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リプレイ・ミュージック ―35歳、もう一度だけ夢を見る―  作者: にゅん


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After the Applause

 『言えないままで』のイントロが流れ始めると、『夜を連れて』で高まっていた会場の空気が静かに切り替わった。


 熱気をそのまま引き継ぐのではなく、照明も音も一度落ち着かせ、ステージ中央に並んだ隼人とMioへ自然に意識が集まるよう演出されている。


 前回この曲を披露した時、2人はステージの左右へ離れ、最後まで互いの視線を合わせなかった。


 アニメ『透明な手紙』の世界観を表現するための演出であり、あの場では間違いなく正解だったと隼人は今でも思っている。


 しかし、今日は作品のイベントではなくLentoの単独ライブであり、Mioもすぐ隣に立っている。


 顔を公開しないための照明は維持されているものの、互いの表情まで見えなくなるほど暗くはなく、呼吸や小さな動きまで十分に感じ取れる距離だった。


 最初の歌詞をMioが静かに歌い始めると、隼人はその声を聞きながら自分の入る場所を待った。


 何度リハーサルを重ねても、本番まで完全に同じ歌になるわけではない。Mioは客席の空気を受けて普段より少しだけ言葉を長く残し、隼人もそれに合わせて呼吸を変えていく。


 やがて隼人の歌声が重なった。前回とは距離が違い、相手の声が近い。


 同じステージで同じ方向を向いて歌っているだけなのに、それだけで『言えないままで』という曲そのものが以前とは違って聞こえた。


 この曲は、言葉にできなかったものを抱えたまま、それでも誰かと同じ場所にいていいと歌う曲だった。


 アニメの物語と結びついたことで多くの解釈を生み、最終回のあとには隼人自身が予想していなかったほど長く聞かれる作品になったからこそ、今日は以前の演出を再現しようとは思わなかった。


 中盤へ入り、隼人がMioへ視線を向けると、彼女も自然にこちらを見た。


 前回なら存在しなかった瞬間だったが、それを特別な演出として強調する必要はない。


 ただ同じ曲を歌う2人が、相手の呼吸を確かめるために視線を交わした。それだけで十分だった。


 終盤では2人の声が重なり、伴奏も少しずつ音数を減らしていく。客席から余計な声は上がらず、歌だけが会場へ残った。


【それでも、ここにいていい。】


 前回とは違い、Mioだけが先に声を消すことはない。2人の歌声が最後まで重なり、同じタイミングで静かに消えていくと、数秒の余韻を置いて大きな拍手が返ってきた。


 隼人とMioは顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。隼人が「前回とは、かなり変わりましたね」と声をかけると、Mioは客席へ一度視線を向けてから、「今回はちゃんと隣にいましたからね」と楽しそうに答えた。


