扉の向こうのお姫様と、秘密の朝食
「失礼いたします……」
ロイさんに促され、私は残りの食事が乗ったワゴンを引いて、静かに部屋の中へと足を踏み入れた。
重厚な扉がパタンと閉まった――次の瞬間。
「ワンッ! キャンキャン!」
タタタタッと床を蹴る元気な足音と共に、茶色い毛玉が一直線に私めがけて突っ込んできた。
「わわっ、ちょっと待ってマロン!?」
飛びついてこようとするマロンの鼻先を間一髪で躱し、私はとっさにワゴンの上のリーゼ様のお皿を両手で高く掲げた。
(危ない危ない! これだけは死守しないと!)
マロンは届かないお皿を見上げながら、私の足元でぴょんぴょん飛び跳ねている。
本当に元気いっぱいだ。犬用の豪華ご飯を完食したばかりなのに、まだ食べる気満々らしい。
私はお皿を慎重にワゴンへと戻し、部屋の奥へと視線を向けた。
天蓋付きの大きなベッド。
薄いレースのカーテンが引かれていて、その向こう側に、小さな人影が縮こまるように座っているのが見えた。
大きなぬいぐるみを抱きしめているのか、こちらに背を向けたまま、ピクリとも動かない。
「……リーゼ様?」
できるだけ優しく、柔らかい声を作って呼びかけてみる。
ワゴンを静かに押しながら、ベッドへと近づいていく。
足元ではマロンがトコトコと当たり前のように付いてくる。
「リーゼ様、朝食のおかわり……じゃないですけど、少しだけお持ちしましたよ」
けれど、カーテンの向こうの小さなお姫様は、なかなかこちらを振り向いてくれない。
部屋の中に、気まずい沈黙が流れる。
どうしよう、何か声をかけなきゃ――そう思った、まさにその時だった。
――ぐぅ〜〜……。
静まり返った部屋の中に、信じられないくらい立派な腹の音が響き渡った。
(……え?)
そういえば、私が朝ごはんを食べたのっていつだっけ。
……パンをかじりながら走って、洗濯して、迷子になって、置物の騎士に話しかけて……。
考えるまでもなく、完全にお腹ペコペコだった。
穴があったら入りたい、と私が顔を覆いそうになった瞬間。
サッ、とレースのカーテンが揺れた。
音に驚いたのか、ベッドの上の少女が勢いよくこちらを振り返る。
「……!」
くりくりとした大きな瞳が、まん丸に見開かれた。
茶色い髪に、少し青白い顔。
彼女は私の顔を見るなり、息を呑んで固まった。
完全に、あの日の木陰のメイドだと気付いた顔だ。
私は気まずさを誤魔化すように、へらりと笑ってみせた。
「あ、あはは……いやぁ、こんな偶然もあるんですねぇ」
「……あの時の、お姉さん?」
小さな、消え入りそうな声。
「はい。その節はお世話になりました、サユと申します。……足、怪我しちゃったって聞いて、心配で来ちゃいました」
私がそう言うと、リーゼ様はぎゅっとぬいぐるみを抱きしめ直した。
少しだけ身構えていた彼女の肩から、ふっと力が抜けていくのが分かる。
人の本心を見抜く力があるというリーゼ様だ。
私が怒っていないことや、純粋に彼女を心配していることが、すぐに伝わったのかもしれない。
「お姉さん……私のせいで、痛い思いをさせてごめんなさい……」
「全然! 見ての通り、私はもうピンピンしてますから大丈夫ですよ!」
その場で軽く足踏みをして見せると、リーゼ様は少しだけホッとしたように表情を緩めた。
うん、打ち解けるのは早そうだ。
だけど――。
「リーゼ様、ご飯、もう少しだけ食べられませんか? 美味しいジャムも添えてもらったんですよ」
ワゴンのお皿を指さすと、リーゼ様は困ったように視線を落とした。
やっぱり、食欲そのものはまだ戻っていないらしい。
(うーん、どうしよう……)
無理強いするのは良くない。
でも、少しでも食べて元気になってほしい。
そこで、私の脳裏にある作戦が閃いた。
(……こうなったら、『目の前で美味しそうに食べてたらつられて食べたくなる説』を実行するしかない!)
テレビの食レポだってそうだ。人が美味しそうに食べているのを見ると、急にお腹が空いてくるのが人間の心理というもの。
私はワゴンの端に置いてあった、味見用の綺麗な予備スプーンを手にとった。
「失礼しますね。……ん〜〜っ!」
柑橘のジャムを少しだけすくい、自分の口へ運ぶ。
「……っ! おいしぃ〜〜〜!!」
爽やかな柑橘の酸味と、上品な蜂蜜の甘みが口いっぱいに広がる。
演技じゃない。実際にお腹が空きすぎていたのもあって、全身の細胞に染み渡るように美味しかった。
食べ物に勝てなかった私を許してほしい。
ふと視線を上げると、リーゼ様が目を丸くして固まっていた。
王族の目の前で、メイドが料理をつまみ食いするなんて、前代未聞の光景だろう。
「私の……」
ぽかんと呟くリーゼ様。
けれど、その驚きの表情は――じわじわと、「美味しそう……食べたいかも……」という表情へと変わっていた。
(よし、作戦成功!)
私はすかさず予備のスプーンを置き、リーゼ様用の銀のスプーンに持ち替えた。
柔らかい白身魚とクリームソース、それに少しだけ柑橘ジャムを乗せて、ベッドのリーゼ様へと差し出す。
「はい、リーゼ様。あーん」
「……っ!?」
リーゼ様はびくっと固まった。
『自分で食べられる』と言いたそうな顔をしている。
だけど――お腹と本能は正直だった。
小さなお口が、無意識にぽかんと開いている。
私は逃さず、そっとスプーンを口元へ運んだ。
もぐもぐ、と小さな口が動く。
ごくりと飲み込んだあと、リーゼ様の瞳がぱっと輝いた。
「……美味しい」
「でしょ〜!」
その瞬間。
「ワンッ!」
自分ももらえると思ったのか、待ちきれなくなったマロンがベッドに前足をかけて乗り出してきた。
「わっ、ちょっとマロン、だめだってば!」
私は慌てて、お皿を持った手をぐーんと高く掲げる。
届かないお皿めがけて、マロンがベッドの脇でぴょんぴょん飛び跳ねる。
「ふふっ……あははっ!」
そのドタバタ劇を見て、リーゼ様が声を上げて笑った。
花が咲いたような、元気いっぱいの笑顔。
(可愛い……!!)
思わず心の声が漏れそうになる。
天使か? この世界の王女様は天使なのか??
私の熱烈な視線に気づいたのか、リーゼ様が少し照れくさそうに頬を赤らめた。
「あ、いや……! あまりにも可愛すぎて、つい……! こんな発言、姫様にだなんて不届き者ですよね! 申し訳ありません!」
我に返って慌てて頭を下げると、リーゼ様はくすくすと笑いながら首を横に振った。
「ううん。サユは……本当にいい人ね」
そして、小首をかしげてじっと私を見つめてくる。
「なんだか声が……あの方に、すごく似ているけれど」
(……っっ!?)
背筋に冷たい汗がツーッと流れた。
一応、地声からトーンを変えて喋っていたはずなのに。
(ば、バレてる……!?)
笑顔のまま凍りつく私を、リーゼ様のくりくりとした瞳がじっと見つめていた。




