続きのための余白
3曲目の制作を始めてからも、隼人の高校生活が音楽だけに染まることはなかった。
朝になれば学校へ行き、授業を受け、休み時間には拓海たちとくだらない話をする。放課後には受験勉強を優先する日もあれば、アルバイトへ向かう日もあり、帰宅すれば家族と夕食を食べる。高校3年生の冬が近づいた今、大学受験を控えた生活の中へ音楽を無理なく収めることが、以前よりずっと自然になっていた。
前の人生では、音楽のためなら何かを削ることを当然だと思っていた。
練習時間を増やすために遊びを断り、ライブへ出るために予定を空け、将来の選択まで音楽を中心に決めていた。それを努力と呼ぶこと自体は間違っていないが、隼人にとって問題だったのは、削ることそのものが正しいと思い込んでいたことだった。
今は違う。
大学へ進むための勉強も、友人と過ごす時間も、家族と食卓を囲む時間も、自分の人生から切り離したくはない。そのうえで音楽を続けるためには、限られた時間の中で何を優先するか、自分で決める必要があった。
だから『余白の先へ』の制作も、焦って進めることはしなかった。
〈18〉から得た旋律や伴奏構成を確認しながら、平日は1時間から2時間ほど作業し、休日にまとまった時間を取る。試験前になれば制作を止め、模試の結果が悪ければ勉強時間を増やした。
以前なら、その選択に焦りを覚えていたかもしれない。
しかし今の隼人には、数日間音楽から離れたところで夢が消えるわけではないと分かっている。
「今日はここまでだな」
午後11時を少し過ぎたところで、隼人は制作ソフトを閉じた。
あと1時間続けようと思えば続けられる。それでも明日は学校があり、朝から小テストも予定されている。睡眠時間を削ってまで進めなければならない理由はなかった。
机の端には、音楽用とは別のノートが置いてある。
英語や数学、現代文の問題集も積まれており、その横には大学案内と模試の結果が並んでいた。15歳へ戻った直後に決めた通り、大学へ進むという選択は今も変えていない。
Lentoとして曲が伸びたからといって、それを理由に進路を変えるつもりもなかった。
高校卒業までに3曲を公開する。
それも最初から決めていた。
1曲目の『夜明けの途中』、2曲目の『青のコンパス』に続き、『余白の先へ』を公開すれば、高校時代にやろうと決めていたことは終わる。
その先は大学へ入ってから考えればいい。
隼人は目覚ましを確認すると、机の明かりを消した。
◇ ◇ ◇
翌日の昼休み、隼人は教室で弁当を食べながら英単語帳を眺めていた。
「お前、最近ちゃんと受験生してるよな」
向かい側へ座っていた拓海が、少し感心したように言った。
「最近じゃなくて前からしてる」
「いや、お前の場合、普通にバイトして、音楽もやって、そのうえ勉強してるだろ。もっとどれか捨てると思ってた」
「全部やるって決めたからな。その代わり、全部を毎日全力ではやらない」
「それで間に合うの?」
「今のところ模試は大丈夫。落ちそうになったら音楽の時間を減らす」
隼人が何でもないことのように答えると、拓海は少し意外そうな顔をした。
Lentoの正体を知っている拓海からすれば、既に何百万回も再生される曲を持つ人間が、大学受験を優先すると言うのは不思議なのかもしれない。
「Lentoの方が伸びても?」
「伸びても」
「仕事の話とか来たら?」
「受験終わるまで待ってもらうか、断る」
「もったいなくね?」
「大学落ちる方が俺にはもったいない」
迷いはなかった。
音楽の機会を1つ断ったからといって、その瞬間にすべてが終わるわけではない。もし1回の依頼を断っただけで消える程度のものなら、それを守るために人生全体を差し出す必要もないと思っている。
拓海はしばらく隼人を見たあと、苦笑した。
「昔から妙に達観してると思ってたけど、お前たまに高校生じゃないみたいなこと言うよな」
「気のせいだ。まだ酒も飲めない健全な高校生だぞ」
「酒を基準にするなよ」
「大学入ったところでまだ飲めないしな。そこだけは時間が遅い」
「何をそんなに待ってるんだよ」
拓海が笑い、隼人も英単語帳を閉じながら笑った。
こういう時間も、前の人生では音楽より優先順位が低いものとして扱っていた。
今はそう思わない。
昼休みに友人とくだらない話をすることも、隼人が取り戻したかった人生の一部だった。
◇ ◇ ◇
11月へ入る頃には、『余白の先へ』の伴奏もかなり形になっていた。
曲の中心にあるのは、何かが終わったあとの時間だった。
