第十三話 夜の工房――逆プロポーズ
国がなくなっても、
人は生きていかなければならない。
城を出た姫と、
工房に生きる職人。
身分も、立場も、
すべてが過去のものになった夜。
残ったのは、
「誰と生きるか」という
問いだけだった。
そしてその答えは、
驚くほど率直な言葉で、
静かな工房の扉を叩く。
夜更け。
油灯の淡い光が、
静まり返った工房を揺らしている。
隆造は一人、
作業台の前に座っていた。
手元には、一枚の紅型布。
まだ未完成の試作。
島々の輪郭はあるが、
どこか“止まっている”。
筆を持つ。
だが、動かない。
「……」
わずかに息を吐く。
布に触れる。
指先でなぞる。
波。
星。
島影。
――離島での測量。
――船上の、何気ない会話。
――星空の浜辺。
そして。
――彼女の横顔。
指が、止まる。
「……これは」
かすかな声。
「何のために、描いた」
答えは出ている。
だが、口にしない。
筆を置く。
代わりに、
布をゆっくりと折りかけて――
止める。
「……違う」
小さく、首を振る。
もう一度、布を広げる。
「終わったから、描くのか」
「終わったから、やめるのか」
問いは、自分に向けられている。
静寂。
染料の匂いだけが、
夜の工房に満ちている。
「……選べ、か」
ぽつりと呟く。
夕暮れの言葉が、蘇る。
筆を、再び持つ。
わずかに震える手で、
布の“余白”に触れる。
だが――
そこに、色は置かれない。
「……まだ、決めきれない」
正直な声。
その時。
戸を叩く音。
隆造は、
はっとして顔を上げた。
⸻
戸を開けると、
そこに立っていたのは――
白い装束に身を包んだ
尚綾。
飾りはなく、
最低限の荷物だけを手にしている。
夜風が、彼女の裾をわずかに揺らす。
「……ひ、姫様……?」
尚綾は静かに首を振る。
「今夜は、
その呼び方をされに
来たのではありません」
沈黙。
「私、明日から、家がありません」
一歩、踏み出す。
「隆造」
一拍。
「私を、あなたの家に置きなさい」
隆造は言葉を失う。
「妻にとは言いません」
「ですが――」
一拍。
「あなたと共に生きたいのです」
沈黙。
隆造の胸が大きく上下する。
⸻
隆造は、
深く息を吸い、
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「……姫様……いや」
視線を上げ、尚綾を見る。
「綾さん」
尚綾の目が、わずかに揺れる。
「あなたのことを、
ずっとお慕いしておりました」
一拍。
「なので……」
「あなたが僕の家に来てくれて、嬉しいです」
尚綾の表情が、
初めて柔らかくほどける。
⸻
隆造は戸を大きく開ける。
「寒いので、中に入ってください」
「……散らかっていますが」
少し照れたように付け加える。
「染料の匂いは……
嫌いじゃないと思います」
尚綾は微笑んだ。
一歩中へ入り、空気を吸い込む。
「ええ」
「生きている匂いがします」
⸻
夜。
灯りを落とした部屋。
「あの……」
隆造が、
気まずそうに布団を指差す。
「布団が、一枚しか無いのですが……」
尚綾は少し考えるふりをして、
くすりと笑う。
「では、その布団を半分ずつ使いましょう」
隆造の顔が一気に赤くなる。
「……は、はい……」
二人は布団に入る。
距離は近いが、触れ合わない。
染料の匂いが、ふわりと残る。
しばらくして――
尚綾が呟いた。
「……あたたかいですね」
隆造は天井を見つめたまま、
短く答える。
「……はい」
夜は深く、静かに更けていく。
――ここから先は、
王でも姫でもない、
二人の人生が始まる。
その歩みが、
やがて一枚の紅型に刻まれ、
時代を越えて受け継がれていくことを——
この夜の二人は、
まだ知らない。
⸻
隆造編 前編・完
ここから先、
物語はいったん外伝に移ります。
王府を離れた後の世界で、
王子・尚典が
東京でどんな日常を送ったのか――
少しだけ、軽い物語を挟ませてください。