「それだと前回が失敗だったみたいに聞こえますよ。あれはあれで、作品のイベントとしては成功だったでしょう」


「分かってますよ。成功だったからこそ、今日は同じことをしなくてよかったんです。私は今回の方も好きですけどね」


 その答えに隼人も素直に頷いた。同じ曲だからといって同じものを再現する必要はなく、一度しかなかった時間はそのまま残しておけばいい。


 最後にMioへ礼を伝えると、彼女も「初めての単独ライブ、最後まで楽しんでください」と笑い、客席へ頭を下げてから舞台袖へ戻っていった。


 その姿を最後まで見送った隼人が再び客席へ向き直ると、ステージには自分だけが残った。


 残っている曲は、あと1つだった。


     ◇ ◇ ◇


 転換のために照明が少しだけ暗くなる中、隼人はスタッフから受け取った水で喉を潤しながら、ゆっくりと会場を見渡した。


 ここまで何曲も歌ってきた身体には確かな疲労が残っているものの、早く終わってほしいという気持ちは少しもない。


 むしろ、もう最後なのかと思う気持ちの方が強かった。ただし、それは終わりたくないという寂しさとは違う。


 ここまで十分に楽しかったからこそ、最後の1曲まできちんと楽しみ、そのうえで今日という時間を終わらせたいと思っていた。


「次で最後の曲です。アンコールもありません。最初から、この曲で終わるつもりで今日の流れを作りました。なので、このあと待っていても本当に何も出てきません」


 惜しむ声に混じって笑いが広がり、隼人もつられて表情を緩めた。終演後に期待を持たせたまま長く待たせるより、最初から伝えておいた方がいい。


 それに今回のライブで最後に歌う曲を考えれば、そこからもう1曲追加する方が不自然だった。


「このライブのタイトルは『After the Applause』です。日本語にすれば、そのまま『拍手のあとで』。前にステージへ立ったあとで作った曲から、今回のタイトルを取りました」


 以前ステージへ立ったあと、特別な時間が終わっても自分の日常は何も失われていないことに隼人は気づいた。


 楽しかったという記憶を持ったまま普段の生活へ戻り、また曲を作る。それでいいと思えた時に生まれたのが『拍手のあとで』だった。


「ライブって、ずっと続くものじゃないですよね。始まったらいつか終わるし、曲だって最後の音まで行けば終わります。でも、終わったから価値がなくなるわけじゃない。今日ここに来てくれた人も、配信で見てくれている人も、この時間が終わったらそれぞれの生活へ戻ります。俺も同じです」


 Lentoという名前を使っていない時間に自分が何をしているのか、それを客席へ説明する必要はない。


 どこで暮らし、どんな生活を送り、普段どんな名前で呼ばれているのかも、これから先まで明かすつもりはなかった。


 ただ、Lentoにも音楽だけではない日常がある。それだけ伝われば十分だった。


「特別な時間が終わったあとに普通の日が続いていくから、またこういう時間を楽しめるんだと思います。だから今日は、ちゃんとここで終わります。最後の曲です。『拍手のあとで』」


 言葉を終えると同時に照明がゆっくり落ちていった。


     ◇ ◇ ◇


 最後の曲には、派手な映像を用意していなかった。巨大なスクリーンにも、これまで使われてきたイラストや光の演出は表示されず、薄い照明だけがステージを照らし、顔を隠した隼人の輪郭を静かに浮かび上がらせている。


 サポートメンバーによる伴奏が始まる。


 『拍手のあとで』は、運命のダイスから得た曲でも、誰かから依頼されて作った曲でもない。初めてLentoとしてステージへ立ち、その時間を心から楽しいと思えたあと、自分の中に残った感情をそのまま形にした歌だった。


 隼人は最初の言葉を静かに歌い始めた。


 最後だからと声を必要以上に張ることも、特別な技巧を見せようとすることもなく、録音した時と同じように一つひとつの言葉を届けていく。


 今日のライブでは、活動初期に発表した曲から始まり、その後に作ってきた音楽を順番に辿ってきた。


 誰かへ渡した曲があり、作品のために作った曲があり、自分自身の声で届けるために作った曲もある。それらは形も目的も違っているが、すべて今のLentoへつながっていた。


 そして隼人自身にとっては、もっと長い時間につながっている。


 前の人生では、音楽を続けることと人生を守ることを両立できなかった。


 好きだから時間を使い、上手くなりたいから生活を削り、結果を出したいからさらに何かを捨てる。そうやって音楽以外のものを減らし続けた先で、最後には音楽そのものまで失った。


 今度は違う。


 音楽を好きなまま、ステージへ立つことができた。


 それでも自分の人生には、ステージの外に戻る場所が残っている。その事実こそ、隼人が今回のライブで確かめたかったものだった。


 曲は静かに中盤へ入り、隼人は歌いながら客席へ視線を向けた。今日を楽しみにして来た人も、活動初期から聞いてくれている人も、最近Lentoを知った人もいるだろう。ゲストの歌を楽しみにしていた人だっているかもしれない。