大きな失恋や死別だけを歌うのではない。卒業や引っ越し、友人との別れ、長く続けてきたものをやめた日など、昨日まで当たり前に存在していたものがなくなったあと、それでも日常が続いていく感覚を曲にしている。
悲しい出来事を忘れろとは歌わない。
前を向けば全部解決するとも言わない。
なくなったものを抱えたままでも、次の日は来る。
その余白へ、少しずつ新しいものが入ってくる。
隼人自身がこの曲を選んだ理由も、そこにあった。
35歳まで生きた最初の人生は、なかったことにはならない。
バンドを組んだ時間も、仲間と別れたことも、会社員として働いた年月も、母を亡くしたことも全部覚えている。15歳へ戻ったからといって、その記憶まで消えたわけではなかった。
だからこそ、今の自分がこの曲を歌う意味はある。
隼人は録音した仮歌を再生し、椅子の背もたれへ体を預けた。
「……ちょっと綺麗すぎるな」
音程は外れていない。
発声にも大きな問題はなく、〈18〉から得た歌唱イメージにも近い。それでも何度か聞き直すと、感情を丁寧に乗せようとするあまり、歌そのものが完成されすぎているように感じた。
この曲に必要なのは、悲しみを乗り越えた大人の声ではない。
まだ何かを失う途中にいて、これから先がどうなるか分からない人間の声だった。
隼人は録音を止め、少し考えた。
身体は17歳。
高校卒業を控え、長く続いた学校生活が終わろうとしている。
友人たちとも、卒業後は今までのように毎日顔を合わせることはなくなる。大学へ進めば新しい生活が始まり、今の教室や通学路も日常ではなくなる。
35歳の記憶を使って歌う必要はない。
今の17歳の自分にも、終わりへ向かっている時間は確かに存在している。
「そっちでいいか」
隼人は新しい録音データを作った。
過去を振り返るように歌うのではなく、まだ終わっていない場所から歌う。
卒業式を迎える前の高校生が、終わったあとを想像するように声を出す。
その方が、今の自分には自然だった。
◇ ◇ ◇
イラストについては、今回も紗月へ依頼することにした。
放課後、駅前のファミレスで待ち合わせると、紗月は学校鞄からタブレットを取り出した。以前より依頼を受ける機会が増えたらしく、最近はSNS経由で知らない相手から仕事を頼まれることも珍しくないという。
「今回は15,000円でお願いしたい」
「本当にいいの? 前よりまた上がってるけど」
「いいよ。依頼増えてるんだろ?」
「増えてるけど、隼人から最初に5,000円もらった時は、それでも結構嬉しかったんだよね」
「俺も最初の曲を出した頃は、こんなに再生されると思ってなかったからな」
2人とも、少しずつ状況が変わっている。
だからといって、昔からの友人という理由だけで安く頼み続けるつもりはなかった。仕事として依頼するなら、その時点で紗月が持っている技術に合わせて対価を払うべきだと思っている。
「それで、今回はどんな絵?」
「夕方がいい。何かが終わったあとの帰り道みたいな感じ。ただ、寂しすぎる絵にはしたくない」
「学校とか入れる?」
「はっきり高校って分からなくてもいいかな。駅のホームでも、川沿いでもいい。誰かがいなくなった場所じゃなくて、いつもの場所が少し違って見える感じが欲しい」
紗月は隼人の説明を聞きながら、タブレットへ簡単な線を引いていく。
夕暮れの空と、長く伸びる影。
画面の中央には誰か1人を大きく置かず、少し離れた場所から景色全体を見るような構図にする。人の姿を入れるとしても小さくし、見る側が自分の記憶を重ねられる余白を残す。
「こんな感じ?」
「いいね。もう少し空を広くしてほしい」
「タイトルが『余白の先へ』だもんね」
「そういう意味もある」
紗月は何度か構図を調整したあと、保存してタブレットを閉じた。
「ところで、これが高校最後の曲?」
「予定ではね」
「大学入ったらやめるわけじゃないんでしょ?」
「やめないよ。ただ、高校生のうちに3曲出すって最初から決めてたから、そこは守る」
「変なところ律儀だね」
「最初に決めた線を簡単に動かすと、結局また音楽だけになるからな」
隼人がそう答えると、紗月は少しだけ考えるような顔をした。
「隼人って、音楽好きなのに音楽から距離取ろうとするよね」
「好きだからだよ」
「どういうこと?」
「嫌いになるまでやりたくないってこと」
それ以上は説明しなかった。
紗月も無理に聞こうとはせず、代わりにテーブルの上に残っていたポテトを1本取った。
