第一話 清の使節――琉球に来た“林の血”
この物語は、
仲村継が展示した
一枚の紅型が生まれる、
はるか以前の話である。
ーー1879年。
まだ「沖縄」という名も、
まだ「日本」という枠組みも、
まだ「戦争」という言葉すら、
この島々に深く影を落としていなかった頃。
琉球王国には、
今日も変わらず、海があり、花が咲き、
人が笑っていた。
――そしてその日、
やたらと声が大きく、
やたらと距離感の近い、
一人の清国の使節が現れる。
この男が、100年以上後、
継を悩ませることになる
あの人物の先祖だとは、まだ誰も知らない。
——そしてこの出会いが、
すべての始まりになることも。
その使節は、
最初からうるさかった。
「おお! なんと美しい王城でしょうか!」
「いやはや、海の色が違う! 空が近い!」
「これは噂に違わぬ、楽園ですなぁ!」
首里城の中庭で、
清国の正装に身を包んだ男が、
一人だけ異様なテンションで
声を張り上げていた。
周囲の琉球官人たちは、
全員、微動だにしない。
――慣れている。
こういう「賑やかだが役に立たない使節」には。
「……あの方が、
今回の清の使節です」
尚綾は、
涼しい顔でそう言った。
隣にいる世子(=次期国王)
尚典が、ちらりと使節を見て、
眉をひそめる。
「……ずいぶんと、軽いな」
「ええ。羽のように」
その瞬間だった。
「おおっ! そちらのお方は――!」
使節が、
尚綾を見つけた。
距離感を完全に無視し、
ずい、と一歩前に出る。
「なんという美しさ……!
これは失礼、もしや王族の方で?」
尚綾は、
一切表情を変えずに答えた。
「下がりなさい」
声は静かだったが、
空気が一段、冷えた。
「おおっと!
これは失礼しました!」
使節はまったく懲りず、
笑顔のまま頭を下げる。
「いやあ、
あまりにもお美しかったもので!
つい、言葉が――」
「無礼者」
低い声が割り込んだ。
尚典だった。
使節の真正面に立ち、
感情の一切を削ぎ落とした目で睨む。
「姉上に、気安く話しかけるな」
場の空気が、
ぴしりと張り詰める。
「……あ、これは、ええと……」
使節はようやく
自分が踏み越えた一線に気づいたらしく、
視線を泳がせた。
尚綾は、
小さくため息をついた。
「殿下。これ以上は結構です」
「……承知しました」
尚典は一歩下がるが、
視線は最後まで使節から外さなかった。
⸻
その様子を、
少し離れた工房の中から、
紅型職人たちがこっそり見ていた。
「……見たか、今の」
「姫様、今日もお美しいな……」
「いや、美しいとか以前に、怖い」
「目が合ったら、斬られそうだ」
数人の職人が、
ひそひそと盛り上がる中――
一人だけ、
黙々と布に向き合っている男がいた。
隆造。
恋愛にも、噂話にも、
まるで興味がないかのように、
ただ黙々と染めを重ねている。
「……あの人が、隆造だそうですよ」
尚綾は、
工房の奥を見つめながら、
そう呟いた。
「王府付き紅型職人の中でも」
「特に几帳面で、特に無口で」
一拍。
「特に……変わっている、と」
尚典が言う。
「姉上、興味が?」
「ええ。少しだけ」
尚綾は、
初めてわずかに微笑んだ。
その視線の先で、
隆造はまだ知らない。
――この出会いが、
やがて彼の人生を、
そして琉球の“布の運命”を、
大きく変えていくことを。
その始まりが、
こんなにも騒がしく、
こんなにも平和だったことを。
⸻
(つづく)