 ここへ来た理由は、それぞれ違っていていい。


 今だけは、同じ場所で同じ曲を聞いている。


 その時間も、もうすぐ終わる。


 だからこそ大切にできるのだと、今の隼人なら素直に思えた。


【拍手が止んだあとで、僕らはまた暮らしていく。】


 その一節を歌った時、胸の奥にある感情が不思議なほど自然に声へ乗った。


 曲を作った当初には、自分自身へ言い聞かせる意味も少しだけあった言葉だったが、今はもう確かめる必要がない。


 ステージに立っても、帰れる。


 多くの人から拍手を受けても、それだけを求め続けなくていい。楽しかった時間を楽しかったまま終わらせ、次の日からまた別の時間を生きていけることを、隼人は既に知っていた。


 終盤へ進むにつれて伴奏は少しずつ静かになり、照明もそれに合わせて弱くなっていく。


 隼人は最後まで歌い方を変えず、余計な感情を足すこともなく、曲の最後に置いた言葉まで丁寧に届けた。


 やがて最後の音が消え、会場にごく短い静寂が生まれた。


     ◇ ◇ ◇


 誰かが意図的に作った沈黙ではなかった。


 曲が終わったことを受け止めるために自然と生まれた数秒の空白が過ぎると、客席から大きな拍手が広がり、やがて歓声やLentoの名前を呼ぶ声も重なっていった。


 隼人はすぐに言葉を返さず、その場で拍手を聞いていた。


 自分の名前で開催した初めての単独ライブだった。自分の曲を歌い、自分が関わった歌をゲストに届けてもらい、準備してきた流れを最後まで崩さず終えることができた。


 隼人はゆっくりと頭を下げ、しばらくしてから顔を上げた。伝えたいことを考えて長い言葉を探そうとしたものの、最後に残ったのは驚くほど単純な感謝だけだった。


「ありがとう。……また、どこかで」


 それは次の予定を約束する言葉ではなく、毎年開催すると宣言するものでもなかった。


 もちろん、今日を最後に二度とライブをしないという意味でもない。またステージへ立ちたいと思い、条件が合う日が来たなら、その時になってから考えればいい。


 今は、今日をきちんと終える。


 もう一度客席へ頭を下げると、照明がゆっくり消えていった。姿が見えなくなる直前まで続いていた拍手を背中で聞きながら、隼人は舞台袖へ入った。


     ◇ ◇ ◇


 舞台袖へ戻ると、待っていたスタッフたちから一斉に拍手を送られた。音響、照明、映像、進行、サポートメンバーなど、数か月前から今日のために準備を続けてきた人たちの顔が並んでいる。