「じゃあ大学入っても、絵が必要になったら言って」
「その頃にはもっと高くなってそうだな」
「ちゃんと払ってください」
「働きます」
2人は笑いながら、残っていた飲み物を飲み干した。
◇ ◇ ◇
12月へ入ると、隼人は音楽へ使う時間をさらに減らした。
模試の結果は第一志望を狙える位置にあったが、確実に合格できる保証などない。ここで制作を優先して成績を落とせば、15歳へ戻った直後に決めたことを自分から壊すことになる。
平日は受験勉強を中心にし、音楽へ触れるのは気分転換として短時間だけにする。休日も午前中は勉強へ使い、午後に余裕がある時だけ『余白の先へ』を開いた。
それでも曲は少しずつ完成へ近づいていた。
毎日何時間も触らなくても、前回の作業内容をノートへ残しておけば迷わず再開できる。旋律やコード、ギター、ベース、ドラム、歌唱イメージといった確認事項も細かく記録し、その日に直す場所を決めてから制作を始めることで、限られた時間でも無駄を減らせた。
前の人生では、長時間作業すること自体を努力だと思っていた。
今は、短い時間で終わらせるために準備することも努力だと分かっている。
年末が近づいた頃、ようやく最後まで通して聞ける仮完成版ができた。
隼人はヘッドホンを外し、少し離れた場所からスピーカーで再生した。
夕暮れを思わせる静かなイントロから始まり、歌が入る。大きく盛り上げる場所は少ないが、後半へ進むにつれて伴奏が少しずつ広がり、最後のサビでは声の後ろへ薄く音が重なる。
そして終わり方は、完全には閉じない。
最後の音を強く決着させず、少しだけ続きを残す。
曲が終わったあとにも、聞いた人の中で何かが続くような形だった。
「……これならいいな」
隼人は最初から最後まで聞き終えたあと、制作ノートを開いた。
【『余白の先へ』】
【何かが終わったあと、その出来事を忘れるための歌にはしない。失ったものや終わった時間を抱えたままでも、その先へ進める曲にする。】
【歌唱は35歳の記憶へ寄せすぎない。今の17歳が、まだ終わっていない高校生活の中から卒業後を想像するように歌う。】
そこまで書き、ペンを置いた。
完成まで、あと少し。
しかし急ぐ必要はない。
公開予定は1月にしている。
受験勉強を優先しながら、年末から年始にかけて最後の調整を行えば十分に間に合う。
◇ ◇ ◇
大晦日の夜、隼人は家族と夕食を食べたあと、自室へ戻って机に向かっていた。
テレビの音が廊下越しに聞こえ、時々母の笑い声も混ざってくる。机の上には受験用の問題集が開かれており、その隣ではパソコンの画面に完成間近の『余白の先へ』が表示されていた。
隼人は問題集を1ページ終えると、答え合わせをしてからパソコンへ手を伸ばした。
歌を1か所だけ確認し、気になっていた呼吸音を調整する。
それ以上は触らなかった。
今夜の作業は、それで終わりにする。
保存して制作ソフトを閉じると、隼人は椅子へ座ったまま少しだけ部屋を見回した。教科書や参考書、アルバイトで貯めた金で揃えた制作機材、紗月から届いたイラストの途中経過、友人たちと撮った写真が、同じ部屋の中に並んでいる。
どれか1つだけを選ぶ必要はない。
全部を完璧に守れる保証もない。
それでも、最初から1つ以外を捨てる必要はもっとなかった。
隼人は制作ノートを開き、高校生活で最後に公開する予定の曲について短く書き加えた。
【急がない。受験を優先する。曲は逃げない。】
【高校最後の1曲だからこそ、音楽以外を捨てて完成させない。】
書き終えたところで、階下から母の声が聞こえた。
「隼人ー、そろそろ年越すわよー!」
「今行く!」
返事をしてノートを閉じる。
以前の自分なら、あと少しだからと作業を続けていたかもしれない。
けれど今は、迷わず椅子から立ち上がった。
曲の続きは明日でも作れる。
家族と過ごす今年最後の時間は、今しかない。
部屋の明かりを消して階段を下りながら、隼人は完成間近の『余白の先へ』について考えていた。高校生活が終われば大学生活が始まり、3曲を公開し終えてもLentoとしての音楽が終わるわけではない。
何かが終わった場所には、必ず次のものを置かなければならないわけではない。
しばらく何もない時間が続いてもいい。
その余白があるからこそ、自分で次に進む方向を選べる。
それは『余白の先へ』という曲に込めた意味であり、35歳から人生をやり直している隼人自身が、今度こそ忘れたくない生き方でもあった。




