第二十三話 世界が揺れ、火は静かに燃えていた
世界の崩れ方は、
遠い国の新聞から始まるわけではない。
それは、
村の井戸端で交わされる
何気ない会話が変わることから始まる。
そしてある日――
一枚の紅型が、
思いもよらない場所へと
尚造を導くことになる。
1930年。
村の井戸端会議の話題が変わった。
「米が安くなったね」
「内地でも、仕事が減ってるらしいよ」
海の向こうで起きた
“世界恐慌”という出来事は、
ゆっくりと沖縄にも影を落としていた。
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仲村家でも、
静かな変化が起きていた。
隆造は工房で黙々と作業を続ける。
売上は、確実に落ちていた。
尚綾はいつも通り笑い、
食事を整え、家を支える。
文は、主婦として家計を見直していた。
そしてある夜――
尚造が静かに口を開いた。
「……九州の方が、人が多いです」
家族が顔を上げる。
「人口が多い分、
生活工芸としての紅型なら
まだ売れるかもしれません」
隆造は、しばらく黙っていた。
やがて頷く。
「行ってみるか」
それだけで決まった。
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数日後。
尚造と文は、九州へ向かった。
初めての夫婦だけの出張だった。
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熊本。
市街地は、沖縄よりずっと賑やかだった。
露店を回りながら、
尚造は静かに紅型を広げる。
商人たちは興味深そうに見るが、
商売は簡単ではない。
それでも、反応は悪くなかった。
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仕事の合間、
二人は阿蘇へ足を延ばした。
巨大な火口が、
静かに煙を上げている。
文は思わず息を呑んだ。
「……大きいですね」
尚造は火口を見下ろす。
風が強い。
しばらく黙ってから言った。
「……ここ、要塞に向いてますね」
文は驚く。
「え?」
尚造は外輪山を指差す。
「壁がある。出入口は限られる」
「中に入った軍は、逃げ場がない」
文は苦笑した。
「そんなこと考えるんですか?」
尚造は少し困った顔をする。
「地図を見ると、つい」
そして少し考えた。
「もし戦になって、
敵が上陸してきたら――」
火口の向こうを見つめる。
「島なら、もっと簡単です」
「どうして?」
文が聞く。
尚造は静かに答えた。
「海が壁になるからです」
少し間を置く。
「逃げ道がない」
文は何も言わなかった。
ただ、尚造の横顔を見ていた。
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その夜。
二人は温泉宿に泊まった。
湯気の立つ風呂のあと、
尚造は珍しく少しだけ笑った。
「……文さん」
「はい」
「こういう旅も、悪くないですね」
文も微笑んだ。
「はい」
それだけで十分だった。
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翌日。
熊本市街地の露店で、
一人の男が紅型を見つめていた。
眼鏡をかけた、静かな男だった。
男は紅型を指でなぞる。
「……これは」
尚造は答える。
「紅型です」
男は頷いた。
「地形だけでなく、
人の動線が描かれている」
尚造は驚いた。
「分かるんですか?」
男は少し笑った。
「仕事柄ね」
その男は名乗った。
「八原博通」
軍服ではないが、
立ち居振る舞いが少し違った。
「これは、いくらだ?」
尚造が提示した額を見て、
八原は即座に買った。
「安い」
尚造は言葉を失った。
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別れ際、八原は言った。
「君、地図が好きだろう」
「……はい」
八原は静かに笑う。
「それは、武器になる」
尚造は、その意味を深く考えなかった。
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沖縄に戻ると、
家計は一時的に持ち直した。
隆造は胸を撫で下ろす。
尚綾は何も言わず茶を出す。
文は、少し安心した顔で笑った。
仲村家に、平穏が戻る。
――表向きは。
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数ヶ月後。
尚造の元に
一通の手紙が届いた。
差出人の名は書かれていない。
だが、尚造には分かった。
「あの人だ」
封を開ける。
そこには、短い言葉があった。
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上海に来ないか。
世界が見える。
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尚造は、少しだけ笑った。
この時、彼はまだ知らない。
この旅が、
家族の運命を大きく変えることを。
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(つづく)