「お疲れさまでした。初ライブ、無事終了です」


 スタッフがそう声をかけると、隼人は肩から力を抜きながら周囲へ頭を下げた。


「ありがとうございました。途中から時間の感覚がなくなるくらい楽しんでました。俺1人じゃ絶対に作れなかったので、本当に助かりました」


「途中から、ですか。最初はやっぱり緊張してたんですね」


「そりゃしますよ。最初から余裕だったみたいに見えてたなら、上手く隠せてたってことにしておきます」


 スタッフの笑いにつられて隼人も表情を緩める。その横では次々と撤収作業へ移っており、つい先ほどまで特別だったステージが、早くも終演後の現場へ戻り始めていた。


 そこへ先に出番を終えていたMioが近づいてきた。スタッフの邪魔にならない場所で待っていたらしく、隼人へ軽く拍手を送りながら「最後、良かったですよ」と声をかける。


「ありがとうございます。Mioさんもお疲れさまでした。今回は前よりずっと合わせやすかったです」


「私もです。やっぱり相手が近くにいる方が歌いやすいですね。最初から普通に歌えばよかったんじゃないですか?」


「それ、さっき俺が言ったら、今さら認めたって笑ったでしょう」


 隼人が苦笑すると、Mioも思い出したように笑った。ライブ直後にもかかわらず、特別な空気を引きずらず普段と変わらない会話ができることに、隼人は少し安心していた。


 やがてスタッフから配信側の出演者とも挨拶できると声をかけられ、2人は別室へ移動した。


 モニターにはミナとこよりが待っており、隼人が姿を見せた瞬間、2人の声がほとんど同時に飛んでくる。


『Lentoさん、お疲れさまでした! 最後までちゃんと見てましたよ!』


『私も見てました! でもその前に言わせてください。あの演出、やっぱりずるいですからね!』


 真っ先に抗議を始めたこよりを見て、隼人は思わず笑った。どうやら本番を終えても【視聴者:1】の演出を許すつもりはないらしい。


「まだ言うんですか。ちゃんと最後まで歌えたんだから結果的には成功でしょう」


『結果の話じゃないんです! 私がどれだけ最初を耐えたと思ってるんですか!』


『でも、こよりちゃん。あれはかなり良かったよ。私も別のスタジオで見ながら、ちょっと危なかったもん』


 ミナまで演出を褒め始めたことで、こよりは味方がいないと嘆きながらも最後には笑っていた。


 その様子を眺めながら、隼人は数か月前の打ち合わせとほとんど変わらない空気に心地よさを覚える。


 ステージを終えたからといって、何か特別な人間へ変わったわけではない。ライブを一緒に作った人たちと話し、スタッフへ礼を伝え、撤収が始まれば自分も帰る準備をする。


 その当たり前が、今の隼人には何より嬉しかった。


     ◇ ◇ ◇


 すべての確認を終えて控室へ戻った頃には、終演からしばらく時間が経っていた。


 机の上に置いたままだったスマートフォンには大量の通知が届いているものの、隼人は画面を一度確認しただけで再び伏せた。


 SNSの感想も、配信の数字も、明日になれば確認できる。今すぐ数字を追いかけたところで、今日のライブがもっと成功したものへ変わるわけではない。


 椅子へ深く座って背もたれへ身体を預けると、ステージに立っていた時には気づかなかった疲労が一気に押し寄せてきた。


 それでも不快な重さではなく、遊び終えたあとに似た満足感が身体に残っている。


「……楽しかったな」


 誰に聞かせるでもなく漏れた言葉に、自分で少し笑った。数か月かけて準備した初めての単独ライブを終えた感想としてはあまりにも簡単だったが、今はそれ以上の言葉を足したいとは思わなかった。


 帰宅して自室へ戻ったあとも、その気持ちは変わらなかった。


 着替えを済ませ、眠る前にいつものノートを開くと、細かな数字については何も確認せず、今日のために新しいページを使う。


【初めて、自分の名前だけで客席が埋まった。】


 その一文を書いてから、隼人はしばらくペン先を止めた。


 もっと長く感想を書こうと思えば、いくらでも書ける。ミナやこより、Mioとの共演、客席から返ってきた反応、最後の拍手まで、残しておきたい出来事はたくさんあった。


 それでも、次に書いたのは短い一文だけだった。


【楽しかった。】


 今夜について残すなら、その言葉だけで十分だった。


 ノートを閉じると、もう拍手は聞こえない。


 ステージの照明も消え、スタッフたちは撤収を進め、それぞれが自分の場所へ帰っている頃だろう。数時間前まで特別だった夜は、きちんと終わっていた。


 だから隼人も、明日からまた普段の生活へ戻ればいい。


 その途中で新しい曲を作りたくなれば作ればいいし、誰かの声に惹かれたなら、その人のために曲を書いてもいい。


 もう一度ステージへ立ちたいと思う日が来たなら、その時に自分の生活と相談して決めればいい。


 音楽のために人生を使い切る必要はない。


 人生の途中に、音楽があればいい。


 隼人は机の明かりを消し、今日という特別な一日を終わらせた。

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