が静まり返る。
誰もが耳を傾けていた。
「でも。」
「怖いから動かなかったら。」
「いつか、もっと怖い奴がここへ来る。」
埼玉県の映像が脳裏に浮かぶ。
砕けた守護水晶。
消えていく七百万人。
ガイは続ける。
「埼玉は消えた。」
「昨日まで存在していた県が。」
「たった一日で。」
誰も言葉を返せない。
それが現実だった。
「待っていても助からない。」
「だったら俺は。」
「自分で道を切り開く。」
力強い声が倉庫に響く。
「BOOKは見つけ次第、お前たちへ回す。」
「能力がないから置いていく。」
「そんなことは絶対にしない。」
「俺は仲間を見捨てない。」
静かな言葉だった。
それでも、その一言一言が胸へ深く響く。
俯いていた青年は、ゆっくりと顔を上げた。
震えていた手にも、少しだけ力が戻る。
その様子を見て、るうが一歩前へ出た。
「ガイ。」
「俺たちも百人を超えた。」
「そろそろ組織に名前を付けよう。」
その一言で、倉庫が静まり返る。
ガイは少しだけ考えた。
そして、小さく笑う。
「そうだな。」
ゆっくりと仲間たちを見渡す。
「俺たちは、この世界で仲間を守る。」
「帰る場所を守る。」
「誰一人、置いていかない。」
短く息を吸う。
「だから今日から。」
「俺たちは――」
一拍置き、静かに告げた。
「ARKだ。」
誰かが小さく呟く。
「アーク……。」
ガイは頷いた。
「方舟。」
「終わった世界でも。」
「仲間だけは乗せて進む。」
るうが笑う。
「いい名前だ。」
レオンも静かに頷いた。
「異論はない。」
その瞬間だった。
一人が拳を掲げる。
「ARK!」
続いて、また一人。
「ARK!」
さらに、その声は倉庫中へ広がっていく。
「ARK!」
「ARK!」
「ARK!」
百人近い声が一つになる。
ガイは右拳を高く掲げた。
「青森を落とす。」
力強く言い切る。
「全員で帰ってくるぞ。」
「おおっ!!」
仲間たちの声が倉庫を震わせた。
その頃。
青森では、北海道侵攻の準備が着々と進んでいた。
そして北海道でも。
青森侵攻の準備が、静かに整えられていく。
互いに相手の県を滅ぼすため。
互いに、その存在を知らぬまま。
二人の《GATE》所有者は、それぞれの県を繋ぐ道を作っていた。
まったく同じ能力。
まったく同じ時間。
偶然とは思えない巡り合わせ。
まだ誰も知らない。
二つの道は、夜明けとともに開かれる。
そして、その先で。
北海道と青森、最初の全面衝突が幕を開けようとしていた。




