記憶喪失とビスケットの誘惑
「お名前、分かりますか?」
目を覚まして最初にされた質問が、それだった。
優しく、けれど探るように問いかけてくる。
何となくわかった彼は医師のモンドルさん
やはりここはアニメの世界なのだ。
……名前。ここで本名の「幸優」なんて言ったら、即座に不審者として牢屋に逆戻りだ。
「……フェリシア、です」
「では、なぜ先ほどあんな驚いた声を出したのだ!」
食い気味に突っ込んできたのは、金髪の少年。ディラン様だ。アニメの第2王子。
本物は、画面で見るよりずっと生意気そうで、そして――顔が良い。
「……何となく、です」
「はぁ?」
嘘は言ってない。状況が理解できていないし、何より頭が追いつかないんだから。
「……記憶喪失」
モンドルさんがボソッと呟いた。
「記憶喪失? 処刑が嫌すぎて、演技をしているのではないのか?」
「ディラン、言い過ぎだ。……話を止めてすまない、先生」
ベネディクト様がディランを制する。そのやり取りを横目に、私は心の中でツッコミを入れる。
(記憶喪失っていうか、中身が入れ替わってるんですけどね!? ……でも、今はその設定に乗っかっておこう。その方が都合がいいし)
「驚かせてすまない。覚えていることについて教えてほしい」
ベネディクト様の真摯な瞳に見つめられ、私はしどろもどろに答える。
「……先日、牢獄にいた時のことは、うっすら覚えています。あとは所々で……今は整理がつかなくて、申し訳ございません。……あ、それと先ほどは!」
私はモンドルさんに向き直り、深く頭を下げた。
「報告しないと罰せられることを知らず、止めてしまいすみませんでした、先生!」
先生、と呼ばれたモンドルさんは、一瞬きょとんとしてから、ふっと表情を和らげた。
「先生ではないよ。ベネディクト様がそう呼んでいるだけだ。私のことはモンドルと呼びなさい」
「分かりました! モンドル様!」
「様はいらないですよ(笑)」
「あ、すみません(笑)」
和やかな空気が流れる中、ディラン様だけが面白くなさそうに、無言で部屋を出て行った。
ベネディクト様がその背中を見送ったあと、モンドルさんに視線を送る。
「……すまない、二人にしてほしい」
モンドルさんが退出し、部屋には私とベネディクト様の二人きり。
(気まずい! 目の前に推しの第1王子がいるなんて、心臓が持たないですよぉ……!)
椅子を引き、私の近くに座ったベネディクト様が口を開く。
「……私との関係は、知っているのか?」
「はい!」
(あっ、しまった! オタクの反射で元気よく答えちゃった!)
「……あはは! あはははは!」
突然、ベネディクト様がお腹を抱えて笑い出した。
冷徹な王子様の、予想外の爆笑。
「……大、丈夫ですか!?」
「すまない、君の反応が予想外すぎてな」
「……バカにしてませんか?
ある程度は把握しているつもりですが、分からないところがあるのは事実です」
「そうだな、申し訳ないことをした」
(バカにはしてたのかよ…はぁ)
「それよりベネディクト様、お腹空いてませんか?」
「……何かくれるのか?」
「あいにく今は持ってません。お腹が空いたので、何か持ってたりしないかなぁと思いまして……」
恥を忍んで聞いてみると、彼は少し驚いた顔をして、ポケットから何かを取り出した。
「……小腹用に入れていたビスケットならあるが。食べたいのか?」
(ビス、ケット……! 食べたい、猛烈に食べたい! ……でも、ダメだ。本来のフェリシア様は、毒を警戒して他人の食べ物なんて口にしなかったはず。ここでガッついて地獄を見るわけにはいかない……!)
私は、震える心で首を横に振った。
「ベネディクト様、大丈夫です。ご自身用のものでしたら、お気になさらず。少し……少し、空いていただけですから……っ」
「……そうか。私もおかしなことを言ってすまなかった。この後予定があるから、失礼させてもらうよ」
「……そうですか。……はい」
去り際、ベネディクト様が足を止め、不思議そうに私を振り返る。
「……大丈夫か?」
「大丈夫です! 何か?」
「いや……悲しそうな表情をしていたと思ったが。気のせいか。疲れているのだろう、ではまた来る」
「はい、お気をつけて……」
ドアが閉まる音がした瞬間、私はベッドの上でのたうち回った。
(クッキー食べたかったぁぁぁ! ビスケット食べたかったよぉぉぉ!! これをずっと続けるの!? いやだぁぁー!)
静かな医務室に、私の心の叫びだけが虚しく響く。
「……誰か、私に糖分をぉぉ……っ




