第二十六話 尚造の秘密
――なぜ、尚造は“そこ”にいたのか。
語られなかった過去。
そして、新たに与えられる役目。
静かな夜の中で、
それぞれの立場が、少しだけ動き始める。
夜。
家の中は、静かだった。
風が、障子をわずかに揺らす。
文が、静かに口を開いた。
「……尚造さん」
尚造は、手を止める。
「どうして、士官学校に……?」
一瞬だけ、間。
尚造は視線を落とす。
隆造と尚綾が、わずかに目を合わせた。
「……昔の話です」
尚造は短く言う。
それ以上は、続けない。
だが――
隆造が、口を開いた。
「1920年」
静かな声。
「尚造が二十五歳の時」
「少し、面倒な縁があってな」
尚綾が、言葉を継ぐ。
「このままでは、あの子が潰れると思ったの」
「だから、村を出した」
文は、尚造を見る。
初めて聞く話だった。
尚造は、否定しない。
「全寮制でした」
尚造が続ける。
「外と、切り離された場所です」
「……ちょうどよかった」
静かだった。
それで、十分だった。
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足音。
廊下。
「おう」
戸が開く。
秀伍だった。
手を引かれているのは、小さな子。
ーー隆司。
まだ五つ。
「遅くにすまんな」
そう言って、座る。
隆司は、きょろきょろと部屋を見ている。
「……どうしたんだ」
隆造が聞く。
秀伍は、短く言った。
「頼まれた」
一拍。
「八原だ」
空気が、少しだけ変わる。
「教官を、やれとよ」
「昔の話をしろ、だと」
秀伍は、肩をすくめる。
「海兵の話なんざ、役に立つかは知らんがな」
少しだけ笑う。
隆造は、何も言わない。
ただ、頷いた。
尚造は、視線を落とす。
(……同じか)
隆司が、尚造を見る。
何も分かっていない目だった。
それでも、
まっすぐだった。
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昼。
机。
冊子が、積まれている。
尚造は、めくる。
読む。
止まらない。
赤で、線を引く。
余白に、書く。
「設問」
小さく呟く。
別の紙。
問題を書く。
・兵站
・持久
・集中
・地形
・遮断
・判断
手は、迷わない。
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夜。
また、机。
採点。
丸。
線。
沈黙。
日が、変わる。
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書斎。
灯り。
尚造は資料に目を落とし、手を動かす。
ページの文字は難解で、
見れば見るほど頭を悩ませる。
――そんなとき。
軽やかな足音が廊下を通り、
扉が静かに開いた。
「尚造さん……?」
振り返ると、
そこには白い着物姿の文が、
緑茶とみかんを手に立っていた。
「文……?」
尚造は驚きつつも、少し微笑む。
「夜遅くまで、仕事しているから……」
「心配で」
文の声には、
少しの寂しさと不安が混ざっていた。
尚造は資料から目を離し、文に近づく。
「父さんと母さんが知ったら、心配します」
一拍。
「だから、二人だけの秘密にしてください」
文は少し考え、頷く。
「……わかりました」
一拍。
「尚造さんの秘密ですね」
文はそっとみかんを差し出すと、
ついでに頬に軽くキスをした。
「ゲン担ぎです。頑張ってください」
尚造はその瞬間、
文の気遣いと可愛らしさに胸が熱くなる。
「文……ありがとう」
少し間を置き、
尚造は文の手を取る。
「……僕も、文に近づきたい」
文は目を閉じて応える。
それは、二人だけの静かで甘い約束。
互いの心が触れ合った瞬間だった。
机の灯りの中。
二人はお互いの存在をそっと感じながら、
布に囲まれた書斎で、未来に思いを馳せた。
⸻
(つづく)




